大日本古文書 幕末外国関係文書之五十

本冊には、文久元年二月十六日から二月晦日(二月是月分含む)までの史料をおさめた。
 英国公使オールコックには大忙しの日々となった。領事裁判で有罪となり収監したはずの英国商人モスが香港で釈放され、オールコックを相手取って損害賠償の訴訟を起こしたのである。モスの判決書類や香港から送達された関係書類とともに、事態はラッセル外相に報告された(第五一号)。一方モスに傷つけられた神奈川方役人大谷邦太郎へモスから取り立てた罰金が渡っている(第四五号)。モス釈放の直接的な根拠は、収監命令が最新の一八六〇年枢密院令ではなく、五九年令を典拠にしたという手続き上の不備にあった。本国外相も植民地省経由でこれを知り、オールコックへ報知するとともに、同日付で六〇年令に即した諸規則の作成・公布と報告を求めている(第四・七号)。オールコックは香港の法廷での直接対決を決意し、その出発前に懸案事項を片付けようとする。
 二月二十二日、オールコックは老中と会い、一箇月ほど江戸を留守にすることを告げ、遣欧使節や箱館居留地、外国人捕縛規則などについて話し合った(第三六号)。しかし日本人召使の同行や兵庫見学希望などが持ち出されて事態は紛糾し、何度かやりとりがなされている(第四九・五三・五七・六六・六七・六九・八七号)。結局、オリファント書記官が来日するまで、不在中は書記官代理マイバーグが代行することを告げ、三十日、オールコックはあわただしく江戸を離れていった。
 米国公使ハリスにとっては晴れがましい半月間であった。十七日に老中と会い、将軍謁見の日時を打ち合わせて「言上振」を提出した(第九号)。保税倉庫や遊猟規定、公使館建設なども話題になっている。二十三日ハリスは登城し、将軍家茂に拝謁して信任答礼の大統領国書を渡した。本国へは将軍が満足の意を表したことが報告される(第四三・九七号)。ハリスは三十日にも老中と会談し、これ以上条約締結国を増やさないことを非締結国へ通達することへの協力を表明している。米公使への依頼文案は自らが起草したものだった(第九九号)。
 オランダ総領事デ・ウィットは二十日、一八五九年と六〇年の年次報告をとりまとめ、本国植民省および蘭領東インド総督府へ宛てて送付した(第二九号)。いずれも大部なもので、開港後の日本情勢に対するオランダ側の認識が示されている。長崎に戻っていたデ・ウィットは、英仏公使の江戸帰還条件をようやく知り、再び江戸へ出張する決意を総督府へ報じた(第八号)。折りしも江戸の長応寺明け渡しが話題にのぼったため、はげしく反発している(第三二号)。二八日には六一年三月の月例報告も送られており(第八四号)、ロシアの拡張政策に関する危機感を示した部分は目を引く。
 一方フランス公使ド・ベルクールは、十五日には再び横浜に舞い戻り、ナタール狙撃事件をめぐって神奈川奉行を追及している(第二一号)。
 ロシア艦ポサードニク号は相変わらず対馬停泊を続けている。対馬府中の宗家では十九日、新たな報告書を老中宛に認めるが、公式に提出されたのは四月十日であった(第二四号)。二十八日にはナエーズドニク艦も来航し、問情使が次々と送られるが埒が明かない(第九一号)。船体修理を認めるかどうか、長崎役人の対馬出張があるかどうかなど、長崎へ派遣した家中とのやりとりも頻繁に行われている(第三・九二・九三号)。
 一方、ロシア史料では、各艦の航海記録(第六四・七六号)のほか、ビリレフのリハチョフ宛報告書(第一〇五号)を収めた。ここには対馬役人への要求項目や乗組士官の誓約書も含まれている。江戸にいるゴスケヴィッチ領事から本国外務省へ宛てた書翰二通もおさめたが、事件への論及はない(第十七・一〇四号)。幕府をはじめ、各国ともこの来府目的を図りかね、さまざまな憶測が飛んでいる(第八三号ほか)。中でも壱岐替地の風評は平戸松浦家の動揺を生み、松浦家は嘆願書を提出、老中書取を得てこれを取り鎮めた(第五六号)。
 オールコックもまたロシアの対日意図に関して機密報告を送り、西暦一八六〇年二月二十一日付の機密報告で示唆した見解を繰り返した(第五二号)。この報告も附収したが、ここではロシアの蝦夷地支配の企図に対抗して、対馬を確保することの戦略的重要性を指摘している。箱館はジブラルタル、対馬はマルタ島にたとえられていた。
