日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之十

本冊は、原文編之十に収載した、一六四六年十月二十八日(正保三年九月二十日)から一六四七年十月十日(正保四年九月十三日)までの、オランダ東インド会社長崎商館長ウィレム・フルステーヘンの公務日記を、全文翻訳したものである。収載史料の書誌的解説及びフルステーヘンの略伝については、『所報』第三八号の三八~三九頁を参照されたい。
一六四六年の秋、最後の船は十一月十六日に帰帆した。この年から商館在留者は増員され、四名の下級商務員、商務助手と外科医各一名、そして黒人二名を含む四名の使用人が商館長とともに日本に残った。
参府の準備を整え江戸へ出発したのは、十二月三日のことである。フルステーヘンの参府中の日記は、途中の地名や景色、見聞など様々な情報を含んでいる。往路の船旅は好天に恵まれて順調に進み、十二月十四日には大坂に到着した。例年、東海道の通行許可証は京都所司代が発行していたが、この時は江戸に行って不在のため、大坂町奉行から十七日に許可証を受け取り、翌日大坂を出発した。京都を経て江戸到着は三十日だった。
将軍家光及び世子家綱への拝礼は一月六日(正保三年十二月一日)に行なわれ、その後例年通り幕府高官の屋敷を回礼した。登城の途中及び城内の様子、高官等の屋敷の位置や建物などについても描写は詳細である。一月十四日には将軍の命令により、代理でなく商館長自身が登城し下賜品を受け取った。同年から将軍下賜の時服は二十枚から三十枚へと増量された。二十二日に暇を許されるまでの間、商館長は何度か、大目付井上政重及び高官等の様々な質問を受けたが、一六四四年ブレスケンス号南部入港の際に捕縛されたオランダ人十名の釈放が、前年に続いて日本側の最も重要な話題であった。
商館長一行は一六四七年一月二十三日に江戸を出発し、二月三日に京都に着き、方広寺の大仏と三十三間堂を見物した。翌日着いた大坂で天候の都合等から二月十二日まで留まった後、船で瀬戸内海を下り、二月二十二日に下関に着いた。下関から先は冬の玄界灘の悪天候と荒波に行く手を阻まれ、博多や唐津の領主の曳航船の援助を受け、三月二十一日にようやく長崎に着いた。参府日記の終わりには通過した地名と距離の一覧が付されている。
中国では一六四六年に南京が陥落し、清の支配下にあるジャンク船も日本に来るようになった。幕府は当面清との取引を禁じていたため、長崎に来たものの取引のできない南京の商人たちの中には、オランダ人との交易を求め、日本人を仲介に商館長に接触してくる者もあった。結局幕府は同年十二月後半には清朝支配下の者も含めた中国人との交易を認めた。一六四七年五月十三日には、南京船が弁髪の船員と大量の商品を載せて入港し、清が中国全土を制圧し、一官(鄭芝龍)は捕らえられ息子の鄭成功等は海へ逃れた、との情報を伝えた。一方、福州から長官の弟を名乗る請援の使節がやってきたが、「日本人は強い者を支持する」とフルステーヘンが推測した通り、上陸も許されず帰帆した。その後も請援の船があったが、援軍が出されることはなかった。
 一六四七年二月、島の乙名が交替した。これまでの乙名タグチ・ソウベエはオランダ人に不利益を与えることが多かったので、オランダ人たちは新任の乙名ミノヤ・ファチロイェモンに期待している。一方、 船用の木材を探すためや医師等が薬草を採集するため、通詞の付き添いで出島を出て市内へ行くことが認められ、オランダ人の待遇に若干の改善の兆しが見えた。
一六四七年七月二十六日、長崎沖に二隻の帆船が姿を現わした。オランダ人と検使、通詞を乗せた船が出向くと、オランダ船ではなく、ポルトガルの使節船であることがわかった。一六四三年、ポルトガル政府がマカオからの嘆願に基づき、新国王の即位を伝え、合わせて通商再開を求めるために派遣を決めた二隻の使節船が、途中様々な曲折を経、ようやく長崎沖に到達したのである。彼等が一六四五年夏にマカオに到着した段階で、ポルトガル使節来航の噂は中国船、さらにオランダ船によって既に日本に伝えられていた。
七月二十八日には使節船は長崎港内に導かれ碇泊した。ポルトガル語を解する通詞たちは何度か使節船に派遣されたが、詳細は秘密にされており、オランダ人たちは終始傍観者として日本側の対応を観察することになった。
 長崎市中では、九州全土から十万にものぼる大軍が結集しポルトガル船を攻撃するとの噂が流れ、市民は恐怖から山中へ退避を図るなど、かなりの混乱となった。八月八日に二隻、十三日に一隻のオランダ船が無事入港したが、船橋の建設が進み十五日には湾の入口が閉鎖された。船の荷降ろしに際しては、例年は陸揚げされる船の舵、大砲、武器弾薬が船に残された。フルステーヘンは当初、ポルトガル人は計略あるいは武力によって制圧されると予想していたが、事態は進展せず、退去を許されるだろうと内々の情報を得、日本人への失望を記している。八月二十九日、江戸から上使として大目付井上政重と長崎奉行山崎正信が到着し、将軍の命令をポルトガル使節に伝達した。今回の使節はポルトガル新王から日本の将軍に対して派遣されたので全員の命を助けるが、さもなくば命令違反により処罰されていた、日本ではキリスト教への嫌疑が益々強まっているので、今後来航すれば皆殺しとなる、との内容であった。結局ポルトガル船は九月四日に長崎を後にした。
九月二十九日、大目付と奉行から次のような命令があった。①オランダがポルトガルと十年の休戦協定を結んだことは将軍に報告されたが、幕閣は十分納得してはいない。日本はポルトガル人来航を禁じているので、彼等と親しくせず、彼等との関係について報告すること。②七、八年以前、当時の商館長カロンのやり方が不適切で日本人商人に不利益となったことから、平戸商館を破壊し長崎へ移ることを命じた。カロンの轍を踏まず、日本人にもオランダ人にも損害を及ぼさないこと。③四、五年前二隻のオランダ船が南部に来た際、十人のオランダ人は、当然受けるべき刑罰を許され商館長に引き渡された。総督はこの将軍の恩に対し商館長以外に感謝の特使を派遣すべきであり、新旧商館長はその実現に努めること。④船の到着遅延を避け、遅れて着いた船も他船と同様に日本暦の九月二十日には出発すること。
九月十四日に中国産白色生糸のパンカド価格が決定し、取引が開始された。三十日にようやく銅の価格が決定され契約をした。船の出発を控え、銅の計量と受取、商品の引渡しが続いていたが、フルステーヘンは、日本商人の勝手な要求や通詞のそれへの加担に不満を募らせていた。この年の日記は十月十日で突然途切れているが、帳簿は十月末日に締め切られ、後任のコイエットの日記によれば、フルステーヘンは十一月三日に日本を去っている。
本冊の翻訳には、レイニアー・H・ヘスリンク氏、イサベル・田中・ファン・ダーレン氏から多くの助言を受けた。また、校正には非常勤職員大橋明子氏も参加した。
(例言五頁、目次三頁、図版二葉、本文二五四頁、索引二二頁、本体価格   八、二〇〇円)
  担当者 松井洋子・松方冬子

『東京大学史料編纂所報』第40号 p.44*-46