東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 後深心院関白記 三

 本冊には、貞治四年(一三六五)から応安二年(一三六九)までの具注暦を利用した暦記、五年分を収めた。
 底本に用いたのは、陽明文庫所蔵の原本および原本断簡である。このうち貞治六年春夏、同年秋冬、応安元年春夏、同年秋冬、応安二年秋冬については、半年分を一巻として、暦記の原形態を残した原本が陽明文庫に伝わる。陽明文庫第六函二一~二四・二六号がこれに相当する。貞治五年春夏(第六函二〇号)、応安二年春夏(第六函二五号)は、日記記事のなくなる後半部分がそれぞれ切り離された状態で成巻されており、前者が三月二五日条以降、後者が四月二七日条以降を欠いている。分離された部分は一紙ごととされ、諸書に再利用されている。貞治四年相当分は暦記が完全に裁断されて同様に再利用されてしまっており、こうした部分については、諸書の紙背に見いだされる暦記(多くは日記記事のほとんどない具注暦)断簡から復原を行なった。しかしながら貞治五年秋冬に該当する部分は、断簡をふくめて目下のところ所在が確認されていない。なお右の暦記断簡を紙背に持っているのは、陽明文庫所蔵の『旧例部類記』、『三藐院殿御鈔出』、『沢庵百首』、『古今聴観』、『抜粹少々』、『信尋公記抄録』、『尚嗣公記』である。
 本冊の部分においても、前冊・前々冊と同様、後深心院関白記の暦記原本は、伝来の途上で加えられた改変の痕跡を留めている。別紙に記された記事などを、具注暦の当該日付の箇所を切って貼りこみ継ぎ入れた箇所や、特定の一連記事を含む部分を一度は切り離して別記とし、後に再び復原した箇所などが見受けられる。後者については次の二箇所が確認されている。
①貞治六年三月一七日条から二九日条(道嗣息兼嗣の元服および中殿和歌会の記事)にわたる部分は、端裏に年月を示す後筆の銘があり、切り離した際に記されたと考えられる(巻頭図版参照)。該当する一三紙分は裏打紙が前後と異なり、別記となっていたことが分かる。同部分は後に、元の位置に戻されているが、その復原は原態に忠実なものとなっていない。同巻は、一三紙分を取り除いた際、その前紙と後紙を接続していたようであるが、復原にあたってはその継ぎ目を外して戻すことをせず、前紙の最末尾を切断して挿入している。ゆえに前紙に相当する一紙は、別記該当部分の前後に切り離された状態になってしまった。
②貞治六年一二月六日条から一三日条(将軍足利義詮死去に関連する記事)にわたる部分も、端裏に年月を示す後筆の銘があり、切り離しに当たって記されたと認められる。筆跡は①の端裏と同じで、こうした措置が時を同じくなされたと分かる。裏打紙も前後と異なっている。
 本冊収録の五年間、記主近衛道嗣は前関白左大臣のまま過ごし、官歴に変化はない。しかしその近親者には大きな変化の見られた期間であった。まず貞治五年正月二〇日には室洞院実世女が死去している。文面からは窺いにくいが、道嗣は精神的に相当疲弊したようであり、三月に中陰が明け月忌仏事が始まると急に記事が乏しくなってしまう。三月二五日条以降は全く記事がなくなったと見え、後には巻子より分離され再利用されてしまった。貞治五年秋冬部分の所在が確認できないのは、こうしたことと関連するか。
翌六年はさらに近親に諸事相い次ぐ年となっている。まず三月には息兼嗣が元服を迎えており、関連記事が詳細に残されている(上記①)。室礼から諸次第に至るまで、道嗣は指図や文書案なども添えて詳述しており、嫡子の元服に並々ならぬ意気込みを持っていたことが窺われる。同年に道嗣は兼嗣の弟にあたる二人の息子の行く末も決定している。まず九月二日に五歳の良昭を興福寺一乗院に後継者として送り、さらに幼少の息道恵を一二月末に鎌倉の大御堂門跡へと入室させている。前年の妻につづき、道嗣が実母藤井嗣実女を失ったのもこの年一〇月のことである。同腹の姉妹とともに、連々と仏事を営んでおり、手厚い供養がなされている。この喪により道嗣は、年来続けてきた春日社法楽の月分三ヶ日念誦を一年に亘り中断している。また三回忌にあたる応安二年一〇月には、母の鍾愛した道嗣女を、その報恩謝徳のために出家させたと見える。
 近親者以外の記事として目に付くのは、相次ぐ幕府要人の死没である。貞治六年五月に鎌倉公方の足利基氏が死去し、同年一二月には将軍足利義詮が後を追うように亡くなっている。義詮の死を受けて道嗣は、そうした場合の朝廷における諸公事催否の先例を、中原師茂に勘申させており、これが暦記に継ぎ入れられている(上記②)。このほか注目に値するのは、応安元年閏六月から翌年八月に亘った南禅寺と延暦寺との抗争である。南禅寺の定山祖禅が著したとされる『続正法論』をめぐって、その言説に怒った延暦寺衆徒が、祖善らの流罪ならびに南禅寺山門の破却を求めて蜂起した一件である。道嗣は一年以上にわたる延暦・南禅両寺の動きを、幕府や朝廷の対応を含めて逐一書き残している。道嗣は祖禅と親しく交流していたから、その成り行きについて相当の関心を抱いていたのだろう。なお道嗣個人の動向としては、応安二年二月に、兄静恵が長老を務める木幡観音院および宇治平等院へと参詣した際の記事が極めて詳細である。紙背を利用して延々と続くその記述は、淡々とした記事の多い道嗣の日記にあって極めて異例であり、注目に値しよう(巻頭図版参照)。  最後に本冊編纂にあたり陽明文庫長名和修氏より種々のご教示を賜った。記して感謝申し上げたい。
(例言二頁、目次二頁、本文三六六頁、巻頭図版二頁、定価一三〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 井上 聡


『東京大学史料編纂所報』第40号p.43-44