東京大学史料編纂所

所報―刊行物紹介

大日本古記録後法成寺関白記三

本冊には、大永三年(一五二三)から享禄四年(一五三一)に至る九ヶ年のうち、原本が残存する六ヶ年分(大永三年・六年・享禄元年・二年・三年・四年)の本文ならびに紙背文書を収めた。記主近衛尚通の五二歳より六〇歳に至る記録である。前冊と同様、陽明文庫所蔵の原本を底本とした。
今回収録した期間には、政局に大きな変化があり、武家を中心として登場人物に大幅な変動が見られる。記事を欠く年次であるが、永正十八年(一五二一)三月、将軍足利義稙は細川高国と対立して京都を去り、同年十二月には高国によって足利義晴が擁立されている。また大永六年冬、高国政権内部の対立から政情が流動化すると、翌七年春には将軍義晴・高国勢が京都を退き、代わって細川晴元勢が入洛するなど、情勢は目まぐるしく変動し続けた。こうした混乱は、享禄四年六月に高国が敗死するまで続いており、まさに本冊の収録範囲に対応している。高国と懇意であった尚通にとって、同勢力の衰退・滅亡は大きな衝撃であり、その動静が詳く書き留められている。なお朝廷においても、大永六年四月に後柏原天皇が崩じ後奈良天皇が践祚しており、情勢に変化が見られた。
中央の混乱が深まるのと平行して、尚通は遠隔の戦国大名と交流を重ねている。周防の大内氏・越後の長尾氏・能登の畠山氏とはもとより密接な関係を有していたが、加えて薩摩の島津勝久・北関東の上杉朝興・相模の北条氏綱などとの往来が頻繁に確認されるようになる。紙背にもこうした大名に充てた書状案が多数残されている。とりわけ口絵図版として掲出した享禄三年十一月二八日付の島津勝久充書状案(享禄四年冊第十一丁紙背)は、その正文が本所所蔵島津家文書に残されており(『大日本古文書島津家文書』二ノ六五五号)、注目に値する。また都鄙間を往来する山伏・連歌師・商人などもしばしば記事に見え、尚通を取り巻く人脈の一端を窺い知ることができる。
次に大永・享禄年間における尚通の近親者の動向についてふれておきたい。嫡子稙家は大永三年三月に二一歳で右大臣に任じられ、さらに大永五年四月には関白となり、以降本冊収録の期間、その地位を保っている。尚通は若い稙家の後見として、様々な助言を与えていたことが垣間見える。大覚寺に入っていた息の禅意(後の義俊)は、大永八年三月に「新門主」と記されるようになるが、門跡譲与をめぐって前門主性守との間になんらかの軋轢があったと見られ、正式な譲与状を得るには翌享禄二年八月を待たねばならなかった。なお享禄三年十一月、隠居所に移った性守は盗人に殺害されてしまう。最後に、尚通息の一人が享禄四年十一月に久我通言の養子となり、同家に移ったことに触れておきたい。これは通言の嫡子邦通が同年六月に死去したこと受けたものである。この息は永正末年の生まれで、後に久我晴通を名乗ることになる。通言室は尚通室維子と同じく徳大寺実淳の娘であり、尚通息は通言夫婦からみて甥にあたる。こうした関係から通言は養子に請うたのだろう。
今回、底本とした六冊の自筆本には、ほぼそのすべてに紙背文書が残されている。前回までと著しく異なる特徴は、尚通筆の案・土代以外に、他者の筆になる文書が多数含まれている点である。なぜ大永以降の冊でこうした変化が現れるのか今のところ判然としない。尚通筆の史料としては、前述した大名宛書状案のほか、詠草・歌題の書き上げなどが多く存在する。他筆のものはその多くが仮名書状であるが、その宛先は尚通のほか近親者にあてたものもあり、反古の利用が家をあげてなされていた様が窺われる。仮名書状のなかで、特にふれておきたいのは、口絵図版にも掲出した独特の形式の折紙が存在することである。一枚の紙を縦に折り、さらにそれを横に折って文字を記している。展開すると墨付きは紙の右半分のみで、左半分は白紙となる。こうした折紙が当該時期に一般に用いられたものか否か、今のところ不明であり、今後広く類例を検出することに務めねばならない。
なお本冊の編纂にあたっては、種々陽明文庫長名和修氏のご教示に預かった。記して謝意を表するものである。
(例言二頁、目次一頁、本文二五二頁、紙背文書例言一頁、紙背文書七二頁、巻頭図版二頁、本体価格一二、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者井上聡


『東京大学史料編纂所報』第42号p.44