東京大学史料編纂所

所報―刊行物紹介

大日本古記録斎藤月岑日記六

本冊には日記原本第一九冊から第二二冊まで、安政二年(一八五五)から同五年にわたる四年分を収めた。月岑が五二歳から五五歳の時期に当たる。
町方の支配に関わる大きな出来事としては、安政二年の大地震発生と同五年のコロリの流行があげられる。安政二年一〇月二日に発生した安政大地震は、火事とあいまって甚大な被害を出した。月岑は前年に続いて市中取締掛・諸色掛・世話掛・人別掛を兼帯しており、地震直後から支配町々や同じ名主組合の同役、知人を見舞うとともに、町奉行所の指示を受けて被害状況の把握や職人手間賃の抑制に関わる対応などにつとめている。また安政五年には「七月末より頓死のもの多し」(七月二八日)、「コロリと云病彌はやる」(八月一六日)として病死者の名前を随所に書留めており、「流行病大方止む」(九月二七日)とされるまでコロリの流行に伴う病気人数調べなどに従事した。その最中の八月八日には将軍徳川家定死去(安政五年七月六日)に伴って鳴物停止が仰出され、月岑は与力下役等による道筋の見分に立ち合い、町々の見廻りを行なっている。
他の町名主の動向としては、名主全体の指導的立場にあった定世話掛の熊井理左衛門・石塚三九郎・鈴木市郎右衛門が安政四年末に役儀取放し・諸掛御免とされた一件がある。三人は翌五年二月末に入牢したが、鈴木・石塚は重体となったため町役人預りとされ三月に死去、熊井には四月に重追放の処分が下された。また、月岑の姉の嫁ぎ先でもあった小網町名主普勝(ふかつ)の家督に関わる一件がある。前当主伊兵衛の養子で弘化四年三月に名主役を継いだ伊十郎は安政三年六月二九日に家出し、翌年八月一五日に欠落御帳付の扱いとなった。家財は妻子に引き継がれて普勝家の存続は許されることとなったが、安政五年九月二〇日伊十郎は浅草で逮捕され、同一〇月一八日攘夷運動関係者とされた者たちとともに改牢屋敷預となった(維新史料綱要データベース)。
青物役所関係では、引き続き取締役をつとめていたことから、青物・土物・水菓子・乾物類の不注進や納め方に関する記事が多い。安政二年八月に願下げとなった薩摩芋屋一件、同年九月の玉子屋一件など、内容は不明ながら個別の品目に即した争論をめぐって関係者が出入りする様子や、納め方の「御仕法替一条」についての納人への申渡しなども記されている。
前冊で増加した異国人や異国船についての記事は、安政二年から減少し、同四年一〇月以降、アメリカ総領事ハリスらが将軍家定への謁見と通商条約交渉のため江戸に入ってから再び増加している。町奉行所に呼び出され相談した結果、取締掛名主たちはハリスの宿所となった九段坂下の蕃書調所近くに交代で詰め、品物の調達等にあたることとなった。安政五年にはこの当番についての記述はみられなくなるが、江戸に滞在した諸外国の使節が外出する際に出役しており、異国人や異国船の動静についての記事も少なくない。
月岑の身辺に関わることとしては、自身の再婚がある。安政元年五月に前妻おれんを病気で亡くした月岑は、安政三年一一月一〇日、後妻としておまちを迎えた。同年四月一〇日、月岑は三河挙母藩主内藤家の家老からの縁談を断りに出向いたが、このとき月岑に同道した御水菓子屋の三河屋五郎兵衛は、四月二七日に駒込邸(中屋敷)詰の水戸藩士秋田内膳を訪ね、六月四日には月岑も初めて秋田を訪問した。七月二九日に三河屋の手紙が秋田に届けられた後、三河屋は月岑と秋田のもとを何度も訪れ、九月二九日にはおまちの簪を月岑のもとに届けている。おまちを水戸に迎えに行き、その所持品を婚儀前に別荘に預かったのも三河屋であり、おまちとの縁を取り持った経緯がうかがわれる。この後、安政五年正月には息子松之介が誕生し、また同年一二月には娘おつねが御蒔絵師の幸阿弥因幡の息子久之丞に嫁いでいる。その一方、小網町名主普勝伊兵衛に嫁いだ後も頻繁に月岑宅に出入りしていた姉(六〇歳)が安政五年八月二五日にコロリで、九月一一日には母ひさ(八〇歳)が「俄ニ病気」となり急逝するなど不幸も相次いだ。
なお、安政元年一二月二八日に類焼したため月岑一家は土蔵で安政二年を迎えている。弘化三年正月の類焼時と同様、間取図を日記に記しており、安政二年四月一七日には建前も済んだが、同年一〇月の安政大地震や、翌三年八月二五日の大風雨などにより土蔵も含めて破損し、安政五年一一月一五日には再び類焼するなど、たびたび被害に見舞われている。
文化的活動としては、安政大地震に関連した情報収集をしていることがあげられる。安政三年四月五日には賄頭の山本新十郎へ「地震一件」を貸した記事があるほか、五月一六日には「地震の画入板本」である「安政見聞誌三冊」を借りたことも記されている。「武江年表」には日記よりはるかに詳細な被害状況が記されており、また「安政乙卯武江地動之記」を著していることから、毎日の日記とは別に専ら地震関係のことを書き記した帳面が存在したと推測される。
口絵には、彗星の挿絵とコロリの流行による死者の書上げがある安政五年九月二日条以下の部分をあげた。病死者の中には、弘化三年九月に初めて訪問を受けて以来交流のあった「一立齋廣重」(浮世絵師歌川広重)の名もみえる。安政大地震の前から地震の記事は多くみられたが、大地震後も地震には当然注意を払っており、コロリが流行し人心穏やかでない時期に出現した彗星についても、月岑は細かい観察を加えている。
(口絵一葉、例言一頁、目次一頁、本文三四四頁、本体価格九、六〇〇円)
担当者鶴田啓・杉森玲子


『東京大学史料編纂所報』第42号p.34