東京大学史料編纂所

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都内機関所蔵記録・故実書の調査

二〇〇二年度内に『大日本史料』第三編関係史料の収集のため、東京都内 の機関所蔵の記録・故実書類を調査した。そのうち注目されるものなど、い くつかについて覚書を記し、報告とする。
【国文学研究資料館】
○春日神主祐臣記(ヤ二―一四五)一冊
 ※墨付四七丁。表紙外題「春日若宮神主祐臣記(正和五年四季)」、右上に 「貞」と打付書き、鮎紙「春」。表紙裏反故紙に正徳二年(一七一五)七月 の年記あり。旧表紙「祐臣記/正和五年」、祖本表紙写「愚記第四 正和 五年」、末尾「正和五年日記 若宮神主祐臣(花押)」。正和五年 (一三一 六)正月一日から十二月晦日の記事を収める。近世写本だが、他の祐臣記 原本(史料編纂所影写本〈正中二年記〉[3073-22]による)と比較するに、 書体・体裁も模した精巧な写しとみられる。永島福太郎『春日社家日記』 (高桐書院、一九四七年)三〇・三一頁によると、千鳥家には正和三年・ 同四年・文保二年・正中二年の自筆本四冊が存するという(順に二・三・ 六・十三の冊次が付く)。『連氏蔵書再校目録』(史料編纂所写真帳 〔6170.65-4-85)には正和五年もみえる。社家日記の抜書に正和五年の 記事を含むものがあるようだが、一年を通じて完存する写本は貴重である。 祐臣については、久保木秀夫「「自葉集」と伝二粂為追筆西宮切」(『国文 学研究史料館紀要」二八、二〇〇二年)参照。
【早稲田大学中央図憩飴】
○長秋記(貴重書り五―一一九七一)一巻
 ※一六・〇×五四四・五センチメートル。藤原定家写。紙背文書あり。梅 澤記念館旧蔵で昭和五十一年東京古典会に出品された。『早稲田大学図書 館 館蔵資料図録』(一九九〇年)三七頁に冒頭部分の図版と解説あり。 附属晶に大関晶二郎氏のメモ(昭利五十一年十二月二十二日)ほかがあり、 以下の記述もそれに導かれたところがある。
 表紙、横ニ一・七、紺地に朱筆で「後京極殿御筆/長秋記〈大治五年/春 四月〉」。旧表紙、横二一・七、外題「大治五年春(四月)」。
 第一紙、横五〇・三。紙背は書状下半を天地逆に継ぎ、裏紙の封墨引と差 出が半分残るのみ。
 第二紙、朝五〇・四。紙背は沓状上半を天地順に継ぎ、裏紙の宛所「人々 御中」と墨引。第一紙と接合。
 第三紙、横五二・八。紙背は書状上半を天地順に継ぐ。
 第四紙、横五二・〇。紙背は書状を天地逆に継ぐ。第三紙と接合し、裏紙、 七月十一日付け、差出あるも判読できず。
 ついで中間に欠落あり。
 第五紙、横五三・二。紙背は書状上半を天地順に継ぎ、墨引あり。
 第六紙、横五二・九。紙背は書状下半を天地逆に継ぐ。第五紙と接合し、 裏紙、十月十一日付け、差出あるも判読できず。
 この間にも欠落あり。
 第七紙、横五一・一。紙背は仮名消息上半を天地順に継ぐ。
 第八紙、横五一・二。紙背は仮名消息下半を天地逆に継ぐ。第七紙と接合。
 第九紙、横五一・六。紙背なし。
 第十紙、横二八・五。紙背なし。第九紙と共紙か。
