東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 二十

 本冊には、細川忠利文書の内、寛永十三年分の諸方宛書状として、寛永十三年「公儀御書案文」(整理番号十ー廿三ー五)所収の五百九通を収めた。
 宛先は、前冊までと同様に多岐(幕閣・大名・大名家臣・旗本・公家・僧侶等々)に亘る。
 この年の忠利の所在を確認すると、正月は江戸で迎え、五月十三日に江戸発、六月九日に熊本に着き年末まで熊本に在る。忠興は、正月を八代で迎え、十一月七日に八代を発して同二十四日に京都着、年末を京都で迎えている。光尚は、一年を通して江戸に在った。
 忠利にとって、この年も、身辺のことを含め多事多端であった。
 一昨年より熊本へ預かり、隈府の屋敷に置かれていた春日局の次子稲葉正利は、行状についてよくない評判が立ち、亡兄稲葉正勝の遺言であった肥後国で町人とするという目算も実現が危うくなっていた。忠利は、正利に自制を求め(三〇四〇号文書等)ながら、井伊直孝、堀田正盛、稲葉正則・堀直之、榊原職直らに連絡し、家光への取りなし等、解決策を相談している(三二八一・三二八四・三二八五・三二九一・三二九四号文書等)。稲葉正利宛忠利書状は、「細川家史料十五」に原文書を中心に収載しているが、「公儀御書案文」により、さらに詳しく状況を確認することができる。
 忠興は、病気治療のために在京することを五月には許可されていたが、夏の間は、猛暑のために体調をくずし、八代を出発することができず、前述のごとく十一日七日に八代を発した。だが、その直前に悲報を受け取ることとなった。忠利の嗣子光尚の正室禰々は、忠興の実の孫娘でもあった。十月二日、江戸において禰々は、忠利の初孫を出産したが、同月十四日に死去した。忠利は、悲報を受け取った直後の小笠原忠真(忠利室千代の兄)宛の書状の中で「肥後女之儀ニ付朦気之状ニ付」自筆でしたためることができないと述べている(三三〇九号文書)。孫出産を祝う音信が、各地から熊本へ寄せられると同時に、弔状もひっきりなしにもたらされた。祝儀への返事を出すとともに、弔状へは、直接には返事を出さないことを断っている。
 また、この年は、天候が安定せず、作況についてもひとかたならず神経を使っている。まず、春先は長雨が続き、麦腐れが蔓延している。これは、米の端境期の飢饉を予想させるものであり、早速、貯蔵している米・金銀・馬ノ飼等の払い出しを行っている。夏には逆に干ばつとなっており、肥後に限らず周辺の九州諸国で飢饉状況となりつつあった(豊前は三分一作付けできず、佐賀領からは蕨の根とりに他国へ出る等々、以上三〇八八・三〇九七号文書等)。こうした九州の状況について、忠利は周辺大名と情報交換するとともに(三一一七号文書等)、豊後目付からの江戸への報告を促し、かつ伊丹康勝・柳生宗矩らの幕閣等へ再三書き送っている(三一二四・三一二六号文書等)。とりわけ、康勝への書状の中で、飢饉状況が生じていることを、とかく「国主ハ隠可申候」と述べているのは興味深い。こうした危機は、七月ころより降り始めた雨で一旦緩む(三一二九号文書、「此中之雨ニ而少は下々きほひ申候」)。全国的な状況についても、江戸の米不足は国持ち大名の廻米にて寛ぎ(三一三七号文書)、上方も、京への幕府蔵米の払い出しや、北国米七百艘分の敦賀への到着にて危機を脱すると観測している(三一三八号文書)。雨は、豪雨となることもあり、八月一〇日に豊後の細川領鶴崎を襲った大水は被害甚大で、近隣の稲葉領家島、松平領中都留等も同様の水害を被っている(三一七二・三一七四・三一七八号文書等)。この時は、日根野領府内藩からの援助もあった。それでも、九月ころまでは、忠利の肥後の作況に対する見込みは、前年までに比べれは「差而痛ニ成程之儀ニ而ハ無御座」とし、周辺の肥前・筑前・筑後の「世中(よのなか)」=豊凶も「中より上」と予測していた(三二一二号文書)。これが、見込み違いであると気づくのは十一月の中旬ころからで、十一月末には一転、「九州世中さんさん」であり(三四四八号文書)、こうした急展開を肥後の「百姓も見違え」た(三五二四号文書)としている。そして、急ぎ状況の変化を伊丹康勝に知らせ、土井利勝への注意喚起を頼んでいる(三五二〇号文書)。
