大日本古記録 齋藤月岑日記 三

本冊には、第二冊に引き続いて、天保十二年(一八四一年)・十四年・弘化元年・二年の四年分を収める(原本第八冊から第十一冊に相当。なお天保十三年は原本欠)。
まず町方支配関係事項。大御所家斉の死去(天保十二年正月三十日)が、閏正月七日条に記載され、閏正月三十日の発喪から二月二十日の寛永寺葬送まで、支配・組合内町々の見廻りと火元取締りなどに関する記事が多い。
天保十二年五月より天保改革が開始されるが、町方支配と関係する記事は、祭礼の仕法替(五月末〜六月)、鰥寡孤独者の取調べ(六月)、床見世の調査(八月)などが散見される程度である。
同年十一月三日条に「南へ御呼出、市中取締掛被仰付候、帰路松の尾寄合」とあり、この時月岑も含めた町名主三十一名が市中取締掛に任命される。次いで同九日条には「かやば丁寄合、北御廻り方出席、市中取締一条始て御談」とあり、奢侈品取締り政策の一環として、呉服屋・鼇甲屋・小間物屋・菓子屋などの名前取調べが命じられており(『江戸町触集成』一三四〇五)、これ以降町方支配上での改革政策が本格的に実施されていく。同二十七日条には「館御役所へ同役御呼出、勤方之義御三軒立合にて申渡」とあり、町年寄役所に町名主全員が召集され、名主の勤め方(町触の布達・人別改め・忠孝奇特者の調査など)についての申渡しがなされた(『江戸町触集成』一三四一六)。また月岑は、同二十九日から十二月三日にかけて菓子値段の取調べに従事しており、年末には市中取締掛・菓子掛として褒美を下付され、組合世話掛も従来どおり勤続となった。なお、同十二月十八日には「今日、二丁まち芝居引払、北にて被仰渡」と改革政策の一環である堺町・葺屋町の芝居小屋引き払いの記事がある。
天保十三年は原本欠のため、改革の具体的様相を知ることは出来ないが、同年二月に月岑は諸色取調掛に任命され、市中取締掛との兼帯となる(『江戸町触集成』一三四七一)。なお、月岑が所属する名主十一番組では、小藤権左衛門(多町一丁目名主)も市中取締掛で諸色取調掛を兼帯した。天保十四年以降の日記では、断片的ではあるが、諸色調に関する寄合・申渡し・調書提出などの記事が多く散見され、組合内では小藤と共同で職務にあたっている。また、これらの職務と関わって、天保十五年正月〜九月初旬にかけて、月岑は、ほぼ四日に一度の頻度で町奉行所へ「御用伺」に出頭している。
天保十四年四月の将軍日光社参に先立つ正月〜三月にかけては、日用賃の調査に従事し、将軍社参中は、ほぼ毎日組合と支配町々の見廻りをしている。
また同年三月の諸国人別改令による市中人別改め方の変更にともない、月岑は、新たに人別調掛に任命される(四月二十九日)。そして、この後毎年人別調べがなされる四月・九月前後の時期には、支配町々や組合の人別帳作成に関する記事が頻出するようになる。なお、同年九月十三日には、「御老中水の越前守様御役御免之処、今日朝より御門前大人数武家・町人立交り、石を投、番やをこわし乱妨いたし候由」と水野忠邦の老中罷免にともなう投石・乱暴の記事がある。
弘化元年三月には米掛に任命されており、これ以降、大道舂米屋に関する記事をはじめ米入津高や米才取の調査などの記事が多く、弘化二年暮には褒美金を下付されている。また弘化元年五月十日の江戸城本丸炎上に際しては、月岑が世話番を勤める一番組を中心とした町火消たちが、本丸を囲繞する櫓群のひとつである御台所前三重櫓の消防にあたり延焼を防いだ。月岑はその時の様子を挿絵として描いており、本巻の口絵として掲載した。
次に名主組合に関する事項。多丁二丁目名主の河津五郎太夫が、天保十二年八月に出奔し、同十一月に町年寄へ上申がなされている。天保十三年の『町鑑』では、多町二丁目名主は沢田膳三郎となっており、天保十四年八月十七日条には病床にあった同人が、名主相続の件について月岑へ相談している詳細な記事があり、十一月の同人死去後は、その相続関連の記事が散見される。