 『長秋記』記載記事を刊本『増補史料大成 長秋記』二でその箇所を示 すと以下の通り。第一紙、書出「大治五年正月大」(一頁)から正月八日 条「若失歟」(二頁上九行目)まで。第二紙、続けて同日条「進二巻」(三 頁上一行日)まで。第三紙、続けて同十六日条末尾(三頁下一一行目)ま で。第四紙、続けて同十七日条より二十九日条「此事汝」(四頁下段一〇 行目)まで。このあと二月五日条末尾(六頁上一一行目)まで欠落。第五 紙、二月九日条より三月十二日条「被仰云」(七頁上一一行目)まで。第 六紙、続けて同十六日条「有妨歟」(八頁上五行目)まで。このあと同二 十五日条末尾(九頁下八行目)まで欠落。第七紙、同二十七日条から四月 八日条末尾(一〇頁下六行目)まで。第八紙、続けて同十二日条から同二 十六日条「其詞」(一一頁下三行目)およびそれに続く一文(後述)まで。 第九紙、同日条「前関白」(同前)より同二十八日条末尾(一二頁上八行 目)まで。第十紙、続けて同二十九日条、以下余白あり。
 表面に記された紙継を示す墨筆に、第一紙「一」、第三紙「二」、第五紙 「四」、第七紙「六」、第九紙「七」とあり、欠落と対応している。また、 紙背に朱筆で、旧表紙「五」、第二紙「一」、第四紙「二」、第六紙「三」、 第八紙「四」とあるのは、欠落後のものであろう。
 途中二箇所の欠落のうち、後者の一部が徳川美術館所蔵の古筆手鏡『玉 海」にある(田村悦子「藤原定家書写 長秋記の別本の断簡について」 『美術研究』二五九、一九六八年)。それによると、三月十七日条「進退出」 (八頁上一二行目)から同二十五日条「東端可」(八頁下四行目)に相当す る九行である。
 源師時の日記「長秋記」の古写本には、宮内庁書陵部所蔵(冷泉家→東 山御文庫別置本→三の丸尚蔵館旧蔵)の藤原定家等の書写による全二二巻 が代表的なものとして知られている(以下、宮書本)。そのなかには当該 本(以下、早大本)と同じ部分を写した一巻が存在する。定家自筆ではな く、縦の法量は一般的な巻子本のサイズである。以下、両者を比較検討す るが、結論的には、平林盛得氏「冷泉家旧蔵『長秋記』『平兵部記』の史 料的価値について」(『古記録にみる王朝儀礼』宮内庁三の丸尚蔵館、一九 九四年)の記述を追認する。すなわち、宮書本以外に存在する自筆本と宮 書本とが重なる部分についでは、宮書本が定家以外の他筆であることを指 摘し、「定家が『長秋記』の丈の長短二種の写本をどのような理由でいつ 作成したかは分からない。両者の詳細な検討をまたなければはっきりしな いが、部分的な対校での推測でいえば、定家自筆本の行間の追記が他筆本 では正されていることや、自筆本の方にみえる文字を他筆本では落として いるなどから、他所の丈の短い自筆本が先で、当館の他筆本が後のようで ある。」としている。
 表紙・原表紙を比較すると、写真版および上掲平林論文に拠る限り、同 一の装丁である。
 字句の異同を見ると、宮書本(上)と早大本(下)とで主要なところは 以下の通り。便宜、刊本で位置を示す。早大本・宮書本ともに同一で刊本 を正せる箇所については、人物に関わる箇所として六真上最終行「宣旨 〈有莱女〉」→「宣旨(有業妻)」のみ指摘し、機会を改める。なお、両本 とも刊本の首書はない。
 一頁上四行目:女□不候ロロ→女房不出衣
 一頁上六行目:後口口口(鷹司本に参内小)朝拝→後参内小朝拝
 一頁下一行目:参給、□□□/五官→参院、今宮五官
 一頁下八行目:□□□□□□→勘文暫可置何所
 二頁下一〇行目:記筥→記経筥
 四頁上一三行目:者、延引→者、一日延引
 七頁上一〇行目:勘申→勘申例
 八頁上二行目:奥座、使→奥座、(七字分程アキ)奏下後/使
 一〇頁下四行目:行幸事→行幸行事
 一一頁下三行目:其詞、前関白→其詞」尤荒」是白表白也、父卿申不 可出仕由、尤無其謂由、」
 一二頁上五行目:□(是または先公。判読困難)教→先公之教
 一二頁上一〇行目:談合→談給