 こうした飢饉状況の中で領国境目で行われる他領への刈田盗み等について、忠利は、肥後の百姓も同様のことをするだろうとした上で「か様之刻は如何ニ法度申付候とても、餲候ものにハ、法度は不立者にて候」との認識を示している(三一七九号文書)。
 この他、国元にいる間、家光の健康状態に関する正確な情報を得るべく春日局への音信等は欠かさず、近隣大名や閣老との交際にも気を配っている。鍋島勝茂・同元茂からは、鷹・焼き物用土の提供、焼き物の皿が贈られている(三二一四号文書等)。毛利秀就からは、雲谷等益の屏風が贈られた(三二八〇号文書等)。病床の島津家久に対しては、使者を派遣し見舞うとともに、幕府から派遣された医師の久志本常尹にも直接、病状についての情報提供を求めている(三四一四号文書等)。また、小浜在国中の酒井忠勝へは、京で誂えた乗物を贈ろうとし、おそらく途中で差し戻されるであろうことも予想して様々な工作をしている(三二二九号文書等)。堀田正盛に対しても、羅背板・毛織物等の音物を贈ったが、正盛からの礼状の中で、これは前年出された武家諸法度(第九条)に違背するのではないかとの危惧を表明され、今後の贈り物の謝絶を伝えられている(三〇五五号文書)。関連して、新しい武家諸法度に対する忠利の態度は、慎重であり、以前に幕府年寄奉書で許可を得ていた熊本城普請についても、新法度第三条に違背しないか再度の確認を申請し(三〇六八号文書等)、禰々の南禅寺天授庵における葬儀に際しても法度第九条を意識して、「夥敷無之様ニ」との指示を出している(三三一四号文書)。
 細川氏の九州におけるいわゆる幕府の探題的な意識・役割は、先の作況の通報においても見られるが、九月、長崎奉行の東九州諸大名への指示の取り次ぎを行った際にもそれが典型的に現れている。九月十五日に、長崎奉行の榊原職直・馬場利重は、ポルトガル人と日本人の母の間に生まれた子と、その母、及びその養父母を澳門に追放する指示を出した。彼らは、長崎停泊中のポルトガル船に乗せられて出船したため、近海で別の船に乗り移って逃亡し日本に立ち戻ることがないように、九州沿岸への不審船出船停止の取り締まり令が出された。これを豊後・日向の諸大名に伝達するにあたり、その取り次ぎが忠利によってなされ、請状の出し方についても忠利が細かい指示を出している(三二三五・三二四〇・三二五〇号文書等)。
 この他、興味を引く記事としては、①唐船型の風に向かって走る船の試作を行っている記事(三〇五三・三〇五四・三〇六四・三〇六六・三〇六七・三一〇八号文書ー安達裕之著『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』一九九五年、平凡社、を参照されたい)、②カンボジア米を胸にたまらないからとの効能を添えて春日局に贈っている記事(三一一四号文書等)、③寛永通宝の新鋳や、銭不足の状況についての記事(三五一五・三一三一号文書等)、④細川家の軍書について問い合わせる小幡景憲や北条氏長の動き(三二〇七号文書)、あるいは真田氏へ軍書の所在を尋ねる忠利自身の動きに関する記事(三四六八号文書)、⑤朝鮮通信使の来訪を、家光の「御威光故」と忠利が幕閣等に表明している記事(三二五七号文書等)、⑥長崎へのこの年八十三艘の唐船が来航したことについて、「御法度強く」、武具が異国へ渡らないので「海上のばはん」がないためであると観測している記事(三二一二号文書)、⑦肥後蓮根の献上記事(三三〇二号文書)、⑧鶴崎で発掘された四丁の石火矢を家光へ献上するため大坂に運んでいる記事(三三四二号文書等)、⑨長洲の腹赤の魚献上を後水尾上皇へ取り次ぐように阿野実顕へ依頼している記事(三四八二号文書)等が注目される。
 年末、忠利は、翌年の参勤時期について江戸と連絡をとりつつ相談しているが、おりしも大奥における懐妊情報が伝わり、男子出生の場合、江戸参勤の時期が早まることも念頭に置きつつ準備をすすめている(三五二六号文書等)。禰々の忘れ形見(光尚嫡子)早世(十二月十二日)の報が熊本に伝わった形跡は、年内の書状からは確認できない。
(例言二頁、目次三九頁、本文四六五頁、人名一覧三二頁、本体価格一四、〇〇〇円)
担当者 小宮木代良・木村直樹


『東京大学史料編纂所報』第41号p.35-37