東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 後深心院関白記 二

 本冊には、延文五年(一三六〇)から貞治三年(一三八四)までの具注暦を利用した暦記、五年分を収めた。
 底本に用いたのは、陽明文庫所蔵の原本および原本断簡である、このうち延文五年春夏、同年秋冬、康安元年(一三八一)春夏、貞治元年秋、貞治三年春については、半年分を一巻とする巻子本として、暦記の原形態をかなり残した原本が陽明文庫に伝わる。陽明文庫第六函十三・十四・十五・十八・十九号がこれに相当する。これ以外に製巻されているのは、わずかに康安元年七月・一一月の各数日分(第六函十六号)、貞治元年正月・四月の各数日分(第六函十七号)だけである。そのほかの部分は、諸書の紙背に一紙ごとになって見出される暦記(多くは日記記事のほとんどない具注暦)断簡を集めて復原した。これらの断簡を紙背に持っているのは、陽明文庫所蔵の、『抜粋少々』、『旧例部類記』、『信尋公記抄録』、『三貌院殿御鈔出』、『尚嗣公記』、『沢庵百首』である。なお本冊部分では、断簡約一八枚分の所在が確認されていない。
 本冊の部分においても、前冊分と同様、後深心院関白記の暦記原本は、原本そのものに、その伝来の途上で加えられた改変の痕跡を留めている。原形態では、別紙を使った記事や文書正文も、ひとたびは具注暦の当該日付の箇所を切って貼りこみ、継入れたと考えられるが、のちに特定の一連記事を含む部分だけが、切り離されて別記の扱いを受け、しばらく別置されていた痕跡がある。①康安元年三月二九日条(改元定の記事)は、端裏に年月日を記す後筆の銘がある。切り離した際に記入されたのであろう。裏打も新しく前後と異なるが、現在は元の位置に戻されている(第六函十五号)。これと同じような意図で、暦?紙と第一張および暦?紙の見返に掲示されている特定の一連記事の部分だけを残して保存し、他の部分を切り離してしまった場合がある。康安元年秋冬巻の暦?紙と第一張(口絵参照)は、②一一月九日条(近衛道嗣関白就任の記事、後光厳天皇宣旨など文書正文も継入れている)および関連ある一一月二一~二五日条だけを伴い(第六函十六号)、また貞治元年春夏巻の暦?紙と第一張は、③四月二七日条(道嗣関白拝賀の記事)だけを伴う(第六函十七号)。③の四月二七日条の端に記入された後筆の年月日の銘は、①の端裏のそれと同筆であるから、このような改変は①のそれと同時に行われたと推定される。しかし①の場合、前後の部分も暦?紙とともに巻子として保存されたのに対し、②③の処理によって切り離された前後部分は、暦?紙もなく日記記事も少なかったからであろう、のち一紙ずつに解体されて、他の書物の料紙とされてしまったのである。
 康安元年九月二三日条(細川清氏の没落)は、②の処理の結果、やがて断簡になった一例である(口絵参照)。近衛家煕は、後深心院関白記の原本を整理した際、近衛政家の作成した抄出本(『後深心院殿御記新写〈自延文元年至貞治六年〉愚管上』)にこの記事の存在することを押紙に朱書して、康安元年秋冬巻の第1張奥に付している(口絵参照)。しかし②の原本が同家所蔵の『旧例部類記』の紙背に断簡として残っていたことに、家煕は気付いていないようである。
 記主、近衛道嗣は、延文五年九月三〇日左大臣となり、翌康安元年三月拝賀を行って県召除目の執筆を勤め、さらに改元定の上卿を勤め詳しい記録を残した(上記①)。この年一一月九日道嗣は待望の関白に就任した(上記②)が、不安定な軍事情勢下、後光厳天皇は近江国で翌貞治元年正月を迎え、帰洛後、道嗣の関白拝賀は、四月二八日に行われた(上記③)。その後法勝寺法華八講の事件など関白の政務を伝える記事が並ぶが、八月の改元定には、関白職の名誉を理由に参仕を拒み、従ってその関連記事は少ない。一〇月四日左大臣上表を行った。後深心院関白記にその事を記さなかったことは、断簡によって確認される。翌貞治二年は日記の記事を欠く。六月六日道嗣室に従三位の宣下があったけれども、断簡に記事はない。六月二七日断簡は、目下のところ見つからないが、道嗣が関白を辞めた日である。道嗣が関白を退くに至るのは、二条良基が、関白に復帰するためであったといえよう。道嗣は華麗な道を行く時、日記に力を注ぐ一方、下り坂になると筆が遠のく傾向にあるらしい。貞治二年以後しばらく具注暦に年中行事の注を記入しなくなっているのも、このことに関連するのではなかろうか。
 軍事情勢についての情報は、比較的こまめに記録され重要な史料とされているが、摂津尼崎に出陣した足利義詮等への書状による陣中見舞い、近江に出向いた義詮と天皇への見舞い、洛外新熊野に出た義詮と天皇への見舞いなど、道嗣の立場や貴族の行動様式の面で、興味深い。洞院公賢の死と、その後継者実夏・実守の対立、義詮や天皇の介入など、洞院家の家督と遣領問題の推移は、克明に辿れる。虎関師錬の『元亨釈書』を大蔵に入れ天下に流伝させる延文五年六月七日の宣旨は、字配りを伝える写しを残している。
 道嗣の文化活動には、多面的な意味があるらしい。和歌や漢詩のほか、関白就任前には、自邸において韓愈文集・荘子・春秋左氏伝など古典講読の会を主催している。貞治二年に日記作成を中断した道嗣は、貞治三年日記を再開した。和歌の記事が散見するが、義詮の主唱によって勅撰集(新拾遺和歌集)の撰歌作業が始まっていく弾みが、日記再開の一因となったのかも知れない。なお貞治三年二月一九日条(三〇五頁)の西山恵仁上人に関する傍注と標出には、善峰寺としているが、正確には三鈷寺とすべきである。御訂正いただきたい。
(例言二頁、目次二頁、本文三四九頁、口絵二葉、定価一三、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者菅原昭英


『東京大学史料編纂所報』第37号p.36-37