大日本史料第三編之二十七

本冊には、鳥羽天皇の保安二年(一一二一)五月十五日より一一月十二日までの史料を収録した。前冊に続き本冊も『中右記』など主要な公家の日次記が伝存しないため、断片的な史料を収集して、それらを繋ぎ合わせた構成となっている。とりわけ、従来の蓄積に加えて近年の進展も著しい聖教調査の成果を利用させていただき、石山寺深密蔵・勧修寺・東大寺図書館・東寺観智院金剛蔵・同宝菩提院三密蔵・高山寺・醍醐寺・随心院・仁和寺・青蓮院吉水蔵などに蔵される聖教類を引載して、史料不足を補うよう努めた。従来未紹介・未翻刻の史料も少なくない。調査などに御協力を賜った所蔵者や調査団の各位には、厚く御礼申し上げたい。
この間の主な事柄としては、先ず、五月下旬から延暦寺と園城寺(三井寺)との間に起こった闘争により、閏五月二日から三日にかけて園城寺が焼亡した事件がある(閏五月三日条、五四頁~六六頁)。園城寺にとって、永保元年に次ぐ二度目の火災であるが、堂塔僧坊も含め一宇も残さず焼失し、創建以来最大の被害をうけた。また、閏五月の十三日(一四四頁~一四九頁)と二十六日(一五三頁~一六〇頁)には内蔵頭藤原長実の家で、九月十二日(二〇四頁~二三八頁)には関白内大臣藤原忠通の家で歌合が催された(『新編国歌大観』の検索が容易になり、按文で同歌・証歌の所在を示した)。更に八月二十四日、伊勢・伊賀両国は豪雨により、二十五日に洪水が発生し、豊受大神宮や伊勢の大国荘、伊賀の黒田荘に大きな被害が発生し(二十五日条、一八三頁~一九二頁)、特に豊受大神宮の被害に対する朝廷の対応が同月二十九日条(一九三頁~一九六頁)、九月六日条・八日条・十一日条(一九八頁~二〇四頁)、十月十六日条(二九三頁~二九五頁)に見える。
本冊において、その事蹟を収録した者には、①権律師増覚(五月二十八日条、一一頁~一七頁)、②左少将源顕国(五月二十九日条、一七頁~五一頁)、③東寺長者権大僧都厳覚(閏五月八日条、六六頁~一四四頁)、④法眼尋仁(八月二十二日条、一七七頁~一八三頁)、⑤前天台座主権僧正仁豪(十月四日条、二五一頁~二七六頁)、⑥入道前左大臣源俊房(十一月十二日条、三〇四頁~三九二頁)、がいる。
②源顕国は歌人として知られ(『今鏡』七)、列席した歌合が残る(源師時の山家五番歌合、藤原忠通の内大臣家歌合・内大臣殿歌合、雲居寺結縁経後宴歌合)。③厳覚は三条源氏の源基平の息、真言宗(小野流)の僧で、信覚・範俊に受法し、勧修寺別当となって勧修寺大僧都と呼ばれた。その法流を勧修寺流といい、さらに弟子の増俊(随心院流)・寛信(勧修寺流)・宗意(安祥寺流)に分かれた。範俊・厳覚の巻数を多く含む勧修寺所蔵『遍数』については、全文を『勧修寺論輯』二(二〇〇五年三月)に紹介した。⑤仁豪は内大臣藤原能長の五男で、南勝房と号し、第四二代の天台座主となった。応徳三年に書写した『日本往生極楽記』が天理大学附属天理図書館に蔵される。
本冊で最も注目されるのは⑥源俊房である。俊房は村上源氏、源師房の嫡男。母が藤原道長の六女尊子であったことから摂関家と密接な関係をもち、その血縁により異例の昇進を遂げ、天喜五年(一〇五七)に参議に任じられてより、亡くなるまで五四年にわたり廟堂に列し、永保三年(一〇八三)に左大臣となって以来、その任にあること三八年余、堀河左大臣とも呼ばれた。