大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料二十五

本巻には、万延元年二月の史料と、幕政関係史料(万延元年正月~二月)・探索関係史料(万延元年正月~二月)を収録し、万延元年二月上旬のものと推定される某書状(第五二号)を口絵図版として掲載した。なお、本史料は白絹布に墨書されており、水戸藩の国許の内情を報じた密書と思われる。
以下、収録史料の主な内容を紹介するが、本巻には桜田門外の変直前の緊迫した情勢を伝えるものが少なくない。
【水勅返納問題】二月朔日、老中安藤信睦は高松藩主松平頼胤と面会し、今度こそ勅諚返納は必至との情報を得ているが、多少の不安とともにこれを大老井伊直弼に報じた(第一号)。一方、七日には、水戸藩主徳川慶篤が松平頼胤に対し、既に五日までの返納を命ずるため水戸に小姓頭取二名を派遣したのだが、未だ音沙汰がなく国許の事情を掌握できていない苦境を語っており、藩主としての自信を喪失した慶篤は、返納完了後には隠居を出願する意向を頼胤に漏らしている(第九号)。翌八日、慶篤は再度頼胤に書状を送り、十五日までには返納する積りだが、未だに国許から何の報告もなく心配している様子を伝えた(第一〇号)。しかし、十九日に至っても国許から慶篤への報告はなかった。このため慶篤は、国許で蟄居中の前水戸藩主徳川斉昭が表座敷に出座して家中に説諭すれば、返納も速やかに行なわれるのではないかと考え、幕府からその許可を得られるよう、頼胤に尽力を依頼したのだが(第三〇号)、頼胤はこれを拒絶している(第三六号)。
【長岡勢その他水戸藩情勢】二月十四日付で国許の水戸藩士佐藤図書・朝比奈弥太郎・蘆澤総兵衛から江戸詰の小野孫七郎に宛てた書状によれば、勅諚返納の延引は、国許の執政以下諸役人たちの所業であり、彼らが従来の悪事露顕を恐れ、長岡勢を指嗾していることが原因なのだという。このため老中安藤に依頼して幕府による粛清・取締を断行しなければ、返納は困難だとされている(第二一号)。口絵図版とした某書状(第五二号)も、国許の藩庁が表向きは長岡勢の鎮撫を唱えながら、実際にはこれと内応している点を指摘している。十八日夜には、水戸城下の消魂橋付近で、鎮撫のため出動した鳥居瀬兵衛らの一隊と長岡勢が衝突し、双方に多数の負傷者が出る事件が発生した(第三二号、幕政関係史料第八〇号、探索関係史料第九一・九三・九四号)。翌十九日夜には、慶篤の書状が直弼の許に届けられ、水戸藩では、高橋多一郎らの同藩評定所への召喚と長岡勢追捕の両件を昨十八日に発令したことを知らせるとともに、長岡勢がもし御府内に侵入することがあれば幕府の手で直ちに召捕ってほしい旨を直弼に依頼している(第三一号)。なお、本件の正式な届出は、水戸藩城附から老中松平乗全と安藤宛になされている( 37)史料編纂(第三二号が水戸藩城附届書か)。高橋多一郎一味と長岡勢に対する処置については、慶篤から頼胤へも伝えられるが、その際慶篤は、万一御府内に侵入した長岡勢による狼藉を心配し、当分の間夜間の外出を控えるよう頼胤に警告を発した(第三三号)。頼胤宛の慶篤書状に記載はないが、直弼にも同様の注意を促している旨が、水戸藩使者の口上によって高松藩に伝えられている(第三六号)。二十一日、水戸藩から国許の情勢を報知された安藤は、これまで町奉行・勘定奉行には御府内に侵入した長岡勢の召捕を命じてこなかったのだが、改めて下達すべきかどうか直弼の内慮を伺った(第三五号)。安藤は同役の松平乗全にも相談するが、乗全からの返答は明日登城して決定すればよいとのことであった(第三九号)。こうして翌二十二日、幕府は、老中安藤邸において、会津・関宿・土浦・古河・笠間・宇都宮藩に、万一長岡勢が他領へ侵入した際の召捕を命じ、町奉行・勘定奉行には、水戸を出奔した高橋多一郎らが御府内や他領へ侵入した際の召捕を命じたのである(第四〇号)。
【和宮降嫁問題】九条家家士島田龍章は、かつて在京中の長野が秘かに語った将軍徳川家茂への皇女降嫁策について、関白九条尚忠もこれを急務と考えているので、ぜひ直弼の意見を伺いたい、と二月二日付で長野に書通してきた(第三号)。当時、家茂は元服を明年に控え、二月中には前髪を取る予定であった(二十七日執行)。そうなると御伽女中が定められるので、家茂自身も縁談を早く決定したいと希望しており、大奥の意向を確認したうえで、和宮との縁談を内定する手筈となったのである。家茂と和宮は弘化三年(丙午の年)生まれの同い年であったが、民間では丙午同士の夫婦は好ましいとされていたようであり、大奥老女も同様の見解を示していた(第五一号)。九日には、長野が島田に書状を送り、幕府では降嫁を奏請する皇女を、家茂と同年の和宮に内定した模様なので、その下準備を九条に依頼したい、その際和宮を准后九条夙子の養女とする内沙汰は重畳である、他の宮家と和宮との婚約が内定しないうちに配慮されたい、との直弼の意向を伝えた(第一一号)。