大日本史料第八編之三十九

本冊には、延徳二年(一四九〇)九月一日から十一月是月までの三ヶ月間を収録した。
 この間の幕府の動向としては、九月までは、前冊に引き続き、将軍義材による政務決裁の本格化が見られるが、十月中旬以後はこの傾向に変化が生じる。義材を後見していた実父義視の病気(十一月十八日条)によって、「御沙汰事無之、」(三〇二頁)という状態に陥るのである。幕府の内部に十分な基盤を有していなかった義材にとって、義視の健康状態の悪化は憂慮すべき事態であり、御所内における小さな物音にまで神経質になっていた。寺社における各種の祈祷のほか、奉公衆が壬生地蔵に千度詣を行うなど、平癒を希求する動向も顕著である。また、治療に効験の見られなかった医師竹田定盛をしりぞけるが、阿野実千の下人の縁者だという近江の百姓が進上した付薬を用いるなど、医療の面も迷走気味であった。義視の病状は、以後も小康を保ったが、回復することはなく、翌年正月七日の薨去に至る。
 また、石見の益田宗兼に対する所領安堵(十月二十二日第二条)に関わり、吉見某との係争地について証文の正文を進上するように命じたが、なかに義視の「御判」のあることをことさらに重視している。これは、応仁・文明の乱中に義視が西幕府の将軍として発給した文書と思しく、前冊(閏八月十一日第三条)において乱中の義視の御内書によって受継を真如寺住持たらしめんとしたことと同じく、義視に前将軍としての権威を確立することで、義材の権力を安定させる意図があったと考えられる。
 禁中関係に目を移すと、後土御門天皇による廷臣に対する求心力の回復策というべき動きが目をひく。日野家では、応仁・文明の乱の初期に日野富子の口添えによって禁裏小番を免除されて以来これを勤めて来なかったが、九月一日の外様小番結改に伴い、日野政資は自ら望んで番衆に加入した(九月一日第三条)。これは、七月に権中納言を望むも許されず、剰え天皇から「不義」を指摘された政資が、天皇の覚えをよくしようとはかったものであろう。また、転法輪三条実香が権大納言昇進を望むと、天皇は実香自身が小番に参仕することを求め、久我豊通や西園寺公藤についても同様に自身の参仕が望ましいと述べている(十月二十三日条)。つまり、天皇は官位昇進の許諾を槓杆に、摂関家を除くすべての堂上貴族による小番参仕を確立しようと努めていたわけである。また、多くの廷臣が応仁・文明の乱後に禁裏近辺から離居したままで、旧邸址は無人となっていた。天皇は、禁裏の用心のため、各自旧邸址に還住ないしは適宜居住者を置くよう、近衛家・転法輪三条家をはじめ諸家に命じている(十一月二日条)。この時期に天皇が廷臣による禁裏警衛の強化という方針を強く打ち出したことは、義材の継統以来、京都の治安に不穏な傾きがあったことと無縁ではあるまい。
 目立った事件としては、外宮仮殿の焼失およびそれによる廃朝がある(九月十四日第一条、同月二十一日第一条)。外宮の式年による正殿造営は永享六年以来途絶し、享徳元年に造営された仮殿は、文明十八年に兵火に罹災するまで三十五年間も使用された。九月十四日に焼失したのは、その直後に新造された仮殿である。炎上の原因について、外宮社司の解状は、神宝が紛失したことを指摘し、盗犯による放火の可能性の高いことを述べている。また、廃朝については、本来陣の儀によるべきものであるが、幕府による費用調達が長時間を要して宣下の遅延が避けがたいことから、甘露寺親長の提言にもとづき消息宣下によった。その際、奉行職事となった坊城俊名の実父勧修寺経茂は、廃朝のための口宣の書様を親長に尋ねている。親長が「豊受太神宮回禄ニヨテ」と載せればよいと答えると、経茂は「不載外宮之儀、可為如何哉、」(七一頁)と重ねて尋ねている。つまり、経茂は外宮の正式名称が豊受大神宮だということを知らなかったのである。経茂は勧修寺家の傍流ではあったが頭弁も勤めたことがあり、信じ難い無知だといえる。いささか極端ではあるが、当時の廷臣の公事遂行能力の水準を窺うに足る逸話となっている。
 このほか、細川政元の生母が春日社および長谷寺に参詣したこと(九月十日条)、連歌師宗祇が官庫修理のため、壬生晴富に千疋を贈ったこと(十一月四日第二条)、神祇伯忠富王の摂津西宮社神拝(十一月十二日第一条)、興福寺維摩会が行われなかったこと(十一月二十五日条)などがまとまった記事を有している。また、前冊と同様、諸書の紙背文書の採録に努め、今回は新たに、三条西実隆が延徳四年に書写した『叙位除目執筆抄』の紙背文書を採録した。なお、本冊において事蹟を収めた者には、小笠原家長(十月十五日第三条)がいる。
(目次一六頁、本文三九二頁、本体価格七、三〇〇円)
担当者 末柄豊・前川祐一郎

『東京大学史料編纂所報』第39号 p.41*-42