東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第七編之二十九

本冊には、応永二十四年雑載のうち諸家、疾病・死没、学芸、荘園・所領、年貢・諸役、契約、譲与・処分、寄進、売買、貸借、訴訟、雑の各項、および応永二十四年補遺、応永二十五年正月一日より十四日までの史料を収録した。
 第七編之二十六に始まった応永二十四年の編纂は、足かけ四冊をもって完了した。
雑載の部分で特記されるのは、学芸の項に収めた「梵燈庵主返答書」である。梵燈は俗名朝山師綱。足利義満の近習であり、和歌を冷泉為秀から学んだ。本書は当時六九才の梵燈が、浜名持政の質問に応じて、連歌の発生と展開、歌の風体などについて記したもので、連歌史上で重要な著作である。この部分の編纂に当たっては東京大学大学院人文社会系研究科日本文学科助手姫野敦子氏のご教示を得た。謝意を表したい。
 前冊につづき、本冊でも「康富記紙背文書」を、雑載の諸家、学芸、貸借の各項に分類して収録した。中原康富の周辺の人物には、同時代の他の史料には登場しない者が多く、康富に宛てられた紙背文書の差出人についても不明なことが多いが、官人社会の日常生活の一端を示す書状も少なくない。学芸の項(三四頁)に収めた八月十五日付光賢書状には、光賢なる人物が子供にせがまれて「童子教」を探し求めていることが記されている。また諸家の項(一一頁)に収めた九月十八日付円済書状は、円済なる人物が旅先から康富に寄せたものと思われるが、竹、ゼンマイ、蒟蒻など当地の名産を書き記している。なお、この書状の中に「御所様御下向」という文言がある。慎重を期して傍注は付さなかったが、応永二十四年九月十七日より二十三日まで足利義持が伊勢参詣の旅に出ているから、あるいは「御所様御下向」とは義持が伊勢から帰京してくることを指しているのかもしれない。
 春日若宮神主中臣祐富の日記である「応永二十四年之記」も、前冊につづいて収録し、雑載の荘園・所領、年貢・諸役、貸借の項に収めた。これによって同記はすべて翻刻されたことになる。荘園・所領の項では、東寺領山城国下久世庄下司職をめぐる大江氏一族内部の相論に関する史料が、量にも恵まれて目を惹く。これは、下司であった大江光綱の跡職をめぐって光綱の幼子石熊丸と、光綱の前任者国綱の子左衛門太郎が争ったものであるが、東寺は下久世庄名主らの意見にしたがって、石熊丸を補任している。
 応永二十五年に入った部分では、正月四日条に関東管領上杉憲基の卒伝を収めた。また正月八日条では「後七日法及ビ太元帥法」の綱文を立て、「満済准后日記」や「東寺百合文書」などの関係記事とともに、「醍醐寺文書」二百一函に残る関係史料を三九頁にわたって収録した。修法にかかわった僧名や修法の次第のほか、必要な具足や法具、真言院警護の兵士、経費の捻出方法や支出などに関する詳細な記事がある。後七日法・太元帥法の執行の実態を知るうえでの一級の史料であろう。ことに、必要な経費が一色・土岐・京極・赤松・上杉の諸氏からの出銭によって賄われていたことは注目される。もっともこのうち上杉氏からは未納であったとされる。これは上記のように正月四日、すなわち後七日法の始まる四日前に上杉憲基が没していることと関係があるのであろうか。
 なお、正月二日条の綱文「殿上淵酔」(三三九頁)が五字分下がっているが、これは念校までは正常な位置に配されていたものである。電算写植技術上のミスと思われるが、不体裁な形となったことをお詫びしたい。
(目次五頁、本文四三三頁)
担当者 榎原雅治・伴瀬明美


『東京大学史料編纂所報』第36号p.25