大日本史料第十一編之二十四

本冊には、天正十三年十二月の各条(同年是歳条を含む)、および同年年末雑載の一部(天文・気象・災異、神社、仏寺、禁中・公家)を収めた。
天正十三年十二月の一か月間、秀吉とその周辺では、さほど大きな動きはなかった。しかし、各地の大名は、それぞれ秀吉を意識した動きを見せた。
毛利氏は一族の小早川隆景・吉川元長を大坂に派遣し、兩人は大坂城内で秀吉に謁見した(二十一日条)。謁見の一部始終を記録した「小早川隆景吉川元長上坂記」(本所所蔵)には、大坂城内の様子を伝える興味深い記事が少なくない。
 島津氏も使者を派遣し、千宗易を介して秀吉の関白就任を祝った(十三日条)。しかし、その一方では、隣国の大友氏との全面戦争を視野に入れていた(同日条)。この時点では、秀吉が島津・大友両氏に発した和睦命令(十月二日)がまだ届いていなかったとはいえ、これは秀吉の意に反する態度である。秀吉の側でも、すでに島津氏と対決する方針を固めていた(七日条)。なお、毛利氏は両陣営の双方から味方と見られる立場にあったが(七日条・十三日条)、隆景・元長が大坂に上った際に、秀吉の求めに応じて九州攻めの先陣を引き受けたという。
 東国では、石川数正の出奔事件(十一月十三日)以後、秀吉の侵攻を予期して警戒感が高まっていた。徳川家康は三河東部城の修築を行ない(四日条)、その家臣松平家忠は家族を疎開させた(十六日条)。下総佐倉に出張していた北条氏直は、そのまま北上して下野宇都宮を攻めたが、数日滞在しただけでまもなく小田原に引き揚げた。これも秀吉の東国侵攻に脅えたためと見なされた(二十五日条)。
個別の史料として興味深いものには、以下のようなものがある。
二日条に収めた「寺務初任日記」は、興福寺別当職継承の模様を記録したもので、これまであまり知られておらず、翻刻されたのは初めてではないかと思われる。三日条に収めた毛利輝元宛同元康書状は、自分がいかに不遇であるかを訴えた長文の嘆願書で、皮肉や嫌味を交えたその文章は、はなはだ異彩を放っている。九日条に収めた「上井覚兼日記」からは、日向・豊後国境付近への派兵をめぐって、島津家中の多くが慎重な態度をとる中で、島津家久のみが主戦論を唱えて策動している模様が窺える。また、十三日条には近衛信輔書状五通を収めたが、これは島津義久の重臣五名に対し、それぞれ義久への取次を依頼したもので、相手によって様式を微妙に変えている点が興味深い。
 この月に死去した人物としては、秀吉の養子羽柴秀勝(御次)(十日条)、および権大納言高倉永相(二十三日条)がある。
 秀勝は丹波亀山城主、実父は織田信長である。「正三位中納言」といわれることが多いが、良質の史料では確認できない。養父秀吉とともに信長の葬儀を主催するなど、一定の存在感を示した。しかし、若くして病死した(十八歳といわれる)ため、さほど多くの史料は残していない。したがって、伝記としてはやや小規模なものとなった。ただし、これまで紹介されたことのない肖像画(大徳寺所蔵)を、カラー写真で収めることができた。
 永相は衣文道を家業とする家に生まれ、禁中をはじめとする公家・武家の装束のことを扱った。信長の入京の際に一時京都を離れるなど、政治的な動きを見せたことでも知られる。天正七年に引退したが、末期に臨んでこの月二十一日に権大納言に任ぜられ(同日条)、二日後に死去した。五十五歳。山科言継と親しく、「言継卿記」に頻出する。これを利用して、その人となりを描写した。
 年末雑載は、第十一編では四十四年ぶりの編纂であったが、基本的な作り方は天正十二年雑載を踏襲した。ただし、体裁の点で若干の改善を試みた。各頁の柱は、従来「天正××年雑載」とのみ記していたが、今回からさらに「(神社)」などの項目名を加えることにした。また、項目の中では国ごとに史料をまとめているが、この点を明示するため、標出に国名を表示することにした(五畿内を除く)。
 なお、校了後に誤りが判明した個所を、この場を借りて訂正しておく。一五九頁八行目の〔?助編〕は、正しくは〔?肋編〕である。
(目次六頁、本文四一九頁、挿入図版一葉、本体価格七、八〇〇円)
担当者 鴨川達夫・村井祐樹

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.34*-35