大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 六

本冊には、宝暦五年(一七五五)七月より六月までの「公武御用日記」(十二上・十二中)と、六年二月・三月の「関東下向之日記」を収めた。
 六年春、両武家伝奏は例年の如く年頭勅使として関東に下向した。二月十九日に出京、三月朔日江戸着、十日に発足、二十七日に帰洛している。
 まず人事面では、京都所司代の交替があった。酒井讃岐守忠用は女御入内、内侍所修復、女御御殿修復などに大いに力を尽したが、五年の冬に至りなにか間違いを起こすことがあったようで、自ら幕閣へ差控窺を出している。差控に及ばすという返報を得たが(十一月二十二日条)、やはり問題が無い訳ではなかったか、翌六年三月、年頭勅使の京都帰着直後、六七日の支度にて江戸へ召還され、二十七日京都を発足、四月九日江戸に着府、翌十日に登城、罷免を申渡されている。跡役には五月七日付で松平右京大夫輝高が大坂城代から転任した。また禁裏附にも交替があり、山木筑前守正信が三月二十二日付で小普請奉行に転出し、跡役として田付又四郎景林(ノチ筑後守)が御小性組頭から転任した。田付は七月一日、松平は同七日に上京する。
 朝廷においても、関白一条道香が内覧・執柄となりすでに十七、八年に及ぶによるとして辞職を願ったが、六年正月十一日関白辞退は許さず、今一両年も在職あるべしとの勅詫により、引続き関白職を勤める。女官の人事としては、十月二日に櫛笥隆望の女が女院御所の小上臈に召出され、九日より出勤する。同二十六日大御乳人下臈の小大進が長病につき、傭として春日社正預富田延庸の女が召出され、十二月二十六日正式に下臈となり、今参と称し、翌年二月十二日下臈兵部は河内と改名し、今参は上野と改名する。
 桃園天皇はこの年十五歳。事情が許す限り隔日に手習に励んでいる。その指導には兼胤が当っている(七月十二日条)。七月二十八日からは伏原宣条による古文孝経の進講を受け九月まで五回に及び、十月からは大学の進講を受け翌年二月に及んでいる。そして五月二十五日には自ら孟子を講釈し、六月二十五日、同二十七日にもこれを続行している。近臣を相手にしたものであろうが、兼胤もこれを聴聞している。天皇の好学の一端が窺われる。
 しかしこのことは、一つの事件を惹起させることともなる。すでにこの宝暦六年四月には、江戸後期の朝廷の一大事件として知られる宝暦事件の徴候が現われてくる。近頃近習衆が武術を頻りに稽古する風聞が立ち、小番の節も禁庭の閑所にて立合等をする始末であったという。関白はこれを重く見、幕府への聞えもあり増長せざる内に停止すべきであるとし、伝奏・議奏にこの意を示し、近習第一の徳大寺公城を召出させ、武術稽古の停止のことを近習一統へ申伝えるよう申渡させている。
 大きな出来ごととしては、佐保君と称されていた一条兼香女・道香妹の富子(十三歳)が五年十一月二十六日に入内したことである。そのため所司代・町奉行等により女院御殿・里御殿の検分がなされ(八月七日条)、修理方に渡されて修復がなされ、十月末にそれがなり、両伝奏・修理職奉行等の立合のもと所司代・町奉行・禁裏附等の検分があり、禁裏付へ引渡され(十月二十八日条)、やがて女御取次へ引渡される。入内の時期は八月初めには十一月中下旬というところまでは決っていたが、十一月二十六日に決定したのは十月二十一日に至ってであった。十月十三日、御領は二千石と決り、同十五日には御世話は姉小路公文に頼むことになったが、姉小路の要望もあり十七日勅により御世話のことが申渡された。その他種々の準備がなされ、富子は十月二十九日に従三位に叙され、十一月二十六日入内、翌日女御に宣下される。幕府よりの入内祝儀の関東使松平出羽守宗衍・前田信濃守長泰は十一月二十八日に上京し、十二月四日参内し、将軍・世子家治・簾中倫子よりの祝儀の口上を述べ、禁裏・女御・女院へそれぞれ将軍等よりの進物を献じた。因みに将軍より禁裏へは真御太刀一振・銀三百枚・綿五百把であった。また、同日には紀伊家等の御三家・両徳川家の使者が参内して、祝儀の進物の献進があり、翌五日には諸大名の使者が奏者所に参り、太刀・馬の進献があった。幕府の指示により今度の祝儀に使者を差登すこととされたのは、三家・両徳川の外は、加賀・溜詰・老中・侍従以上・国主(童形も含む)の分であった。なお、関東より進献の品等の一部は諸臣に配られ、両伝奏は白銀五枚・綿三把ずつを賜っている(十二月十九日条)。
 また、女御両御殿の修復と前後して内侍所の修復も行われ、九月十日に出来し、翌日所司代等により検分があり、神祇伯に引渡され、十七日本殿遷座がなされ、二十日より三日間に亘り臨時御神楽が奏されている。内侍所仮殿は拝領願が三ヶ所から出され、三分割案も出たが、例により上御霊社へ下賜することゝ成る(八月二十二日条)。また、修復に尽力した所司代・禁裏附には褒美の拝領物として伊勢物語、近江八景色紙等が下賜されている(八月八日・九月二十八日条)。
 その他、注目すべき頻出記事として掲ぐべきは、(イ)前年より引続いての興福寺大乗院より追願の大立ノ儀一件、(ロ)四年十二月に決着した難波飛鳥井鞠道和融が、飛鳥井の不履行により難波が八月七日これを訴え、抗争が再燃しそうになった一件、(ハ)八月十一日石清水社務が紫衣の再興を願い、青蓮院宮より所存の申立てがあり、決着つけがたく願書を伝奏預りとした一件、(ニ)九月二十一日伊勢例幣参向の二の鳥居前塩祓の節、山田奉行の名代が狼籍を働き、祭主の訴えにより武辺にて吟味あり、翌年六月結審し都合五人が軽追放等に処された一件、(ホ)九月二十七日左大臣近衛内前が春日・多武峯参詣を望み、朝廷でも幕府でもその処置のために前例の検出に窮する一件、(ヘ)十一月九日八十宮家来谷口右近等が箱訴をし、有栖川宮家来藤木淡路守と妙法院坊官菅原式部卿が町奉行所に召出され、揚屋入りとなり吟味され、翌年五月落着した八十宮一件などがある。
(例言一頁、目次二頁、本文三二〇頁)
担当者 橋本政宣

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.30-31