38.『大日本史料』第三編関係史料の調査・収集・校正

二〇〇二年三月十一日~十三日の間、奈良文化財研究所に赴き、興福寺所蔵史料を写真帳に拠って閲覧した。歴史研究室の綾村宏氏・吉川川聡氏には御高配・御助言を賜った。記して謝意を表す。
 対象としたのは、本所に写真帳の架蔵されない『僧綱補任』(影写本[3016-2])および第四六・四七函(細目は『興福寺典籍文書目録』二) である。このうち、尋尊筆録記について簡単な所見を記しておく。
 いわゆる 『大乗院寺社雑事記』として知られる尋尊の日記のほかに、『尋尊御記』の名称で知られる尋尊筆録の興福寺関係の故実書がある。内容はおおむね五つの部分からなり、①七大寺等の列挙、②興福寺井春日社法会神事等の年中行事で「此外書書長者宣一通在之、但毎年儀也」まで、③維摩会を中心とする法会関係故実と文書雛型で「以上寺解文条々」まで、④法会関係故実で「以上僧綱輩可存知事也」まで、⑤当寺金堂供養年季とつづけて故実、の構成となっている。興福寺所蔵本としては、『尋尊御記』(四五函二、寛文九年、信雅写、史料編纂所架蔵謄写本[2073-61])があり、同じく興福寺所蔵『寺社根本要記(興福寺)』(四七函二一、金勝院旧蔵、天正十八年本奥書)や京都大学附属図書館所蔵平松家旧蔵本『尋尊御記』(六門シ五、妙喜院旧蔵)も同内容である。抄出本に、興福寺所蔵『七大寺井興福寺諸堂縁起』(四七函二四、大乗院旧蔵、天正十八年本奥書、正保四年写)は①の部分を、同じく興福寺所蔵『尋尊御記抜書』(四五函三)は②③の部分を、前田育徳会尊経閣文庫所蔵『尋尊御記』(天正十三年写、史料編纂所架蔵写真帳[6115-11])は①②の部分を写したものである。なお、永島福太郎『奈良文化の伝流』(目黒書店、一九五一年)では「興福寺年中行事」の名称で引用され、末柄豊「東京大学史料編纂所所蔵『興福寺年中行事について』」 (『東京大学史料編纂所研究紀要』一一、二〇〇一年)註二二も参照。
 一方、第四六・四七函には尋尊自筆と認められる記録類が散見するが、いずれも上記『尋尊御記』とは内容が異なり、その原本・祖本といえない。『尋尊御記』(四七函二)は、紙背文書があり、後補表紙に「尋尊御記/諸寺伽藍事/維摩会事/先徳入滅事/大乗院」とあって、項目を順に掲げると、大安寺請堂事、享徳四年五月二十八日諸寺巡礼事(大安寺・薬師寺・招提寺・興福院・喜光寺・西大寺)、維摩会遂講時上下装束事、項目名なく興福寺別当の入滅年月日の列挙となる。『春日社興福寺建立次第』(四七函三五、史料編纂所架蔵謄写本[2015-114]) にも紙背文書があり、『尋尊御記』の①の部分よりも年代などが詳しく記述も未整理の状態で余白が多い。また『名僧達入滅年号之記〈付入唐求法〉』(四七函三一)も尋尊自筆の記であるが、内容的に『尋尊御記』とは重ならない。
 このほか興福寺所蔵『七大寺記(興福寺分)』(四七函二五)は、近世写本で構成が異なる別本ながら、内容的に『尋尊御記』の②⑤の部分と重なり、現行『尋尊御記』の成立に参考となりそうである。諸所に分蔵されている尋尊自筆の記録類全体を視野に入れ、今後とも検討を重ねてゆく必要がある。

                              (田島 公・藤原重雄)

『東京大学史料編纂所報』第37号