本件は同日付で長野から京都所司代酒井忠義の側近三浦吉信にも伝えられ(第一二号)、まずは大老と関白・所司代との内談により事を進めていくこととなる(第二七号)。長野から和宮降嫁奏請内定の知らせを受けた島田は、さっそく和宮と有栖川宮熾仁親王との婚約を解消する裏工作を開始し、十八日付でその経過を次のように長野へ報告している。もともとこの縁談は、鷹司政通が関白のとき熾仁親王に強要したものであり、有栖川宮家では迷惑がっているようで、未だ結納なども行なわれていなかった。そこで九条の意を受けた島田が、家茂への降嫁の件は伏せたまま、有栖川宮家に婚約辞退の仲介を申し出たのである。島田の観測では、恐らく今日・明日中には同宮家より婚約を辞退する旨の返答があるだろうとのことであった。また、和宮降嫁を孝明天皇が内諾したならば、直ちに表立って奏請したいとの直弼の申し出についても九条は了承している(第二五号)。一方、和宮降嫁とともに、田安家家主徳川慶頼の長女喜久を家茂の養妹として祐宮(孝明天皇第一皇子、後の睦仁親王)の許へ入輿させる計画も密議されていた。本来これは前将軍徳川家定の娘を入輿させる計画であったのだが、故家定には実子がいなかったため、今の内に喜久を家定の養女であったことにしておき、万一この養女偽装の内情が露顕した場合でも、実は喜久は家定の密子であったのだと釈明すれば、朝廷も不都合はないであろうと所司代側では目論んでいた(第二八号)。さて、幕府による和宮降嫁策の実現には、熾仁親王との婚約の存在が障害となっていたのだが、当初、九条による天皇への説得工作は、島田・三浦ら関係者以外には他言せず極秘裏に進める計画であった。ところが十六日頃、小浜藩用人本多孫左衛門の失言によって和宮降嫁の風聞が漏れ、御内儀向は大騒動となる。三浦の奔走で事態は鎮静化するものの、もはや和宮降嫁の風聞は天皇の耳にまで達してしまい、九条は当初の手筈を変更せざるを得なくなってしまった(第四六号)。しかしながら、三浦の尽力により何とか事態を収拾した幕府側では、九条に依頼して天皇・朝廷から和宮降嫁の内定を取り付けた後、正式に所司代経由で降嫁を奏請する段取りを整えたのである(第五〇号)。
【徳大寺公純・中山忠能の議奏退役問題】二月九日付で長野は三浦に書状を送り、先月二十八日付(第二十四巻第五〇・五一・五二号)で所司代から伺いのあった徳大寺・中山両卿議奏退役の件については、叡慮に逆らうようになっては宜しくないし、九条も三月節句過ぎまでの猶予を望んでいるので、都合よく延期されることを希望する、また両卿退役を幕府より表立って命じ東京大学史料編纂所報第42号2007年10月( 38)たならば朝廷の不面目となるだろうから、実情を天皇に奏上して理解を求め穏便に決着させたい、との直弼の意向を伝えた(第一二号)。こうした直弼の内慮に基づき、酒井は所司代限りで本件を処理することとし(第二七号)、和宮降嫁への影響を懸念して暫時延期を希望する九条の意向を了承する措置をとったのである(第四六号)。
【大坂町人への江戸城本丸普請御用金賦課一件】既に先月十七日、大坂町奉行は、大坂町人に対して、江戸城本丸普請の御用金上納を命じていたが(第二十四巻第四五号参看)、大坂城代松平信義は、二月二十六日付の直弼宛書状の中で、大坂町人たちには、当初は上納高を些少に申し出ておき、奉行所役人の説諭を受けて徐々に増額していく宿弊があるため、未だ御用金の総高を上申できる状況には至っていない、しかしながら、何とか鴻池屋が五万両の上納を了承し、加嶋屋も同様の見込みである、これに習って他の町人たちにも身分相応に上納高を増額させるよう努めたい、とその後の状況を説明している。さらに、大坂町人に御用金が賦課された場合、堺・兵庫・西宮町人へも同様に御用金上納が命じられる先例の存在が念のため報知されている(第四五号)。その後、今回の御用金上納高を増額させる手段として、大坂城代の判断により、嘉永度に賦課した御用金の残高を免除するよう措置したことが二十九日付書状で直弼に報告され、幕府からの正式な免除の下達が求められている。なお、堺・兵庫・西宮町人への御用金賦課の件は老中に伺ったうえで取計うこととなった(第四九号)。
【幕政・探索関係史料】本巻の後半には、幕政関係史料として、江戸城本丸普請関係史料のほか、佐賀藩から願い出のあった天草島の同藩預地化に関する勘定方評議書(第七〇号)などを収録した。探索関係史料としては、彦根藩邸に潜入した水戸藩士による直弼襲撃計画(第八三号参看)など虚実入り混じった水戸藩関係の諸情報や、京都市中・幕府役人関係の風聞、横浜のオランダ船長殺害事件に関する報告(第八七号)などの届書類を収めた。
(目次一四頁、本文三〇二頁、口絵図版一葉、本体価格一六、三〇〇円)
担当者横山伊徳・杉本史子・箱石大

『東京大学史料編纂所報』第42号 p.37*-39*