日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之九

本冊は、原文編之九に収載した、一六四四年十一月二十四日(寛永二十一年十月二十五日)より一六四五年十一月二十九日(正保二年十月十一日)までのピーテル・アントニス・オーフルトワーテルの日記、同年同月末日より一六四六年十月二十七日(正保三年九月十九日)までのレイニール・ファン・ツムの日記、及び附録の、一 一六四五年六月三日付オーフルトワーテル充オランダ東インド評議会参事等書翰、二 一六四五年六月十九日付オーフルトワーテル充オランダ東インド評議会参事等書翰、三 一六四五年十月二十三日付長崎商館決議、四 一六四五年十一月二十九日付ファン・ツム充オーフルトワーテル訓令書、五 一六四五年十一月二十九日付ファン・ツム充オーフルトワーテル職務権限委譲書、六 一六四五年十一月二十九日付長崎商館資産引継目録、七 一六四六年六月十八日付ファン・ツム充オランダ東インド評議会参事等書翰、八 一六四六年十月一日付長崎商館決議、を全文翻訳したものである。収載史料の書誌的解説については、『所報』三四号三二〜三三頁を参照されたい。
 一六四四年十一月二十四日、前任の商館長ヤン・ファン・エルセラックを見送り、二度目の商館長の任に就いたオーフルトワーテルは、直ちに参府の準備を行ない、十二月一日に長崎を発った。一六四五年一月四日に江戸へ到着すると、前任者同様大目付井上政重の屋敷に呼ばれ、東インドに於けるヨーロッパ諸国の勢力、前年南部に入港し捕縛され江戸で商館長に引き渡されたブレスケンス号乗員のその後、またタルタリアヘの再度の航海の計画の有無などについて問われた。オーフルトワーテルはタルタリア航海の補給基地ともなる南部に寄港地を置きたいと提案しようとしたが、通詞には反対され、井上もそれを黙殺した。井上は商館長の江戸滞在中さらに三度にわたって、直接あるいは用人を通じて東インド情勢、特にマカオまで来ていると噂される日本貿易再開を求めるイギリス船、イギリスとポルトガルとの関係等について詳細に聞き質し、オランダがこの船を阻止することを暗に求めたが、商館長はオランダの政体やヨーロッパの政治情勢の解説を織り交ぜつつその要求の非現実性を説明するのに腐心した。将軍家光への拝礼は一六四五年一月二十五日に行なわれ、その際閣老たちは、ブレスケンス号乗員の釈放が如何に特別な恩恵であるか念を押した。江戸での用務を終えた商館長は、二月七日に江戸を離れ、三月九日に長崎へ帰着した。
 長崎では、前年秋よりの中国人キリスト教徒の吟味に加え、平戸でオランダ語の書かれた受胎告知の図の刷物が発見され、平戸及び長崎での大量のキリシタン摘発が続き、市中は混乱した。おそらく実際にはオランダ人の手によって持ち込まれたこの刷物をめぐる尋問を、商館長は言語を同じくしスペイン人に従属するフラマン人の仕業との言い逃れで切り抜けた。
 中国の情勢は急を告げ、七月には長崎にも南京陥落の報が届いた。一官船に加え、明朝の崩壊、清軍の南下に伴い多くの南京船が来航し、絹製品の値崩れが始まった。商館長は中国船に託してタイオワンヘそれを知らせようとしたが、奉行は許可を与えなかった。
 八月二十二日に到着したメールマン号は、総督アントニオ・ファン・ディーメンの死と日本貿易再開を期するポルトガルよりの使節がバンタムまで来ていること、蘭葡休戦協定が再度有効となったことなどを報じた(附録一、二)。商館長は直ちに奉行に知らせるよう通詞に命じたが、通詞は蘭葡休戦の件を勝手な判断で報告しなかったことが、翌年になって判明する。続いてズワルテン・ベール号、リロ号、ヒルレハールスベルフ号、フルデ・ハンス号、レーウェリック号が到着し、商館長が奉行にパンカド決定を要請していた折しも、九月十八日、長崎は未曾有の台風に襲われ、オランダ人の住居と倉庫も大きな被害を受けた。またレーウェリック号は転覆し、海中に転落した大砲の引揚げは、翌年までかかる課題となった。市中の被害も大きく、パンカドの決定はいよいよ遅れ、時間の不足は中国船による大量の白糸持ち込みと相俟って、オランダ側の譲歩を余儀なくさせた。さらに、アハテ・ケルケ号、ヘンリエッテ・ルイーズ号が九月二十九日に、ザルム号は十月十一日になって到着した。商品の販売と清算を急ぐ中、ベンガル生糸、ペルシア生糸の価格は下落し、多事多難の内にオーフルトワーテルは後事を新商館長レイニール・ファン・ツムに託して(附録五、六)十一月三十日、タイオワンヘ向けて出発した。附録四のファン・ツム充の訓令書には彼の苦慮ぶりが伺える。
