大日本近世史料 細川家史料 十八

本冊には、細川忠利文書の内、寛永十一年分の諸方宛書状として寛永十一年「公儀方御書案文」(整理番号十ー廿三ー三)所収の四百十六通を収めた。
宛先は、前々巻以来同様に、幕閣、大名、その家臣、旗本、幕府諸奉行、公家、僧侶、社家、商人等々さまざまである。
 肥後転封後二度目の正月を江戸で迎えた忠利は、世嗣光尚と烏丸光賢女禰々の婚儀(三月八日)を済ませ、家光上洛に伴う準備をしながら、比較的のんびりとした春を過ごしている。五月九日に家光に先立ち江戸を発し、五月二十日に京における滞在地である上鳥羽に着き、有馬への湯治の期間も挟みながら、家光の入洛(七月十一日)を待った。七月十八日の家光の参内において、二条城から御所までの行列が催されたが、行列に随行したのは諸大夫と譜代の公家大名のみであり、忠利ら国持大名は衣冠の装束にて四足門前での行列出迎えが命じられた。翌日、家光は、二条城に集まった忠利ら諸大名を前にして、参内時に太政大臣任官の「勅諚」があったが、まだ若年である等の理由で辞退した旨を伝えた。上洛に伴う警備はかなり厳しく、この時出された法度では、滞在中に京で火事が起きても町を越えての見舞い無用、乱心者が出た時も取り押さえ役人以外は出合無用とされている。能興行につめかけた見物人が混乱の中で死傷する事件が起きたり、辻切りが時折発生するなどしているが、忠利の認識としては、これだけ多数の武士が洛中にあふれているのに喧嘩が一度もないことに対して「京中少も替事」なく「残る所な」しとしている(以上二四七五・二四八一・二四八五・二四八六号文書等)。
 忠利は、閏七月十八日、九州・中国・四国の大名とともに、家光から帰国の許可を言い渡された。同時に、この時、国元での伴天連の穿鑿強化を直接命じられている(二五〇七号)。八月一日に京を出発し、同十三日に熊本へ着いたが、帰国のその日から領内の伴天連・入満・同宿・切支丹等の穿鑿にとりかかり、「一日も隙無」(二六一三号)という多忙な日々が始まる。手始めに長崎奉行榊原職直らに対して、長崎での伴天連対策を尋ね、それまで行っていた下々からの宗門の書物取り以外に方法がないか探っている。そうする内に、領内の豊後や肥後から伴天連捕縛等の情報が寄せられ始め、伴天連に宿を貸した者の穿鑿も開始された。忠利は、長崎奉行・豊後府内目付や、島津氏・有馬氏(延岡)・稲葉氏(臼杵)氏等の隣接する大名等と連絡を取り合いながら、個々の伴天連摘発に対応している(二六〇二号等多数)。その中で、忠利は切支丹改めは一朝一夕に完了できるものではなく、踏絵の改め等により転んだとしても、「七度ハ成帰り候へとの」教えが「南蛮」より信者に対して出ているとの認識を示し、「とだへなく連々ニ切支丹たやし」続けるより他はないと進言している(二六一四・二六三九・二六四九号等)。
 十月に入ると、江戸城普請についての情報が流れ始め、十一月九日付の幕府年寄奉書(十一月晦日熊本着)により、正式に、翌々年の江戸城普請が命じられた。細川氏は石垣普請の担当とされているが、すでに十月段階から普請道具や石場の準備等に取りかかり、金策のことも心配し始めている(二六四七・二七三四号等)。さらに、家光の本心は翌々年よりも、翌年に普請を行いたいのではないかと忖度し、幕府の普請奉行たちに対して来年七月八月からの普請開始を内々申し入れてもいる(二七三五・二七三六号)。
 十一月十八日付で山城長岡藩主永井直清に出した書状(二六九六号)の内容は、忠利の幕府に対する意見の上申事績として早くから注目され、『綿考輯録』においても特記されているものである。最近では『部分御旧記』所載の同書状を、吉村豊雄氏が「意見状」として紹介、とくに参勤交代制度化との関係を中心に検討している(「参勤交代の制度化についての一考察ー寛永武家諸法度と細川氏ー」熊本大学文学部『文学部論叢第二九号』一九八九年)。
 これ以外にもこの年後半は、様々な事件(家臣借銀に関しての大坂商人から公儀への訴訟、家臣一族の者の寛永寺境内での騒動等々)が頻発し、忠利は一つずつ処理している。そして、次の参勤が年明け以降となったことを喜び、江戸の光尚の疱瘡が思いの外軽かったことに安堵しながら、この年の暮れを迎えている。
(例言二頁、目次三一頁、本文四五六頁、人名一覧三三頁、価一三、七〇〇円)担当者 山本博文・小宮木代良・松澤克行

『東京大学史料編纂所報』第37号