 公使館建設地については、品川御殿山付近を見分し、英国公使は土地の改善を前提に予定地として認める姿勢をみせる(第一・二・五四・六八号)。オールコックのメモした図面を六八号に付収した(キャプションの訳文が「領事館」になっているが、これは「公使館(Legation)」の誤りである。訂正しておきたい)。この一方で、水戸浪士の取締りが強化され、公使館警衛等も厳しくなった(第二八・一〇六号)。ヒュースケン暗殺情報が本国へも伝わり、英国では日本への軍艦派遣について政府内で動きがあった。ここではラッセル文書の中からパーマストン首相の書翰などを収めることができた(第五号)。これ以降、日本への軍艦常駐体制が形成されていく。外相ラッセルはオールコックの採った横浜への退去策を了承するとともに、居留民の生命・財産保護の目的以外で武力を行使したり、武力で威嚇することを禁じる訓令を送っている(第九四号)。条約諸権利の擁護を強要しなければならない事態は「深く遺憾とするところ」と表現している。武力行使の名目制限が、この段階ですでに唱えられていたことがわかる。また、横浜への退去経費を幕府に賠償請求しないとオールコックが報告しているのも興味深い(第七七号)。老中はオールコックへ遣欧使節派遣の輸送手段について協力を要請し、英公使は本国へ幕府の開市開港延期要求を伝達、その経緯を報告するとともに使節派遣への積極的な協力を示唆している(第三〇・四一・四六号)。
 オランダ総領事を通じ、タイ国から条約締結の要望が伝達され、さまざまな物産の書上が届けられているのも興味をひく(第三七号)。
 このほか、綿花・ガラス・錫板関税の議論が継続し、神奈川奉行は綿輸入税は二割と通知する(第六五・七〇・一〇一号)。横浜では英国教会の建設が報告され、司祭の早期派遣が求められている(第七八号)。一方、米本国からの要請で翻訳聖書の出来を吟味したハリスは、否の報告をおこなった(第九八号)。ベッテルハイムの訳文は琉球語であったため、江戸では理解できなかったのである。
 長崎では、物資補給のための不開港地寄港問題が持ち上がっている。英国領事は「寄港許可証」発行を提案するが、事態は江戸でも問題となり、老中は不開港地寄港禁止を強く申し入れている(第四二・五〇・八六・一〇〇号)。前年八・九月期まで遡り、長府領内での外国船の寄港と補給について、大坂定番・町奉行を通じて届書が提出されているのも偶然ではあるまい(第七三・七四・七五号)。
 長崎製鉄所には蒸気軍艦の製造が命じられるが(第二三号)、江戸では軍艦製造と海軍伝習のために外国出張・留学の可否が議論された(第一一一・一一二号)。ここでは外国方、軍艦方、目付・大目付が派遣に積極的であるのに対し、勘定方が反対し、当面は外国書籍研究で間に合わせるよう老中の断が下っている。
 最後に箱館の動向である。居留地配分の問題では老中が誤りを認めている(第四七号)。難破船代の薪を港外で取引し差し止めた一件では、米官吏ピッツは相変わらず十里以内の取引は可能だと主張し、やりとりが続く(第一八・一九・二二・二七号)。ところが、英艦パイオニア号が南部領に立ち寄った件にもアメリカ人商人が関与しており、英国領事代理もまた十里以内の渡航は可能だと主張した。事態は江戸へ持ち込まれることになりそうだ(第二六・二七・三五・三八・三九号)。箱館では、隠売女への暴行事件をめぐって米国人二名への裁判がはじまり、箱館役人も臨席している(第八〇号)。判決が楽しみである。
 このほか、招来した書籍納本(第五五号)や寄贈施条銃の模造生産(第一〇九号)、ハワイ王への感謝状の件(第一〇七号)など、遣米使節の関連も継続する。英国王立植物園からプラントハンター派遣の報知もあった(第九五号)。
 (例言二頁、目次二九頁、本文五二七頁、往復書翰一覧三頁、略号一覧一頁、本体価格九、七〇〇円)
担当者 小野 将・保谷 徹・?澤裕作・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.38*-39