大日本史料第七編之三十

本冊には応永二十五年正月十六日条より同年七月二十九日条までを収めた。
本冊の特徴の第一は卒伝条が多いことである。足利義嗣(正月二十四日)、中院通守(二月十日)、日野持光・山科教高(二月十三日)、仁和寺法尊(二月十五日)、大友親世(二月十五日)、芳庵祖厳(四月二十三日)、八条実種(四月是月)、足利満詮(五月十四日)、山科教興(七月十九日)の卒伝が並び、知名度の高い人物の卒伝も少なくない。
足利義嗣の死は、応永二十三年の禅秀の乱に通謀した疑いで林光院に幽閉されていたところを兄将軍義持の密命を受けた富樫満成によって攻め殺されたもので、室町前期政治史上の一大事件である。父義満に寵愛された義嗣の事蹟記事は、すでに本編既刊分に綱文をたてて掲載されているので本冊においては連絡按文で示すにとどめた。日野持光と山科教高は義嗣に与同した疑いによって加賀に配流されたうえで処刑されたものである。
仁和寺法尊も義持の弟であるが、こちらは病死である。
足利満詮は義満の弟。派手な事蹟こそないが、義満、義持の幕政運営を生涯ささえ続けた人物である。専論はなく、関係史料を網羅的に収集した試みは本冊が初めてであろう。子女の名前や生年、所領の検出などに意を用いた。二三三頁以下に収録した「醍醐寺文書」九九函所収の諷誦文の原本校正にあたっては醍醐寺文書調査団にご高配いただいた。煩瑣な版組となったが、返点や片仮名ルビは室町当時の漢文訓読法や発音を知るうえで貴重な情報であろう。また京都市上京区養徳院所蔵の肖像画を挿入図版で掲載した。
大友親世は豊後守護を勤めた人物。事蹟の多くは『大日本史料』第六編、第七編の既刊分に収められている。親世の官途名は左馬助、式部丞、修理権大夫と変遷するが、それぞれの官途名での初出史料を掲げ、もって官歴とした。なお、七九頁の綱文のうちに「前豊前守護」とあるのは「前豊後守護」の誤りである。粗忽をお詫びしたい。
卒伝以外では、関東の政治情勢にかかわる記事が注目される。応永二十四年正月に上杉禅秀を滅ぼした関東公方足利持氏は、関東各地の武士への所領安堵を進める(三月八日条・常陸石河幹国への安堵、同月二十八日条・武蔵安保宗繁・満春への安堵、六月五日条・常陸烟田幹胤への安堵、七月十二日・下野長沼義秀への安堵など)一方、禅秀派残党への攻撃を始める。四月二十八日条には上杉持定に命じて上野岩松満純を攻撃させる記事を収めた。こうした持氏の強硬姿勢への反発も起こっており、五月十日条と六月十三日条には常陸小栗満重、五月二十八日条には上総本一揆と持氏の抗争記事を収めた。
ほかに地方の政治状況に関するものでは、正月二十四日条に、陸奥芦名盛政と新宮時康の抗争記事、二月九日条に、薩摩伊作久義と阿多某が争い、伊作氏を援ける島津久豊と、阿多氏を援ける川辺・知覧ほか薩摩半島南部諸氏との抗争に発展した事件の記事を収めた。また四月三日条には、熊野社領支配をめぐって熊野本宮衆徒と紀伊守護畠山満家が熊野路の山中に戦い、畠山勢が破れたとの記事を収めた。
朝廷・公家関係では、七月十一日条と十八日条に、称光天皇不予、ならびにその平癒のため、義持より妙法院宮堯仁法親王に禁裏修法が命じられた記事を収めた。また七月十七日条には、称光天皇が、侍女新内侍局の懐妊につき、伏見宮貞成王やその侍臣たちに疑いをかけ、義持の取りなしで事が収まったとの一件にかかわる記事を載せた。他愛のない事件であるが、称光天皇、伏見宮家、義持三者の関係を見るうえでは示唆的である。
第七編之二十九から編纂にかかるようになった『薩戒記』の本文については種々の写本による校訂が必要であるが、本冊では、先に刊行されている『大日本古記録 薩戒記一』に全面的に依拠した。
寺院関係では、六月十二日条に、鹿苑僧録として力をふるった鄂隠慧?が義持の怒りに触れて失脚し、土佐に出奔した記事を収めた。三月二日条には幕府が慧?に所領を安堵する記事を収めたが、一一六頁の綱文、及び一一七頁の傍注中の「教幸」は「時久」の誤りである。また三月十八日条と七月二十八日条には、大内氏による豊前宇佐宮・弥勒寺の造営に関する記事を収めた。宇佐宮史では名高い応永の大修理の開始である。
六月是月条には、義持が明使呂淵の入京を認めず、兵庫から帰国させた記事を収めた。いわゆる義持の対明断交はこれであり、史料の量は少ないが、中世対外関係上の重要事項である。四月十五日条には南禅寺玉?梵芳が序した静嘉堂美術館所蔵の書画軸を収めた。画工の署名はないが、この山水図は周文の基準作とされているものである。
また巻末に、第七編之二十五の補遺を設け、皇太神宮遷宮に関する記事を収めた。
最後になったが、写真掲載の許可をいただいた静嘉堂美術館ならびに養徳院にはあらためて御礼を申し述べたい。
(目次一七頁、本文三四七頁、補遺目次一頁、補遺本文二七頁、挿入図版一、本体価格六九〇〇円)
担当者 榎原雅治・伴瀬明美

『東京大学史料編纂所報』第39号 p.40-41