大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之 十八

前冊に引き続き東大寺図書館所蔵文書(未成巻文書)を刊行する。本冊は、1─10架(大和薬園荘)、1─11架(同櫟荘)、1─12架(播磨大部荘)の途中までを扱った。
 現在の大和郡山市内にあったとされる薬園荘は、薬師寺領薬園荘が隣接するために、院政期・鎌倉期を通して相論が発生している。院政期の相論は応保二年(一一六二)五月一日官宣旨案(『大日本古文書 東大寺文書之三』六五〇号)に詳しい。本冊の一〇二七・一〇三二の各号文書は、この相論に関わるもの。同じく他寺との相論に関わるものとして、弘安年間に興福寺再建のために興福寺が大和一国に課した土打段米をめぐる文書がまとまってある(一〇三八・一〇三九の各号他)。なお次の〔寺領部櫟荘〕に属する一〇六六号他も一連のもの。当初、土打段米問題は、朝廷ないし摂関家勧学院の裁許によって解決が図られるべきでものであったが、興福寺が京都側の命令を拒んだために、東大寺は幕府の介入を朝廷に要求した。一〇五〇号は六波羅探題宛の申状の案であって、東大寺―朝廷―鎌倉幕府という公式ルートとは別に、東大寺―六波羅―鎌倉幕府というルートがあった点は興味深い。一〇三七号他は、延慶・正和年間における荘官職(得分)をめぐる相論に関するもの。複数の債務関係が入り組んでいるが、下司職を売却した尭寛と、これを獲得した実憲とが東大寺寺内の法廷にて争ったものであり、寺内訴訟制度を示す史料でもある。
 現在の天理市内にあった櫟荘は、興福寺との相論に関するものが多い。文永年間の興福寺との相論(一〇五三号他)は、大和国内の検断権を有する興福寺が、検断行為として櫟荘荘民の名田を没収。対して名田返還を求めて櫟荘百姓が領主東大寺に訴え出たもの。なお百姓の申状は、正文と土代の二種類がある。これらは、百姓申状の性格を考える上で重要な素材ではないか。土打段米関係としては正安二年(一三〇〇)あるいは嘉元年間のものが見える(一〇七六・一〇五五・一〇八九各号)。このうち一〇七六号は破損が激しく『鎌倉遺文』では十分に翻刻できていなかった。今回技術部の協力を得て、その欠を補うことができた。本架に属する院政期頃の文書は年欠のため『平安遺文』未収のものがある(一〇六五・一〇七〇・一〇七一の各号他)。今回一応の年次比定を試みたが、比定ができなかったものも含め、今後さらなる究明を期す。
 兵庫県小野市にあった大部荘については、すでに『兵庫県史』『小野市史』に関連する東大寺文書の紹介がある。本冊編纂にあたっても大いに参考とした。本冊ではさらに、原本精査による字句の訂正、分離した文書の復元、連絡案文の忠実な復元などに努めた。大部荘関連文書については、なお次冊に引き継がれるが、本冊収載の文書に限って紹介する。
 大部荘は、院政期に成立したが、承久の乱以前の史料は少ない。寛喜・貞永年間頃の預所職・地頭職をめぐる相論関係文書(一一一二・一一一八の各号他)が古い部類に属する。鎌倉後期、同荘荘務権は、東南院と東大寺惣寺の間を行き来する(一一二三号他)が、東大寺文書として残る大部荘関連文書は、概ね惣寺が荘務権を持った時期に限られ、①永仁・正安年間頃、悪党問題(一一四六号他)、下村地頭と坂部地頭違乱停止(一一〇四号他)。②元亨・嘉暦年間頃、公文職相論関係(一一〇八号他)。なおこの相論は南北朝期康永・貞和年間にも継続する(一一五二号他)。③嘉暦年間、百姓債務相論関係(一一〇二・一一三一の各号)などがある。建武年間以降、荘務権は惣寺が保有したと考えられる。この時期のものとしては、①南北朝内乱期、守護・室町殿に対する安堵要請(一一一六・一一〇三の各号他)。②室町殿による課役免除と寄進(一一四九号他)。③享徳年間頃、播磨は赤松氏と山名氏との交戦状態となった。それに関連する兵粮米免除や荘園現地の動向に関するもの(一〇九五・一一一〇の各号他)、などがある。また、本荘には室町中期の帳簿が多数残る。本冊では一〇九一~三号を翻刻した。うち一〇九一号の名寄帳と一〇九三号の内検帳は、同一年の同一対象の帳簿であるから、対照することにより検注に関する文書処理を知ることができる。なお一〇九一号は、本来の綴じがはずれて散逸・乱丁があるが、『兵庫県史』の復原を参照し、ほぼ同時期に作成された内検帳などの配列を検討して、原状復原に努めた(一〇九二号も同じ)。
 欠損文書の復元に際しては、国立歴史民俗博物館の東大寺文書目録データベース、本所の古文書目録データベースを大いに活用した点を付記する。
(例言四頁、目次一三頁、本文二八八頁、花押・印章一覧四葉、同掲載頁一覧一葉、価六、四〇〇円)
主担当者 遠藤基郎

『東京大学史料編纂所報』第37号