東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 東京大学史料編纂所報第41号(2006年)

刊行物紹介

大日本古記録 實躬卿記 五

 この冊が収めるのは、嘉元元年(一三〇三)から同二年(一三〇四)年までの日記と、その自筆本に依った部分の紙背文書である。これは、実躬四〇歳から四一歳にいたる期間に相当する。このとき実躬は正三位参議、右近衛権中将から、嘉元元年閏四月には従二位に昇進し、さらに同年一〇月には権中納言となる。
 嘉元年間は、全体を通して自筆本がもっともよく残っている部分である。そこで本冊では、前田育徳会所蔵自筆本および武田科学振興財団所蔵自筆本を主要な底本として使用している。ただし、その他にも自筆本断簡も多く伝えられている。本冊では、前冊までと同様、これらの断簡も利用して研究を進め、テキストとして復元した。具体的には、嘉元元年正月記では、冒頭が複雑な状態になっている。すなわち、当該部の主要な底本となる武田本の冒頭には、現状では切次の痕跡が認められ、第一張の次に貼紙が継がれ、第二張へと続く。ところが、徳大寺本には現状とは異なり、原態に近いと思われる状態が写されている。そこで、これにもとづいて当該箇所については、武田本第一張、同貼紙、東京大学史料編纂所所蔵自筆本断簡、徳大寺本、武田本第二張の順にテキストを配列し、当該部分を復元した。また、嘉元二年九月記は、現状では前田本・武田本・早稲田大学所蔵自筆本断簡に分断され、三箇所に所蔵が分かれている。本冊ではこの箇所を、巻首~一日条―前田本、二日条~五日条前半―早稲田本断簡、五日条後半~一八日条―武田本の順に配列した。これに続いて、現状では前田本の一日条と二〇日条の間に挿入されている断簡を配列したが、これは正確に何日条であるか特定できなかったため、便宜ここに挿入したものである。続いて、一九日条~二〇日条前半―武田本、二〇日条後半~二八日条前半―前田本、二八日条後半~巻末―早稲田本断簡の順にテキストを復元した。
 この他に、本冊でも底本および対校本として写本を利用している。これらのうち、底本として前冊に続き三条西本および「御幸部類」を用いたのに加え、「除目部類」および「平座小除目部類」(ともに宮内庁書陵部所蔵)を新たに底本として利用した。「除目部類」は、三条西実隆による『実躬卿記』の除目関係記事の抜書である。現在散逸してしまった日次記の逸文を含み、また実隆による当時の『実躬卿記』の観察記録としても重要な写本である。実隆による『実躬卿記』の写本に関しては、この他に正安元年~乾元元年の記事を抜粋した「逍遥院内府抜書」(既に出版済)が知られているが、こちらは現段階では近世の転写本しか知られないのに対し、「除目部類」は実隆の自筆本である。「平座小除目部類」は柳原本に含まれ、同じく逸文を含む。
 また、前冊までと同様、自筆本の部分のほぼ全面に紙背文書が見られ、これらも順次悉皆的に翻刻した。嘉元元年正月記紙背には、永仁三~四年ごろの文書が多く、この巻に関しては、七~八年保存した後に反故とされた文書群により成巻されたものであることが分かる。内容的には、訴訟関係の文書や記録所寄人廻文、行幸日次勘文など蔵人頭としての責務にかかわる文書が集中している。同様の傾向は嘉元元年六月記・同七月記・同八月記にも当てはまり、ほぼ同様の経緯をたどって成巻されているものと思われる。これに対して嘉元二年正月記は、正安五年(嘉元元)具注暦・乾元元年仮名暦が紙背に見え、これらの暦の利用後比較的すぐに反故として料紙に再利用したことがわかる。さらに嘉元二年三月記紙背には、同年二月の文書が含まれ、実躬のもとに集積された文書が数ヶ月以内に反故となり、日記の料紙に利用されたことが窺える。同様に、嘉元二年六月記紙背には、同元年一二月~二年五月の文書が、嘉元二年九月記紙背には正安四年(乾元元)具注暦および嘉元二年五月~七月の文書が、嘉元二年一〇月記紙背には同年五月~六月の文書が、嘉元二年一一月記には同年四月~五月の文書が見える。
 内容についても紹介しておく。前巻に引き続き、実躬は公卿として、また大覚寺統の近臣として活動している。同時に持明院統からも重用され、これらの上皇・法皇らの動静に詳しい。たとえば、嘉元元年夏記には、亀山法皇が常盤井殿に泉を作り、そこに度々御幸するとともに、時には後深草法皇も同所に御幸するなどの様子が記録されている。また、嘉元元年五月には、昭訓門院が亀山法皇皇子恒明を出産する。本冊には、その出産に先立ち、亀山法皇が昭訓門院の今出川第に同宿したこと、出産後の御祈始、御五十日、御行始、親王宣下、侍始、御百日などの儀式について、詳しく記される。周知のように、恒明親王は、のちに立太子が画策されるなど、亀山法皇晩年の愛児として鎌倉時代後期の政治史上に重要な人物である。その御五十日には、後宇多上皇が臨幸し、恒明に御前物を含ませており、恒明を大覚寺統を挙げて養育せんとする姿勢が窺える。また、御行始には亀山法皇・昭訓門院の臨幸を仰ぎ、持明院統の法皇・上皇らも見守る中、盛大に執り行われた。これらの記事は、大覚寺統近臣であった実躬ならではの視角からの記述であるといえよう。
 また、公卿として儀式の奉行や奉幣の勅使を勤めている。特に、嘉元二年一〇月の岩清水八幡宮奉幣については詳しく、五日条では日時勘申に始まり、帰着までの次第を記している。ここで興味深いのは、宣命の内容を天皇の仰詞として蔵人頭藤原実任が宿紙の折紙に記し、上卿源師重に渡していることであり、本日条にその原文書が貼り継がれている。それとともに本日条の宣命案と、正応三年一〇月の源通重が神宝の御剣袋使を勤めたときの扇に記された次第を借り受けて書写し、また続けて藤原実前により注送された寛元三年八月の公光卿記を貼り継いでいる。
一方、このころになると、嫡男公秀も殿上人としての活躍が見られるようになる。嘉元二年小五月会競馬の奉行を公秀が勤めることとなった。実躬はこの役を後見したが、これに対し、後日西園寺公衡および洞院実泰よりねぎらいの書状が届けられ、実躬はこれを日記に貼り継いでいる。この件に関する文書は紙背にも見える。また、嘉元元年正月の東二条院薨去、同二年七月の後深草天皇崩御に伴う仏事についても詳しく記されている。
 (例言一頁、目次二頁、本文三四二頁、口絵図版二頁、定価一二〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 菊地大樹


『東京大学史料編纂所報』第41号p.40-41