同年三月には、月岑の養子久次郎が、元服して亀之丞と改名の上、名主見習となり、これ以後、支配町人の訴訟に関する付添や町奉行所への諸届提出などにおいて、月岑の名主業務を補佐している記事が見られる。また弘化二年二月には、永富町三丁目が組合と衣笠房次郎(小白川白山前町名主)との支配となった。
月岑が取締役を勤める青物役所関連事項。天保十二年十二月の株仲間停止にともなう問屋組合解散は、天保十三年七月の菌・蓮根・慈姑・長芋・薩摩芋・辛子・乾物・水菓子の各納人惣代への町奉行申渡(『江戸町触集成』一三六七八)が示すように、青物・土物・水菓子の市中への流通に大きな影響を及ぼしたと思われる。
天保十四年以降の日記では、上記の品目の納入に関する記事が散見されるが、例えば薩摩芋の場合、「両国万八へ行、さつまいもや参会、新加入廿五人も一同出る」(天保十四年六月)の如く、納人への新規加入問題をはじめ、個別の薩摩芋屋に関する訴訟、薩摩芋の納め方・取締り方に関する町奉行所への上申、薩摩芋納人や薩摩芋屋惣代との交渉など、断片的で実情は未詳ながら、全体を通じて薩摩芋屋に関する記事は多い。水菓子についても、天保十四年閏九月二十七日の「水くわしや納人加入九十一人願書」の町奉行所への提出記事をはじめ、納人への新規加入関係の記事が、また弘化元年八月〜十月には里芋の納め方に関する神田市場以外の市中諸市場との対談記事なども散見される。この外にも、長芋・山葵・隠元・茄子・蓮根・玉子などに関する納め方・不注進・売買伺といった記事、漬松茸・椎茸・栗の取入れのため、月岑自身が市中の諸市場や問屋に出かけている記事も見られる。
また月岑の相役である吉村源太郎は、天保十四年二月に名主五十年精勤の褒美を受けているが、同年六月には吉村の後任として村田平右衛門が、青物役所取締役に就任している。
弘化元年九月に、月岑は、本丸普請の職人へ下賜する二三一〇二人分の梨・柿の選定・納入を行い、同二年一月にも同様に柿の納入を担当した。
最後に著作以下の文化的活動では、声曲類纂の刊行準備が挙げられる。既に前冊の天保十一年十二月に写字の北山兼芳(鉄砲組同心)と初めて会合した記事が見えるが、本冊では天保十二年正月から八月にかけて、ほぼ毎月一〜二回同人と往来しており、挿画を担当した長谷川雪堤との往来も頻繁である。
またこの時期、「むぎこがし(牟芸古雅志)の本買」(閏正月二十五日)、「長谷川氏・高島千春殿へ行、芝居絵図頼む」(三月二十六日)など、必要な参考文献の購入や筆写の記事もあり、原稿の手入れや挿画の選択など刊行に向けての最終的な準備段階に入ったものと推測される。そして、弘化二年七月七日には、「すはらやより板出来之声曲類纂四・五之内来る」と声曲類纂全五巻のうち巻四・巻五の板木が出来上がっている。
また江戸名所図会・東都歳事記の挿画を担当した長谷川雪旦の死去(天保十四年正月二十八日)を月岑が知ったのは、同八月四日に雪堤を訪問した折であり、十月十日には、「毎年の雪丹忌也」として雪堤方を訪問している。
諸所での開帳や芝居見物へは、これまで同様こまめに赴いているが、弘化二年には、戸山の尾張藩下屋敷の見物(四月二十日)、川口善光寺開帳参詣(五月二日)、修復中の浅草寺五重塔へ上った記事(五月十八日、挿絵あり)などがある。また、弘化元年の九月〜十月にかけては、染井の菊造りものの見物に出かけている記事も散見される。
なお、月岑自身の身辺事としては、天保十二年十月八日の丑之介誕生(十一月二日死去)、弘化元年二月一日に、父斎藤幸孝の二十七回忌及び幸孝実母の五十年忌を執り行っている。
(例言一頁、目次一頁、本文二八三頁、口絵一葉、岩波書店発行)
担当者 佐藤孝之・鶴田啓・松本良太

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.28*-29