大日本古記録 實躬卿記 四

この冊が収めるのは、正安三年(一三〇一)から乾元元年(一三〇二)年までの日記と、その自筆本に依った部分の紙背文書である。これは、実躬三八歳から三九歳にいたる期間に相当する。
正安三年〜乾元元年一月記は、前冊に引き続き、主に「逍遥院内府抜書」(三条本)を底本とした。これに、さらに別系統の抜書や部類記などを補うなどして、かつて存在したと思われる日次記原態の復元的研究を進めた。それらの抜書等のうち、宮内庁書陵部所蔵「実躬卿記御幸部類」(柳原本)は、柳原紀光の奥書を有する。これによると、同本は応永一四年(一四〇七)の古写本(あるいはこれが抜書原本か)からの直接の転写本と思われ、もっとも原態の情報をよく伝えるものの一つと考えられる。この他に、やはり書陵部所蔵の『管見記』所収「院号定部類記」(西園寺公衡自筆)も、逸文を含む多くの『実躬卿記』の記事を含み、本冊にも利用した。
また、正安三年一一・一二月記は、「後二条天皇大嘗会記」を別に収めた。国立歴史民俗博物館所蔵「三長記紙背大嘗会記」(田中本)を底本とする。これは群書類従本を始め、現在知られる流布本諸本の祖本である。本記には、公衡との作法についてのやり取りが記録されているが、原本には実躬の箇条書の質問状に、公衡が合点・勘返を加えて返却したものが貼継がれていたことが推測できる。
乾元元年二月記以降は、一部を除き連続して日次記が現存する。しかもこれらの大半については、本冊から新たに主要な底本として採用した、武田科学振興財団杏雨書屋所蔵自筆本に依っている。同本については『国書総目録』にも見え、すでに『国史辞典』「実躬卿記」の項(冨山房、一九四三年、荻野三七彦氏執筆)によってそのおおよその構成も知られているが、すでに拙稿でも、あらためてその構成について報告している(「『実躬卿記』自筆本の伝来・構成に関する一考察」『東京大学史料編纂所研究紀要』第一〇号、二〇〇〇年)。今後さらに、総合的な調査・紹介を進めてゆく必要があろう。
ただし、同年二月記については、三条西公福書写の三条西本(国文学研究資料館史料館所蔵)を用いた(公福が加賀藩主前田綱紀とともに、近世における『実躬卿記』の「発見」および流布に重要な役割を担ったことについては前掲拙稿参照)。また、近年早稲田大学図書館所蔵となった荻野三七彦旧蔵資料中にも、『実躬卿記』自筆本が多く含まれる。本冊では一ニ月記の一部に底本として用いた。
なお、前田育徳会尊経閣文庫所蔵自筆本および自筆本断簡も底本として用いた。これら複数の所蔵機関に分蔵された自筆本を調査の上、錯簡の訂正を始めとする研究を進め、紙背文書の排列も含めて、ここでも可能な限り原態の復元的翻刻を目指した。たとえば、乾元元年七月〜九月記については、〓紙と第一紙が別々の所蔵機関に分蔵されているが、本冊では継目花押を合成の上、接続して翻刻している。錯簡や分巻についても訂正・接合している。一方、同年一ニ月記については、六日条と七日条がもと直ちに接続していた可能性が高いものの、原本観察等によっても確証が得られなかったため、別巻として翻刻している。
内容についても述べておく。本冊の冒頭である正安三年記では、年明け早々幕府の意向により、にわかに後伏見天皇が退位し、後二条天皇が即位したことにつき、一連のできごとを記す。弘安一〇年(一二八七)に後宇多天皇の譲位によって持明院統に移った治天の立場が、十数年ぶりに大覚寺統に戻ったという意味で、鎌倉時代政治史上画期的な事件であった。これに伴う後二条天皇即位・大嘗会関係の記事も目立つ。
翌乾元元年にかけては、両統の二法皇(亀山・後深草)、三上皇(後宇多・伏見・後伏見)それぞれの御幸その他の記事が頻出する。五人の上皇が同時に存在することは先例がなく、実躬の法皇・上皇らに対する呼称も当初は混乱していて、人名比定にも慎重な検討が必要である。これらの法皇・上皇らが一同に会し、後伏見上皇が亀山法皇の弟子となって同法皇主導の蹴鞠御会が開かれたが、その一方では幕府の関与のもと、故室町院領の分割につき両統の駆け引きが続き、一応の決着にいたるなど、当該期の微妙な政治関係を反映した記事も興味深い。この年一〇月、西園寺実氏室で大宮院・東二条院生母、両法皇には祖母にあたる准后四条貞子が一〇七歳の長命をもって没するが、亀山法皇を中心とする仏事の記事が詳しい。この部分には、三条実任および高階雅仲の注送記原本が貼継がれている。
このころ実躬は正三位参議右近衛権中将で、朝廷において引き続き奉公に励んでいた。また、嫡男である三条公秀や父公貫の記事も多い。公秀は実躬とともに大覚寺統に重んじられ、紙背文書にも公秀宛のものが散見する。なお、紙背文書については、実躬が蔵人頭となった永仁三年(一ニ九五)ごろの、訴訟文書その他も多く残されるようになってくる。一方、父公貫はすでに前大納言であり、これ以上の昇進をあきらめて出家する。戒師は一族の二尊院叡澄で、浄土宗西山派の法式に沿った出家仏事の記録も見える。
(例言二頁、目次二頁、本文二五六頁、口絵図版三頁、岩波書店発行)
担当者 菊地大樹

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.34*-36