東京大学史料編纂所

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刊行物紹介

大日本古記録 中右記 四

本冊には承徳二年(一〇九八)・康和四年(一一〇二)を収めた。本冊の底本には、古写本では陽明文庫本、新写本では東山御文庫本を用いた。校合には、東山御文庫本、京都大学総合博物館所蔵勧修寺家旧蔵本・陽明文庫所蔵新写本および宮内庁書陵部所蔵『中右記部類』十八(九条家旧蔵、古写本)を用いた。これらの写本については前冊までに紹介している。
 本冊に収めた古写本七巻のうち、承徳二年四季および康和四年秋・冬の六巻には、藤原兼経(一二一〇―五九)が建長元年(一二四九)にこの本から抄出した際の奥書があり、また東山御文庫本の康和四年春巻には、祖本である陽明文庫本の、建長元年の兼経の抄出奥書が花押影とともに書写されている。本冊における記主宗忠は、三七歳の承徳二年正月二七日に右中弁から左中弁に転じ、同年一二月一七日に右大弁に転じるとともに、蔵人頭に補された。次いで同二九日に造興福寺長官と勧学院別当を兼ねている。日記の逸失している翌康和元年に参議に任じられて公卿に上り、康和四年には四一歳、参議右大弁で、正月五日に正三位に叙された。承徳元年五月父宗俊を病により失った宗忠は、一二月から、父の遺言に従い、父が段した邸宅であり、祖母らが住む一条殿に、小堂の建設を開始する。連日のように一条殿におもむき、熱心に作事を指揮した甲斐があって、同二年三月二四日に新堂の造立供養を行い、丈六阿弥陀如来像を安置することができた。当日の記事によれぱ、宗俊は自身が着手しながら成就できなかった阿弥陀仏像の一周忌中の完成を宗忠に命じ、像の容貌は日野観音堂(法界寺)の阿弥陀仏像を写すように言い残した。宗忠は父の命を守り、一周忌を前に一間四面の新堂を建立し造営供養を終えたのである。そして宗俊の命日である五月五日に一周忌法事を行い、一七日には除服したが、いまだ悲しみはいえず、悲歎のあまり和歌を詠み、それに和したある所の女房の和歌とともに日記に記している。
 除服を終えて本格的に公務に復帰した宗忠は、弁官としての政務に励み、父の逝去以前のように、旧記の記事は詳細になる。依然として堀河天皇の厚い信頼を受け、康和四年の秋以降には、天皇と白河法皇との間を往反し、さまざまな案件に関して連絡にあたる記事が頻出する。事項の羅列や簡単なコメントが中心ではあるが、天皇―法皇の意思決定がなされていく過程をうかがうことができる。一方、康和元年に関白藤原師通が急逝した後氏長者となった、従兄弟にあたる忠実の補佐にも努めた。
 注目すべき記事として、まず宗忠が初めて勅使弁として参列した承徳二年の興福寺維摩会がある。一〇月一〇日から一六日にいたる式日を中心として、勅使弁の眼から詳述された維摩会の記録は貴重な史料であり、これまでも研究に利用されてきた。ただし古写本の書写に多少忠実さが欠けており、流布本・『史料大成』にもその誤りが踏襲されている。本冊で校訂に用いた九条本『中右記部類』十八に、本記同様に詳細なこの年の維摩会の記事が収載されている。宗忠が日記の文章を書き改め、関連史料を付加して作成したものであり、本記との対照が興味深い。
 また康和四年三月の白河法皇の五十算賀、七月の堀河天皇御願尊勝寺造立供養などの大規模な臨時の行事に関して、当日の詳細な記録はもとより、事前の準備や事後の処理などを知ることができる。ことに五十算賀では、自身が楽行事を、次男宗重が童舞を勤めたため、関連記事が多い。政務・年中行事においても、康和四年二月の列見の記事などは『江家次第』のような儀式書に勝る詳しさである。ほかに康和四年秋、興福寺衆徒が院使を凌礫したことにより、興福寺別当覚信が法皇の勅勘を受け寺務を止められた騒動など、この頃から隆盛になる延暦寺・園城寺・興福寺等の衆徒の騒乱や入洛の記事などがある。
(例言一頁、目次一頁、本文二六一頁、口絵二葉、価一一、OOO円、岩波書店発行)
担当者吉田早苗


『東京大学史料編纂所報』第37号p.35-36