東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 薩戒記二

 本冊には応永三十一(一四二四)・同三十二年を収めた。応永三十一年は七月~九月について原本一軸が本所に所蔵されている。記主自身によると思われる?紙および官位・年齢・花押等を記した冒頭部分を伝えるのは、この一軸のみとなっている。他の月については、故実や書札礼に対する関心によって抄出・書写された「記中抄出」「叙位部類」等から記事を抜き出し、月日順に排列した。また応永三十二年は、写本ではあるが、日次記のほぼ全部が伝来している。浄書本である東山御文庫本を底本とし、適宜陽明文庫本によって校訂を行った。
記主の中山定親は二十四~二十五歳、官位は従三位参議左中将である。政務の中枢に関わるような情報を得られる立場にはなく、本人の関心ももっぱら朝廷内部に向けられていたようである。記事の多くを占めるのは、朝廷における儀式の一部始終で、先祖である中山忠親の「山槐記」をはじめとする各種先例を参照しつつ、出席者の作法に検討を加えている。定親は正長元年に「山槐記」から有職故実関係の記事を抄出して「達幸故実抄」を編集するが、その内容は「薩戒記」の記述と重なる部分が多く、彼の儀式の現場における体験が編集方針に反映されていると考えられる。ただし、逆に「山槐記」の投影として「薩戒記」の儀礼世界が構築されているとみることもできるので、両者の関係については今後の検討が必要であろう。
また書札礼に対する関心から、儀式や法会の実施に際して発給される文書や人事関係の口宣等が蒐集・記録されている。応永三十二年六月には、新しく蔵人頭となった油小路隆夏が来訪して公事についての指南を求めたが、前大納言日野資国が故実の第一人者として定親を推薦したからであったという。隆夏は蔵人頭として作成すべき文書の書き方を頻繁に問いあわせてきており、それに応じて定親が示した雛型が数多く収録されている。朝儀への参加を催す場合に綸旨と職事の直状との両方の様式が用いられる例もみられ、使い分けの基準が問題となるが、定親の認識は、公事分配や卜合については奉行職事の直状によって参否を問えばよく、応諾が得られなかった場合のみ天気を伺い、あらためて綸旨を送るというものであった。
定親は儀式だけでなく、朝廷や貴族社会の内部事情についてもかなりふみこんだ記述を行っている。なかでも応永三十二年二月の後小松上皇第二皇子である小川宮の急死と、それに続く皇室内の閉塞的状況は重要であろう。小川宮にはそれまで病の徴候等がなく、死因についてはさまざまな憶測が流れ、毒殺説も唱えられたという。また上皇が失意のあまり放心状態であったため、仏事等は足利義持の主導で行われた。ほどなくして義持息の将軍足利義量も若くして亡くなり、公武の後継者があいついで失われたことにより、世間に不穏な空気が漂うこととなった。六月には上皇と称光天皇との確執が表面化する。発端は天皇が内裏に琵琶法師を招いて「平家物語」を語らせたいと望んだのを、上皇が先例なしとして許可しなかった一件であった。天皇はこれに猛反発し、天皇位を捨てて出奔しようとした。義持がこれを留めたが、洛中には種々の噂が流れ、武士が武装して群集するなど、一時騒然とした。小川宮の死後、伏見宮貞成が親王宣下をうけて上皇の猶子となったことが、天皇の意にそまなかったためかともいわれている。さらに七月末には天皇が発病し、「御絶入」と「取直御」とが交互に伝えられた。上皇のもとでは崩御を前提とした対策が講じられていたが、病は次第に快方に向かった。天皇が感情的な主張を上皇にぶつけようとするため、あえてその意をとりつごうという者がなく、両者の溝はますます深まったが、その際に足利義持がよく両者の仲介を果たし、事態をおさめた点は注目すべきであろう。また八月に、内侍所において南朝の小倉宮の意をうけた女官が天皇を呪詛している旨を、青侍が密告するという事件がおこった。義持が侍所に命じて関係者を捕え、尋問が行われたが、真相は明らかにならず、湯起請が行われたという。
さて応永三十二年四月に広橋兼宣が出家し、准大臣宣下をうけた。すでに出家していた日野資教も兼宣に超越されることを恥辱として訴え、同じく宣下を受けた。その後、兼宣は自邸の前に裏築地を築くが、「過分所為」として上皇の不興をかい、自ら壊却するという事件をおこしている。名家の人々が権勢をふるい、本来の家格以上の待遇を求める風潮に対して、定親は批判をくりかえしており、「名家輩根本為摂家々僕」と記している。のちに足利義教のもとで、名家に属する多くの人々が譴責され失脚することになるが、その前史として注目すべきであろう。
なお本冊の編纂にあたっては中世史料部「大日本史料」第七編担当の榎原雅治氏の協力を得た。
(例言三頁、目次二頁、本文二七二頁、口絵一葉、価八、五〇〇円、岩波書店発行)
担当者 本郷恵子


『東京大学史料編纂所報』第38号p.35-36