大日本古記録 中右記五

本冊には康和五年(一一〇三)・長治元年(一一〇四)を収めた。本冊の底本には、古写本である陽明文庫本を用いた。校合には、国立歴史民俗博物館所蔵『改元部類記』中右記(広橋家旧蔵)、天理大学附属図書館所蔵『中右記部類』五・九(九条家旧蔵、古写本)、宮内庁書陵部所蔵『中右記部類』十八(同)、東山御文庫収蔵『政部類記』を用いた。陽明文庫本および『中右記部類』については前冊までに紹介している。『改元部類記』は広橋兼綱が貞治元年(一三六二)に鷹司冬通の所蔵本から書写した写本である。『政部類記』は嘉禎四年(一二三八)の校合奥書を持ち、九条家旧蔵本『中右記部類』十のうち「政」と内容の一部が重複しており、九条家旧蔵本から派生したと考えられる。本冊で校合に用いた康和五年二月十日条は『中右記部類』には収められておらず、『中右記』本記からの引用の可能性が高い。
 本冊に収めた古写本七巻のうち、康和五年春・夏・冬の三巻には、藤原兼経が建長元年(一二四九)にこの本から抄出した際の奥書がある。
 本冊における記主宗忠は、四二・三歳で正三位参議右大弁の官位に変化はない。日記の逸失している康和五年七月に興福寺の再建供養が行われており、造興福寺長官の任は終えたと考えられる。
 宗忠は引き続き参議右大弁という朝廷における実務を担う立場にあり、一方で堀河天皇の厚い信頼のもと、さまざまな局面で天皇と白河法皇との間の連絡役を勤めており、そのなかには叙位・除目直前の調整なども含まれる。また勧学院弁別当として長者忠実を補佐し、興福寺を始めとする藤原氏関係の処理にもあたっている。
 本冊で最も注目すべき記事は、康和五年正月の宗仁親王(鳥羽天皇)の誕生である。十六日に女御藤原苡子を母として、待望の男子が誕生した。天皇・法皇の喜びは大きく、法皇は落涙したと伝えられる。四回の養産の儀が盛大に行われ、二十五日には法皇自ら苡子の産所を訪れて皇子と対面した。ところがその盛儀の夜苡子が急逝し状況が急転する。人々の驚きと悲しみははなはだしく、天皇は苡子の菩提のため一周忌である翌長治元年正月に仁和寺内に堂舎転輪院を建立した。苡子の死去については、出産後不調であったのに実家がそのことを隠していたとの説が流れたが、苡子の兄公実は、全く突然の急変であったと後に宗忠に語っている。法皇は苡子危篤の知らせを受け皇子を院御所に引き取り、六月の親王宣下を経て八月に立太子の儀が行なわれた。残念ながら『中右記』は七―九月を欠くが、宗仁親王の立太子に法皇の意向が強く働いていたことは現存する記事からもうかがえる。
 また前冊に引続き延暦寺・園城寺・興福寺等の衆徒の騒乱や入洛の記事が散見する。康和五年三月には、興福寺衆徒が維摩会竪者の人選に不満を称して入洛し変更を認めさせ、長治元年六月・十月には延暦寺衆徒の合戦に関して陣定が行なわれるなどがみえ、衆徒・神人の濫訴が多いことを宗忠は嘆じている。
 この他に、各種の年中行事以外では、康和五年の石清水社行幸、長治元年の賀茂社行幸、長治元年八月の弘徽殿御八講などがある。
 宗忠個人については、康和五年三月の父方の祖母源隆国女の死去が大きな出来事であった。隆国女は八十歳を越える高齢で前年から病床にあり一進一退を繰り返していたが、ついに十三日に死去した。彼女は一条殿に居住し一条尼上と呼ばれて一族の中心であり、承徳元年に宗忠の父宗俊が没した後はその性格を強め、宗忠を後継者として一条堂を譲った。宗忠は祖母の死去を悲しみながらも、苦しみのない往生に安堵している。
 また康和五年十一月十六日、宗忠の本邸五条烏丸第が大火の類焼により焼失した。この時期彼は次男宗成が婿として住んでいる藤原盛実第に滞在していたらしい。「多年居住の家」の焼亡に宗忠の歎きは大きいが、一方で重厄の年であり、より大きな災いがこの程度で済んだのかもしれないとも感じている。連日見舞いの客が訪れており、陰陽家の賀茂家栄は火事に会わない呪いを伝授した。こののち宗忠は新たなる本邸建設を計画し、長治二年に中御門第の竣工となる。
(例言一頁、目次一頁、本文二三〇頁、口絵二葉、価一一、〇〇〇円、岩波書店発行)
主担当者 吉田早苗

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.42*-43