東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 薩戒記 三

 本冊には応永三十三年正月から十二月までの一年分を収録した。前冊に収録した応永三十二年に続き、一年分の記事がほぼ完全にのこっており、記主中山定親の活動を通覧することができる。
 底本は主に東山御文庫本を用い、陽明文庫本で対校した。応永三十三年十二月記の奥書には「応永三十三年中御記、以上十三巻也、仍不違巻数、十三冊不略一字書写畢、於正本者所預置上醍醐也、于時長享三年三月廿八日書写畢、権中納言藤原宣親」とあり、現行の応永三十三年記写本が宣親(定親の孫)が書写した全十三巻を祖本とし、原本は醍醐寺に預けられたことが知られる。ただし現在まで伝わるのは「正月上」記を欠く十二冊であるため、正月冒頭については抄出本である三條西本「応永三十三年敍位除目記」および伏見宮本「薩戒記」四冊のうちの第二冊「応永三十三年正―十月敍位除目」に拠った。いずれも奥書等はないが、室町末期の写本と考えられ、正月~十月のうちから、敍位除目を中心に故実関係の記事を書き抜いたものである。ただし、これらを全体がのこっている部分と比べると、厳密な抄出ではないことがわかる。たとえば正月六日条のなかに「次万里小路大納言出宣仁門(兼不着陣、)東行」という記述があるが、完全な写本には「兼不着陣」という割書はない。これに先行する部分に、万里小路時房が任大納言後の着陣を済ませていなかったことが述べられているのだが、抄出本では省略されており、事情を明らかにするために「兼不着陣」と書き加えたのであろう。ほかにも省略から生じる不都合を解消しようとして、代名詞を固有名詞に書き換えるなど、本来の文章に手を入れているところがある。
正月六日の敍位について記す「正月中」記は、伏見宮本「薩戒記」第三冊「応永三十三年正月六日敍位」を底本とした。伏見宮本「薩戒記」は「応永三十二年正月除目」「応永三十三年正―十月敍位除目」「応永三十三年正月六日敍位」「応永三十三年三月二十九日除目」の四冊から成る。室町末頃の写本で、宣親写本とは別系統と思われる。敍位・除目の詳細を知る目的で作成されたのであろう。
「正月下」以降は東山御文庫本に拠ったが、「三月下」記に関してはいささか問題がある。これは三月二十九・三十の二日分から成るが、ほぼ全部が二十九日の除目竟夜の記録で占められている。実際には竟夜の儀は、翌日の明け方になって漸く開始されたので、いずれにしても三十日の記として記すべき重要な要件があるわけではない。天気と、白川雅兼邸に盗人がはいったという伝聞記事だけである。したがって、三十日条の有無は大勢には影響ないのだが、二十九日のみを書写する伏見宮本第四冊は、別記の体裁をとるということで、対校本として採用した。除目竟夜についての叙述は非常に煩雑であるため、東山御文庫本・伏見宮本ともに少なからぬ誤脱があり、写本としてどちらが優れているというものではない。しかしながら前者には兵部奏任召名(刊本九五~九七頁)が全く脱落しており、これは後者によって補った。おそらく宣親の写し落としに由来するものであろう。したがって現存の写本のほとんどに同じ脱落がみられるのだが、尊経閣文庫所蔵の山科家旧蔵本だけには、この部分が存する。奥書によれば姉小路家本を親本としており、宣親のものとは別系統の情報を伝える写本群として今後検討していく必要がある。
さて、応永三十三年記の内容であるが、定親は前年と変わらず、故実の研究を主たる関心事としている。正月の叙位・三月の除目・七月の政始・十一月の鎮魂祭については特に詳細に記しており、多くの図も付されている。政始は全く形骸化しており、この後ほどなくして後花園天皇が「中絶」と注したところであるが、皇大神宮の遷宮に関わる官符請印のために行われることになったのである。定親は「山槐記」「江家次第」「妙槐記」、藤原頼長作の次第等を研究してこれに臨み、滅多に行われない儀式を体験したことを喜んだのであった。また、鎮魂祭では上卿をつとめ、先例を検討するだけでなく、自分でも次第を新作している。このほか、自分が受け取ったり、作成に関わったりした多くの文書を載せ、書札礼に関するさまざまな薀蓄を記すことは、前年の記と同様である。
目につく出来事としては、称光天皇が前年に引き続き病を発し、“御絶入”という状態に陥ったこと(七~九月)、皇女が誕生したこと(十月二十一日条)、興福・東大両寺が争闘におよび別当が改補されたこと(正月十九日条)などがある。また六月には、前年に幕府が酒麹の製造を北野麹座の独占としたことに絡んで、近江坂本の馬借が慠訴するという事件がおこり、「満済准后日記」「兼宣公記」などの同時代の記録に事情が記されている。しかし定親は「山門訴訟太強、神人可入洛之由風聞」(六月二日条)と載せるのみである。北野社が防戦の準備をしていたこと(八月九日条)、天皇の夢に日吉権現があらわれて解決を迫ったこと(八月二十二日条)など、関連する記事はあるが、いずれも簡略なもので、定親自身は詳細を知る立場になく、また個人的にも興味がなかったのであろう。総じて政務の中枢には未だ遠かったといえるが、後小松上皇への奏をとりつぐなど、徐々に存在感を増しているようである。
私生活に関わることでは、後に親通と名づけられる嫡男の誕生がある。定親は私的な事柄をあまり記さず、直接には触れていないのだが、応永三十二年十月二十七日条に室の着帯の記事がみえ、さらに三十三年十月二十二日条で、彼が皇女誕生の祝いを述べたのに対し、光範門院が「お前のところには男子が生まれて、まことに羨ましい」と返答しているところから、無事出産が済んだことが知られるのである。
史料の書写や伝来に関わる記事も多い。花山院家からは「江記」「妙槐記」を借用・書写している(八月九・十六・十八日条)。「江記」は「応永卅三年五月上旬、以花山院本書写畢、参議左中将藤原定親」という奥書を持つ写本が三条家に伝わっていたことが「桑華書志」九にみえる。また、現存の「妙槐記」写本には「応永卅三年以正本書写了、参議左近衛中将藤原判」「応永卅三年八月十九日、自昨日晩頭以正本書写了」という奥書を持つものがあって、定親による書写を確認することができる。ほかに、定親未見の「中山内大臣家作往来」(「貴嶺問答」)が花山院家に伝存(正月二十五日条)、後小松上皇より宸筆の「水鏡」一帖を下されて、正本は紛失したと述べる(十一月十六日条)など、当時の中山家には、祖である忠親の著作も完全には揃っていなかったことが知られる。これらも含めて、定親は多くの史料を花山院家から借りて書写しているのだが、その後、花山院家所蔵の写本類は失われ、現在にまで伝わるのは、定親の手を経たものということになるようである。
 直接定親が関わったものではないが、洞院満季による「本朝皇胤紹運録」草の上皇への進上も記されており(五月十四日条)、同書の成立を伝える重要な記事となっている。満季は、当時の朝廷で有識者として認められ、公事についての意見を求められることも多かったようだが、定親は非常に批判的である。ほかに、朝廷の動静ということでいえば、前年から称光天皇が「御絶入」を繰り返してナーバスな傾向を見せているが、後小松上皇についても、上卿辞退を願う公卿に繰り返し催促させる(八月十六日・二十七日)など、性急あるいは執拗な面がうかがえることが注目される。
(例言三頁、目次二頁、本文二六三頁、巻頭図版一頁、定価八六〇〇円、岩波書店発行)
担当者 本郷恵子


『東京大学史料編纂所報』第41号p.41-43