大日本古記録 民経記十

最終冊である本冊には、第九冊に引き続き文永四(一二六七)年十月から同九年七月までの本文と本文補遺を収め、さらに解題・略系・略年譜・補訂表・索引を附載した。本冊の刊行をもって、一九七五年四月の第一冊刊行以来、三十二年間に亘る『民経記』の編纂がひとまず完了した。
本文として収めた部分は記主藤原経光晩年の五十六歳から六十一歳にあたり、正二位民部卿(前権中納言)であった。この時期には息男の兼頼・兼仲が活躍するようになっているが、これまで通り経光自身も朝廷周辺の動向について詳しい日記を残している。経光は六十三歳の文永十一年四月十五日に亡くなるが、おそらくその直前まで日記を書き続けていたのであろう。
本文のうち記事がまとまって残る文永四年冬記の部分は、並行して記されている暦記・日次記の両方とも、第九冊に引き続き国立歴史民俗博物館所蔵の原本を底本とした。暦記は文永四年一年分で一巻(間空き一行)であるが、本冊には十月以降の部分を収めた。
これ以外の部分は断片的な記事が残るだけであるが、それらは原本の影写本(『春日経供養家記抄』)や、抄出本及びその断簡、部類記や記事の目録などを底本としながら、日記の書かれた当初の形態に復元することに努めた。記事の配列などの編纂方針は第八冊・第九冊と同様である。
原本以外で本文の底本として今回新たに収めたものには、①『経光卿記』自文永五年十月五日至十一月十六日(国立歴史民俗博物館所蔵、架番号H六三/七二五)、②『経光卿記目録』(東京大学史料編纂所所蔵、架番号〇〇七三/七)、③『旧記抜書鬼間議定部類』(陽明文庫所蔵、架番号第十三函一四)などがある。
①は文永五年十月五日に始まる後嵯峨上皇の出家と逆修の仏事に関する記事のみを抄出したものである。鎌倉後期の古写本で、記事に附された首書と最後の十一月十六日条は経光男兼仲(一二四四~一三〇八)の筆跡であると思われる。前欠で、下郷共済会所蔵の断簡一紙が直前に接続する(この断簡も前欠)。経光の日記の書き方として、後から記事を追加することが予想される箇所には最初から数行分空けておくことが原本に見られるが、この写本にもそのような箇所があり、原本の体裁をよく伝えている(巻頭図版参照)。②は記事全般の目録であり、筆跡からみて経光孫光業(一二八六~一三六一)の作成したものと思われる。光業が何度も『民経記』を閲覧して目録を作成したことは『民経記』原本各巻の奥書に見えているが、これはまさにその一部であろう。現存するものは文永五年七月途中から年末までの部分で、前半を欠いている。③は部類記であるが、その中に文永九年六月二十五日・七月二日の「経光卿記」が収められており、これは現在知られる『民経記』最後の記事である。なお、「経光卿記」部分の筆跡は近衛道嗣(一三三二~八七)のものと思われる(陽明文庫長名和修氏の御教示を得た)。
本文の記事では、これまで通り後嵯峨院政下における院評定について特に詳しい(文永四年十月六日、十一月一日・六日・二十七日、十二月二日・二十一日など)。記事の目録のみが伝わる文永五年記の部分でも、評定の議題を具体的に知ることができ、例えば同年九月二十八日の院評定において、藤原定嗣が「延喜八年以後格」の撰集を説いていたことが見える。これは『延喜格』撰進以降の格を編纂しようとする提案であり、大変興味深い。このほかには、経光が仕えている藤原基平の関白就任と奏慶(文永四年十二月九日・十三日)や、後嵯峨上皇の出家と逆修(文永五年十月五日以降)などの記事についても詳しい。
本文補遺には、嘉禄二年から寛元四年までと、年次未詳の記事を収めた。これらは既刊部分の出版後に存在が判明するなど、これまで未収であったものであり、原本やその断簡、写本・抄出本・部類記・雑記などから記事を蒐集して年次順に配列した。このうち、『守光公雑記断片』(国立歴史民俗博物館所蔵)に見える貞永元年正月七日条は、これが『民経記』であることは明記されていない。しかし、内容から蔵人の記録と考えられる(経光は当時五位蔵人)ことと、これを書写したとされる広橋守光(一四七一~一五二六)は『民経記』を盛んに抄出していた(第八冊・第九冊に多くの守光抄出本を収めた)ことから、この記事が『民経記』である可能性が高いと判断し、補遺に収めた。また、仁治三年二月一日・三日・八日条の底本とした『御即位記』(広橋興光氏所蔵)も、筆跡から守光(または父広光)の抄出と考えられるものである。仁治年間を収めた第八冊の刊行後に存在を知ったため、これ以外に第八冊本文の文字を補訂する箇所は補訂表に示した。
本冊の編纂にあたり、これまで通り多くの所員から部室の枠を超えてさまざまな協力を得た。特に紙背文書の解読については宮崎肇氏からも御教示を受けた。また、以下の通りご訂正頂きたい(石田実洋氏・小川剛生氏から御指摘を得た)。

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.42*-44*