大日本史料第八編之三十八

本冊には、延徳二年(一四九〇)八月一日から閏八月是月までの二ヶ月間を収録した。
七月五日に将軍宣下をうけた足利義材は、八月二八日に御沙汰始・御判始を行い、以後ようやく、父義視の後見をうけつつ政務決裁に携わることとなった(八月二八日第一条・同月三〇日第一条など)。そのため、同日以後、幕府における訴訟の進行さらには裁断、あるいは五山十刹以下禅院の住持任免にかかる記事の増加が著しい。この傾向が顕著にあらわれる理由のひとつとして、二種の『伺事記録』および『蜷川家文書』所収「度々被仰出条々」の残存をあげることができる。これらの史料の性格は、設楽薫「『伺事記録』の成立」(『史学雑誌』九五編二号、一九八六年)などによって明らかにされているが、飯尾元連・清元定および諏方貞通という三人の奉行人の担当した事案(貞通については政所執事代として関与した事案のみ)についての記録がたまたま残ったものでしかない。したがって、この時期に提起された訴訟は、実際にはこの幾倍にも及ぶものであったことは疑いないのである。
前年美濃から上洛したばかりで、幕府に入って日が浅く、内部に有力な協力者を持たなかった義視・義材父子は、継統前より父子に親昵してきた腹心を重用し、訴訟の進行においても申次というかたちで制度的に関与させるに至った(設楽薫「将軍足利義材の政務決裁−「御前沙汰」における将軍側近の役割−」〔『史学雑誌』九六編七号、一九八七年〕参照)。腹心の代表ともいうべき葉室光忠が諸権門にとって看過し得ない存在となったことは、八月二八日第一条に収めた史料にはっきりと見て取れる。また、光忠に山城国桂荘を与えており(閏八月是月第二条)、継統前より親昵してきた者への論功行賞のあったことがわかる。その明確なあらわれは、禅院の人事のなかにも見出せる。父子が美濃にあったとき滞在した承隆寺の僧祖庭敬教に対し、秉払を遂げておらず住持となる資格を欠いていたにもかかわらず、十刹の公帖を与えているのである。(閏八月一〇日第二条、今泉淑夫「祖庭敬教の場合」〔『日本歴史』六〇〇号、一九九八年〕参照)。
一方、応仁・文明の乱中に義視の御内書で真如寺住持に任じた南禅寺正的院主受継を、改めて公帖を出すことなく真如寺住持たらしめんとしたこと(閏八月一一日第二条)は、乱中の西幕府の発給文書に正当性を認めることを意図したものであろう。このことは、義視の権威を前将軍としてのそれとして確立することにつながるはずであった。
如上のごとき義視・義材父子の動向が、従前より幕府内にあった者、ことに細川政元との摩擦を生ずるのは当然であり、京都に不穏な様相の見えていたことは、『大乗院寺社雑事記』八月七日・同九日・閏八月九日の各条(二九四頁)に明らかである。この政情不安は、京都に土一揆を惹起するに至った(閏八月一四日条)。『蔭凉軒日録』閏八月一五日条によれば、政元の命でその被官が一揆の大将となっていたことが知られ(二八九頁)、政治的な背景を窺うことができる。また、この土一揆と直接につながるものではないが、十月には南山城から大和にかけて土一揆が起こり、興福寺の官符衆徒によって徳政が行われるに至っている(閏八月一四日条に併せて収む)。
禁中関係の主要な事項としては、後土御門天皇と三条西実隆との両吟連歌(八月一一日第一条)、葉室教忠の叙従一位(八月一九日第一条、本年八月以後の叙位を合叙)、五代集類句全三十巻の完成(閏八月一二日第一条、武井和人「類句和歌集攷」〔同『中世和歌の文献学的研究』《笠間書院、一九八九年》所収、初出は一九八五年〕参照)、大原勝林院の観音像を叡覧(閏八月一五日第二条)などがあげられる。葉室教忠(光忠の父)の叙従一位は、葉室家において初例であり、武家の執奏と明記する記事はないものの、義視・義材父子による論功行賞の一環であったと考えられる。
ほかに、京暦の八月に東国では閏七月が行われていたこと(八月是月第一条一)は注目すべきである。このような事態の生じた経緯については、桃裕行「神託で閏月を決めること」(同著作集八『暦法の研究』下〔思文閣出版、一九九〇年〕所収、初出は一九六二年)が明らかにしている。さらに、今回収録した足利学校旧蔵の『周易命期略秘伝』により、京暦では八月三〇日が秋分であったのに対し、東国の暦では同月が小尽で、秋分が翌月一日となっていたため、正閏が異ることが確かめられた。つまり、東国の閏七月の日付は、京暦の八月の日付と一致し、東国の八月の日付は、京暦の閏八月の日付に一を加えた数字になるのである。したがって、閏七月二七日の出来事たる、佐竹義舜が一族山入義藤・氏義によって常陸太田城を逐われたことは、八月二七日条に収めて誤りないわけである。
また、この間に卒去した、五辻泰仲(八月一日第三条)・津守国昭(八月六日第三条)・東寺宝輪院宗寿(八月一八日第二条)・醍醐寺中性院重賀(閏八月一五日第四条)の四名について、事蹟を収めた。五辻泰仲は、六位蔵人をつとめ非参議従三位まで昇進する家柄に属するが、応仁・文明の乱後に困窮から出家し、従四位上前左衛門佐で官途を終わっている。以後も禁中月次連歌などにその名が頻出する。津守国昭は、住吉社神主であったにもかかわらず、一休宗純に篤く帰依して道号夢翁を与えられ、出家して法名宗州といった。死後遺骸を薪酬恩庵に送るべきことを遺言するなど、興味深い人物である。宝輪院宗寿は、東寺の学僧で、供僧一臈となって権僧正に昇っているが、もとは賀茂宝幢寺あたりから横入したと思しい。この時期の東寺の教学を代表する人物のひとりであり、聖教類を多く残している(櫛田良洪『続真言密教成立過程の研究』〔山喜房仏書林、一九七九年〕三四七〜三五一頁を参照)。なお、東寺宝菩提院三密蔵聖教(大正大学附属図書館架蔵マイクロフィルムによる)については、大正大学坂本正仁氏に種々ご教示いただいた。中性院重賀は、醍醐寺三宝院門跡の出世で、報恩院流の法脈相承の正嫡に連なっている。俗姓は重冬入道の孫と記されるに過ぎず、明確にはできないが、『後愚昧記』などに見える随身秦重冬の孫にあたるのかも知れない。義演の編んだ『五八代記』によって伝記の概要が知られるが、その素材となった史料の多くも『醍醐寺文書』のうちに見出すことができ、関係史料は頗る多い。また、龍門文庫所蔵『諸阿闍梨真言密教部類惣録』(『龍門文庫善本叢刊』一二〔同文庫、一九八八年〕所収)の裏表紙見返しに「伝領重賀(花押)」とあるのは、鎌倉時代後期を下らないものとされているが、この中性院重賀の手になるものであることは、花押の照合からも明らかである。つまり、同書は室町時代には醍醐寺三宝院に伝来したと考えるべきであろう。
(目次一五頁、本文四一九頁)
担当者 末柄豊・前川祐一郎

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.26*-28