東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 東京大学史料編纂所報第38号(2003年)

刊行物紹介

大日本史料 第十編之二十四

本冊には、正親町天皇天正二年八月一日より同年九月末までの史料を収めた。中央で信長の統一事業の上で障害となっていた一向一揆に大きな打撃を与えた。それは伊勢長島の陥落である。まず大鳥居・篠橋城を攻略し(八月三日条)、攻囲を厳しくしたので、一揆側は和を乞い退城した。ただしその退城に際しては凄惨な殲滅戦が演じられ、信長の親族多数が討ち死にした(九月二十九日条)。なおこれと連動して、河内では信長の部将が三好勢・一向宗徒と戦い(九月十八日条)、本願寺光佐は武田勝頼に長島への赴援を求めている(八月二十四日条)。また一揆側に降った越前木目城将樋口直房は、関盛信により殺された(八月十七日条)。同国鉢伏に信長軍に備えた専修寺賢会の籠城の様子は、多くの書状によりかなり具体的に伺えて興味深い(八月二十日条)。
また中央では、秀吉が近江寶厳寺に三百石の地を寄進した(九月十一日条)が、ここに長文の帳簿「天正二年九月十八日 竹生嶋早崎村田畠並屋敷目録」を収載した。
中国では、尼子勝久・山中幸盛等が因幡鳥取城を攻め、山名豊国の内応により、これを復した(九月二十一日条)。出雲日御崎神社の検校小野政光は、検校職を同政久に譲与し、毛利輝元はそれを安堵した(九月二十三日条)。
四国では、長宗我部元親が土佐国統一の過程として、安芸郡に兵を出し、諸城を攻略した(是秋条)。
九州では、本年八月より上井覚兼日記が出現するために、島津関係の箇条が多数収載されることとなった。入来院重豊は以前より謀反の噂があったが、島津義久への八朔の使者が礼せずに帰って来たため、所領を返上して忠誠を誓った(八月一日条)。その重豊旧領に対して島津家久等より競望があったが、結局本田薫親に与えられた(八月十六日条)。なお当時島津氏の家臣や寺院等から出された所領の宛行・繰替や、それに対する義久の対応は、この箇条に合敍した。同族島津義虎にも謀反の疑いがあり、義虎は義久に何度も使者を派遣して弁明している(九月二十六日条)。両者の応答の具体的内容は、箇条的に整理された覚兼の記述によって詳しく判明する。義虎はまた肥後天草の天草鎮尚と紛争を起こしており、義久は両者の調停を計ろうとしている(九月二十八日条)。この年内における島津氏の能関係の事項は九月十五日、田布施金蔵院の能の条に、狩猟関係の事項は九月三十日、春山の狩の条に、それぞれ合敍した。覚兼は義久より「種子嶋筒之逸物」の鉄砲を拝領し、早速使っている。
東国では、徳川家康と武田勝頼が天竜川を挟んで対峙したが、大きな戦闘に至らずに、両者とも引き揚げた(九月七日条)。
本冊には武田勝頼による、家臣・寺社等に対する安堵の箇条が多数存在する(八月二・十二・十四・二十二・二十四・二十七・二十八日条、九月九・十・十一・十二日条)が、これは前年四月武田信玄が没し、勝頼に代替わりした後の一連の処置の一環である。
北条氏に関する箇条は八箇条ほどあるが、ほとんど領内統治に関するもので、且つ簡略なものである。
越中より加賀に進出していた上杉謙信は、加賀地元勢力の要請によって春日山に帰国したが、直ぐに関東に出馬した(八月二十一日条)。
那須・芦名・白河の各氏は佐竹氏攻撃について会盟し、芦名盛氏は佐竹義重の勢を陸奥赤館に破った(九月七日条)。
東北では、伊達輝宗と最上義光は出羽楢下にしばしば戦った(八月四日条)が、結局和睦して兵を還した(九月十日条)。輝宗は織田信長と音問を重ね、金襴・緞子・虎皮などの進物を贈られている(九月二日条)。
死没・伝記としては、田村隆顕(九月六日条)と春澤永恩(八月十六日条)がある。田村隆顕は陸奥三春の城主で、「奥相茶話」には、「武勇兼備、謀略ノ大将」とある。伊達稙宗の女を室とし、伊達氏と結んで勢力を拡大した。伝記には室及び子女にかかることも収めた。なお息清顕の室は相馬顕胤の女で、後に清顕没後、この両後室の確執が田村家分裂の原因となるが、引用した天正十六年の伊達政宗宛隆顕後室の消息には、清顕後室への敵意が見事に表現されている。
永恩は臨済宗の僧侶で、建仁寺の第二百八十七世住持。若狭の人。語録『春澤録』、詩集『枯木稿』の著作がある。生地のためか若狭武田氏との関係が深い事情が、法語により知られる。
なお刊行後に気づいた誤りを以下に掲げる。謹んで訂正したい。一五四頁一〇行目、東郡に「苫東郡」の傍注を付し、二一三頁一行目、榛原郡の傍注の「駿河」を「遠江」に、同上標出「駿河榛原郡」を「遠江榛原郡」にそれぞれ訂正し、三三六頁九行目、尾州小幡城の傍注「勝、下同じ」は除き、三六二頁六行目、長岩城の傍注「豊前」を「筑後」に訂正する。
(目次一一頁、本文三七一頁、本体価格七、三〇〇円)
担当者 酒井信彦・金子拓・黒嶋敏


『東京大学史料編纂所報』第38号p.28-29