大日本史料第十編之二十五

本冊には、正親町天皇天正二年一〇月・一一月・閏一一月・一二月の四ヶ月および是歳条を収めた。
九月末に一向宗徒の籠もる伊勢長嶋を攻め、これを陥落させた織田信長がこのとき当面していたのは、河内高屋城に拠る三好氏であった。明智光秀・塙直政・羽柴秀吉・丹羽長秀・長岡藤孝・佐久間信盛ら主だった部将を河内に派遣し、高屋攻めを継続するとともに、軍勢の一部を大和に入れる。秀吉を奈良に駐在させるいっぽうで、学侶と堂衆の対立が緊迫の度を増しつつあった法隆寺に塙直政を遣わし、その和睦につとめるなど、大和支配を強めつつあった(一一月一〇日・一三日条)。また部将荒木村重は摂津伊丹城に拠る伊丹忠親を攻め、同城を陥れている(同十一五日条)。
中国では、備中松山城に拠り毛利氏に属していた国人三村元親が毛利氏に叛旗を翻したため、毛利輝元は小早川隆景らとともに備中に出陣し、これを攻めた(閏十一一月二十〇日条)。もともと三村氏と対立していた備前宇喜多直家が毛利方についたことを遠因として、毛利氏と三村氏の溝が深まったらしいが、本書に収録した「上利文書」「牧文書」などによれば、毛利・宇喜多側に対し備前・備中・美作の国人である浦上・三浦・三村氏が結んでこれに抗し、そこに豊後大友氏が背後から支援を行なっていたとみられる。その後元親は毛利氏の軍勢によって徐々に追いつめられ、翌天正三年正月には領内諸城を落とされたすえ、同五月に自殺する。
四国では、長宗我部元親が、土佐国司として同国西部を領していた一条兼定を豊後に追放し、一条家中を実質的支配下に置くいっぽう、同国東部では豊楽寺をはじめとした大規模な寺社修造を行なっており、元親が土佐一国をほぼ掌握したことが見て取れる(一一月七日・閏一一月一一日・一二月一三日条)。
九州では、平井経治の拠る肥前須古城が、龍造寺隆信により攻略されている。経治は大友宗麟と通じて反龍造寺の動きを見せており、七月にも隆信の攻撃を受けていた。須古城は交通の要衝にあたり、のちに隆信が西肥前に進出する足がかりとなった(一〇月一七日条)。
島津氏については、前冊にひきつづき『上井覚兼日記』から多くの史料を収めた。この年正月島津氏に服属した伊地知氏に対する所領の変更や、野心の風聞が立った菱刈氏に対する所領の召し上げなど、なお国衆の不穏な動きは消えず、細心の注意を払って対応策をとっている(一〇月三日・同五日・一一月二〇日条)。また、入来院重豊が自領に入った他領内の人物を捕え、島津氏の許可なく殺害したり、領内福昌寺に逃げ込んだ山賊を島津氏の役人が殺害したことにより、住持守仲代賢が辞意を示しこれを島津義久が懸命に説得するなど、検断と法に関係する興味深い事件を収めた(一〇月五日・一二月一九日条)。
また内政だけでなく、義久は、種子島時堯に屋久島の網子を安堵するいっぽう、友好関係にあった琉球国に対し、何らかの旧例違背があったとして、これを詰問する書状を送付するなど、周辺海域の諸権力に対する外交政策にも気を配っている(一二月二四日・是歳条)。
東国では、前冊にひきつづき、武田勝頼による一連の所領安堵・諸役免除の文書を収めたが(一〇月三〇日・一一月一四日・同一六日・同三〇日・閏一一月一一日・同二四日・一二月一六日・同二五日)、このなかでは甲斐黒川の金山衆に同じ日付で一斉に発給した諸役免除・先判安堵の朱印状群が注目される(一二月二三日条)。
関東では、一〇月から閏一一月にかけ北条氏と上杉氏との間で戦われた、いわゆる「関宿合戦」に関係する史料を、経過に応じ一〇月一五日・一一月二二日・閏一一月一九日各条に分けて収めた。
北条氏政は、一〇月、簗田持助の拠る下総関宿城の総攻撃を開始する。水上交通の要衝である関宿城を攻略することは、一国を取ることにも匹敵するといわれ、北条氏が北関東に進出するためには不可欠の戦略拠点であった。関宿危うしの報を受けた上杉謙信は簗田氏支援のため自ら出陣するいっぽうで、常陸の佐竹義重らにも援軍派遣を強く求める。血判を進めるという謙信の必死の要請に佐竹義重はいったん派兵を承諾したものの、結局実行されなかったため、簗田持助は北条氏に降り、関宿を開城して下総水海城に移ることになり、謙信はやむなく兵を上野厩橋に返さざるを得なかった。
関宿をめぐる攻防戦の様子は、本書に収めた謙信書状などから生々しく伝わってくる。このうち、一一月二二日条に収めた同月二七日付謙信書状(上杉文書)について、米沢市上杉博物館所蔵の原文書は磨耗などにより判読が難しかった。しかし二〇〇〇年度~二〇〇四年度科学研究費特別推進研究「前近代日本史料の構造と情報資源化の研究」(研究代表者石上英一)の調査にて、高性能デジタルカメラと透過光を使用して撮影し、コンピュータ上で画像処理を行なったことで、肉眼で確認不可能だった部分についてある程度の判読が可能となったため、これを極力反映させることができた。
なお本冊は、前年度刊行した第六編之四十六につづき、TeX組版による印刷を行なった。フルテキストデータとしてXML形式に変換され、いずれ本所「大日本史料総合データベース」に格納される予定である。
(目次一七頁、本文三八三頁、本体価格九、五〇〇円)
担当者 酒井信彦・金子 拓・黒嶋 敏

『東京大学史料編纂所報』第41号 p.31*-32*