 最初の方に見られる欠損の箇所からは、刊本の祖本が宮書本であること がわかり、誤写にも宮書本の欠損などにもとづく場合があり (たとえば、 一頁下五行目「凡」→「取」、四頁上二行目「以」→「由」)、見せ消ちが 桁字となっている。
 その他は、早大本から東山本を書写した際の脱落と見なせるものである。
 とくに一一頁下段のものは、早大本では料紙末尾に「其詞」とあり左脇に 「尤荒」と続け、以下は上部余白に水平方向に左から右へと書してある。
【慶応義塾図書館】
○ (947)〔机銀器己下寸法事〕一巻(242X-16貴重番〕
 ※『慶応義塾図書館蔵 魚菜文庫(旧称石泰文庫)目録』(慶応義塾大学 三田情報センター、一九八五年)による。『世俗立要集 厨事類記 他一 種』(東横学園女子短期大学女性文化研究所叢書第二輯、同所、一九八七 年)に、影印(紙背は裏書のある部分のみ掲載)と解説(執筆牧野和夫) がある。以下、詳しくは同書に譲り、重複する点は最低限に止めて記す。
 第一紙目は指図で、「机国井寸法」として机の側面図があり、続いて「同 懸盤・所敷絵図」として上下にそれぞれの略図を描く。前者に寸法は書か れていないが、定規で引かれた直線や当たりをつけながら注意深く引かれ た曲線は、等寸大の図を意図していよう。机上面の長さ三〇・五センチ、 高さ二七.二センチ。角金具あり。第一一紙の「榎木螺細懸盤六脚」の右肩 に付せられた注記「其形在別紙」に対応するものとみてよかろう。
 第二紙以下は、「机銀器已下寸法事」と題された文字による記録で、食 器等の員員数・寸法の先例集。内容的な構成はおおよそ次のとおり。
  ①六本具〈御産之時用笥〉:明義門院御誕生之時、東一条院銀器
              :〔建供五年(一二一七)三月二二日誕生〕
  ②「或云」
  ③〈左為記云、為隆記也〉:立皇子〈鳥羽院〉銀器
                  :康和五年(一一〇三)八月一七日
  ④〈上西門院〉后宮朝餉銀器注文事
  ⑤〈京極大殿御託〉郁芳門院〈媞子〉立后時、蔵人藤仲実持参銀器一具
                ‥寛治五年 (一〇九一)〔正月二二日〕
  ⑥内御方常被用銀器
  ⑦若宮〈当今:宗尊親王の誤り〉御着袴、自院被献銀器具
                   :寛元四年 (一二四六) 四月二三日
  ⑧宇治御幸〈後白河院法皇御時〉:元暦年月日 (不明)
  ⑨御幸〈宇治〉:建久〔九年(一一九八)七月二八日カ〕
  ⑩御幸〈宇治〉:宝治二年(一二四八)十月二一日
  ⑪「或注文」
  ⑫朝覲御幸院御所〈嵯峨殿〉:建長三年(一二五一)二月十三日
 これらのうち、⑩に「已上被下用途、予調進」とあるが、『葉黄記』よ
 り「予」は宗茂とわかる。⑦についても、『葉黄記』から御厨子所預散位
 紀宗茂が調進にあたったことがわかる。⑫にも「自院被仰細工所、被相調
 之、予寸法注進之」とあるが、紀宗茂の活動期とみなせる。紀宗茂につい
 ては、中原俊轟『中世公家と地下宮人』(吉川弘文館、一九八七年)二八~
 三〇頁に所見記事が紹介されている。「予」とあるのに特段の注記がなさ
 れておらず、宗茂が自身の関与した事例を、手元の先例とともにまとめて
 書写したものと考えてよかろう。
 紙背にはある人物の毎年の宿陽吉凶を注進したもので、乙巳年・七十三
 才(前欠)から庚申年・八十八歳に至る。ひとまず、寛元三年(一二四五)
 から文応元年(一二六○)が対象であったとみておく。

                              (藤原重雄)


『東京大学史料編纂所報』第38号p.49