その間、堀河天皇の皇位継承に絡んで、輔仁親王(後三条天皇の「三宮」)を支持し、宗仁親王(鳥羽天皇)を推す白河法皇や他の公卿と対立したことから、次第に政権内で孤立し、永久元年(一一一三)にその息・仁寛が鳥羽天皇呪詛事件(永久の変)に連座して一時失脚し、間もなく許されるものの、従一位左大臣ながら政治的実権を持つことはなかった。しかし、詩文に優れ、儀式に詳しく政務に精通していたこともあり、実際の政務に関与することも多く、平安後期を代表する公卿の一人である。俊房は長元八年(一一二一)に生まれ、八七歳の高齢で亡くなったということもあるが、三編が始まる応徳四年(一〇八六)時点で既に五〇歳を越えており、二編の続刊予定部分には、俊房の事蹟に関する史料が多く含まれ、俊房に関する綱文がかなりの数、立項されるはずである。しかし、未刊行であるため、連絡案文は三編引用部分に限定するとともに、俊房の自筆日記の伝存部分を初めとして、将来、二編で引用されると思われる史料に関しては引用を二編に譲った。なお、俊房が当時の政務の仕方に精通していたことに関連して、国立歴史民俗博物館所蔵田中教忠旧蔵『春玉秘抄』の本奥書によると、源有仁の儀式書は俊房の「堀河左府次第」が根幹となっているという。逆いえば、有仁撰の儀式書から俊房撰の「堀河左府次第」の主要部分が復原できることが判明しているので、本冊でも、そうした未翻刻の儀式書の逸文や、『叙位除目執筆抄』『大間成文抄』などに見える除目・叙位における俊房の執筆記事、あるいは俊房が公事の作法を父師房から伝授され、更に師時や源有仁(輔仁親王の男)に伝授していることに関係する記事を収載する予定であったが、紙幅の関係から断念し、次冊に補遺として収載予定である。また、不明であった俊房の邸第に関しては、編纂の成果として、別途、土岐陽美「源俊房とその第宅―「土御門」と「堀河」―」(『東京大学史料編纂所研究紀要』一五号、二〇〇五年三月)にまとめた。最後に、自署として、東大寺図書館所蔵の『願文集』所収の康和四年七月十九日「左大臣源俊房延久禅定前大相国((藤原頼通))等供養願文」の自署部分を、また自筆日記の筆跡及びに日記の「裏書」部分の書き方が判るように、宮内庁書陵部所蔵の柳原家本『水左記』承暦四年九月十六日条の表・裏の写真を掲載した。
 校了後に気づいた主な誤りにつき、ここにお詫びして御訂正をお願いする。二四頁一二行目:母高階泰行女→行に傍注〔仲〕。八五頁八行目:季實卿の傍注(藤原季宗)→(源季宗)。八八頁一一行目:東宮権大夫季實〔宗〕の傍注(藤原)→(源)。二五八頁二行目:保安元年→保安元年イ。二八八頁四行目:維摩會講師布施、可被□之由→維摩會讀師布施、可被獻之由。三二四頁三行目:第七十 後冷泉院→第六十九 後朱雀院。三三二頁一二行目:頭註の俊房姉隆姫→伯母。三三八頁一二行目:皇太后宮權大夫の傍注(藤原伊房)→(藤原師成)。三四二~四頁〔下清瀧宮類聚〕は、『大日本史料』第三編之一、六九〇頁以下参照(三四三頁四行目:「清瀧明神也、依為可繼」の「也」の後に脱文「依有本願尊靈約束、護此寺佛法也云々、」。同七行目:相傳→相待。三四四頁五行目:而土御門→而故土御門。同六行目:申於→於に傍注〔出〕。同七行目:而、○以下闕ク、→而を削除し、「闕」(朱書)。同九行目:□□以隆橘筆→寅(義演)云、以隆勝筆)。
なお本冊の編纂にあたっては、歌合を中心とする文学関係の史料について、丸山陽子氏(リサーチ・アシスタント)の御助力を得た。
(目次六頁、本文三九二頁、本体価格七、二〇〇円)
担当者 田島 公・藤原重雄

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.32-33