 後任のファン・ツムは十二月三十一日に長崎を発ち二月七日に江戸へ到着した。この年大目付井上政重はじめ閣老等との対話の話題の中心は、商館長の予想に反して、ブレスケンス号乗員の釈放をオランダ側がどのように評価しているのか、であり、通詞の意見では日本側は然るべき謝意の表明すなわち特使の派遣を期待しているとのことであった。蘭葡休戦について何の言及もなされないことから、商館長は通詞の情報操作に気付いた。この件については新商館長も到着した九月になってようやく、通詞との議論の末に奉行に伝えられることになった。二月十三日に拝礼を終えた商館長は、なかなか暇を得られず、銅輸出の許可をはじめとする嘆願には答えを得られぬまま、三月十日になって江戸を発った。
 四月十三日に長崎へ帰着した商館長は、総督の命により前年から折に触れて嘆願していた銅輸出の許可が得られたことを知った。この秋、通詞を通して再三の価格と品質に関する交渉を行ない、棹銅と板銅の輸出が実現した。
 前年とは対照的に南京船の来航は少なく、前年到着の船も南京へ戻ることを逡巡していた。六月に入ってようやく大量の荷を積んで来航した南京船の乗員は弁髪を強要されていた。幕府は彼等を中国人ではなくタルタリア(清)人と見做し、タルタリアとは通交・貿易の前例がなくキリスト教徒かどうかも不明であるとして一時は退去命令を出したが、九月になって商品の販売を許可した。十月には福州船にも弁髪の乗員が見られるようになった。
この年のオランダ船は、七月二十八日にフルデ・ハンス号が、八月十三日にはコーニンク・ファン・ポーレン号とベルクハウト号が、八月二十八日にはザルム号、九月三日にはヒルレハールスベルフ号、ズワルテン・ベール号、ゼーロプ号が到着した。九月十二日にパンカドの交渉が始まったが、この年舶載した白糸が僅かであったため、オランダ人は大幅な値下げに応じ、その日の内に価格決定となった。メールマン号はその翌日に到着した。商品の販売価格は全般的に安く、加えて砂糖の計量をめぐるトラブルが発生し、販売は遅延した。さらに、オランダ人船員同士の喧嘩から一名が死亡し、一名は重傷となった。知らせを受けた奉行は日本の法に基づき喧嘩両成敗とすべきことを伝えたが、商館長は交渉の末今回限りの条件でオランダ側による調査と処罰を認めさせた。ようやく販売を終了し帳簿を締め切った後の十月十九日になって、オーフルスヒー号が現われ、商館長は伝えられた命令に従うため船の出帆順序にも変更を余儀なくされ困惑したが、十月二十七日、後任のフルステーヘンに業務を引き継いだ。
 日本商館の業務には不慣れであった上、自らの意志を超えたところで起こる様々なできごとに翻弄され続けたこの二商館長の日記は、前任者のものに比べて簡略で、また表現に意味不明瞭なところも散見する。状況の把握に資するため、附録として関係文書の収録に努めたが、一六四六年については日本商館の受発信文書控が残存しておらず、バタフィア発信書翰控簿所収の書翰を採録した。また、従来取り上げていなかった長崎商館の決議を二点採録した。独特な形式とたどたどしさの混在する文書であるが、商館の意思決定の過程を見ることができる。
 本冊の翻訳には、レイニアー・H・ヘスリンク氏、イサベル・田中・ファン・ダーレン氏から助言を受けた。編集・校正については非常勤職員大橋明子氏の協力を得た。
(例言八頁、目次四頁、図版三葉、本文二九二頁、索引二〇頁)
担当者 松井洋子・松方冬子

『東京大学史料編纂所報』第36号 p.37*-39