東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本史料 第九編之二十三

 本冊は後柏原天皇大永三年年末雑載のうち、禁中、幕府、諸家、疾病・生死、学芸・遊戯に関する史料を収録した。
 「禁中」の条は公家の当番や参内の記事が主である。そのなかで、下総の弘経寺の住持一誉宗悦が、京都東山知恩院の超誉存牛に依頼し、超誉から長橋局(高倉継子)を通して奏聞した結果、綸旨の拝領と参内が実現したという史料がある。地方の浄土宗寺院の動向を示すものとして注目される。
 「諸家」の条では、元服や婚姻などに関わるものを最初に置き、ついで、神事・仏事・参詣・往来・贈答・作事・造作というように、記事内容ごとに分類して配列した。
「疾病・生死」の条は、疾病・出生・死歿の順に配列したが、史料のほとんどは死歿に関わるものである。大永三年に死去した人物でまず注目されるのは、「徳雲院殿前刑部通叟宗普大禅定門」という法名をもつ人物である。大休宗休の法語を集めた「正法山妙心禅寺大休和尚法語」に、「徳雲院殿」の下火の際の法語と、尽七日仏事(大永三年四月十五日)のときの香語、小祥忌(大永四年三月二十六日)のときの香語と、同日に作られた肖像賛が収録されている。このうち肖像賛に、この人物が「遠州太守勝益」の三男で、「叔父一雲」の猶子で、享年は三十八であったこと、肖像は「孝子国慶」が画工に依頼して作成したものであることが記されている。この「遠州太守勝益」は土佐守護代の細川勝益で(尊卑分脈)、「叔父一雲」は上野元治(一雲斎)にあたる。「徳雲院殿」は細川勝益の三男で、叔父の上野元治の猶子になったわけだが、「尊卑分脈」には、上野元治の子として.「元慶」、その子に「国慶」がみえる。「徳雲院殿」の子が「国慶」であったという肖像賛の記事とあわせ考えれば、「徳雲院殿」は「尊卑分脈」にみえる細川元慶であると推測できる。
 また蓮如兼寿の子息の蓮芸兼&#m21015;と実賢兼照が、ともにこの年に死去している。蓮芸は蓮如の二十子(八男)で、摂津富田の教行寺、名塩の教行寺の住持をつとめ、享年は四十歳、実賢は二十二子(九男)で、近江堅田の称徳寺に住し、享年は三十四歳であった。この二人については、その葬儀の様子を詳細に記した「蓮芸葬中陰記」「実賢葬中陰記」があり、本願寺教団における葬儀のありようを具体的に知ることができる。入棺・葬送・灰寄の記事ののち、中陰の仏事次第が続くが、一連の儀式の流れを、場の飾り付けや和賛の題目なども含めて詳述しており、蓮芸の場合には中陰の期間内に御影が作成されて懸けられたこともみえる。「実賢葬中陰記」は弟の実玄兼継の記録であることが確かめられるが、「蓮芸葬中陰記」の記主は定かでない。
 「学芸・遊戯」の条は、書写・賛・揮毫・著作・書籍等貸借・講釈・和歌連歌・聯句・漢詩・道号説・道号頌・跋文・書簡・猿楽・田楽・風流`笙・蹴鞠・将棊・茶湯・立華・刀というように、内容ごとに史料を配列した。
 書写関連の記事のほとんどは聖教の筆写にかかわるものであり、曼殊院や高野山などの聖教目録から該当記事を集めて収載したが、尊鎮入道親王が金剛密印・胎蔵密印などの筆写を行っていたことが知られる。和歌・連歌関連の記事の中心は、三条西実隆の歌集「再昌」や宗長の「宗長手記」であり、「再昌」からは、実隆が冷泉・徳大寺・中御門らの公家や、粟屋元隆・若槻国定といった武士、さらに宗長・肖柏・宗碩らと和歌の贈答を行っていたようすがうかがえる。宗長は一時期越前に下向しており、宗碩は能登七尾にいた。九月二十一日に宗碩が七尾の招月軒で連歌会を開いたときの百韻連歌もここで収録した。
 また、本冊でも興福寺別当経尋の日記「経尋記」から多くの記事を採録した。
 「疾病・生死」の「死歿」項には、観世大夫道見元広に関する記事を収めた(三月十一日条)。元広の歿年については、「四座役者目録」が大永二年とし、「観氏家譜」が天文十九年三月九日とする。能勢朝次『能楽源流考』は、「観氏家譜」の歿年記載に誤りが多いこと、「二水記」享禄三年五月三且条の「当大夫」が元広息宗節元忠であり、これ以前に元広は歿していたと考えられることから、「四座役者目録」によって大永二年歿とすぺきとした。他の辞典類なども多くこれによっているようである。しかし、今回収めた「経尋記」によって大永三年三月六日と確定できる。
 「学芸・遊戯」の項には、春日神主西師順のもとめにより、西家相伝の足利義持像に経尋が銘を加えたという記事を収めた(六月十九・二十二・二十八日条)。その画像は、縦長の画面を三段に区切り、義持を中心として、上に地蔵菩薩、下に西師盛を描く、という特殊な構図を持つ。この記述に相当する画像は、東京大学史料編纂所架蔵肖像画模本「足利義持并春日神主師盛画像」(架番号波―二四七)である。原本が伝わらず、作者・成立年代ともに未詳とされてきたが、「経尋記」の記事から、銘は大永三年に経尋によって加えられた、ゆえに画像自体の成立は大永三年以前であること、さらに、作者は「土佐之将監」(行広をあてたが、なお検討を要する)とされていたことがわかる。
(目次一頁、本文三三一頁、本体価格六、二〇〇円)
担当者山田邦明・渡追正男


『東京大学史料編纂所報』第38号p.27-28