東京大学史料編纂所

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鳥取県立博物館所蔵鳥取藩政資料の調査

 二〇〇〇年一月三一日から二月二日にかけて、鳥取県立博物館(鳥取市)に出張し、鳥取藩池田家資料を閲覧・調査した。主な内容のみ摘記する。
13128 癸丑墨夷入津図
 ペリー来航に関する絵図面類を折本状に仕立てたもの(456ミリ×334ミリ程度)、基本的には見開きで一紙だが、大きいものは数丁にわたり、また上下がはみ出したため、端をたたんで折り込んだものもある。保存状態は良く、彩色図が豊富。13129〜13131は同形態。

・浦賀警衛およびペリー艦隊航跡図
「嘉永丑年渡来之節之御図面熊本殿〓被差越而写し置也」とあり。
・同略図
・クシュンコタン図(ロシア砦の図)
・軍艦図
・士官図
・帆船図(ボストン号)
・蒸気外輪船図(サスケハナ号か)
・蒸気船略図 数枚
・バッテリー(ボート)図
・接遇図(略図)

13129 甲寅長崎江魯夷入津図
 プチャーチン来航図。「赤松治兵衛〓差越候船之図」と「嘉永六年俄羅斯使節之図・同長崎江上陸之図」など。
13130 丙午浦港入津記図
 弘化三年のビツドル浦賀来航図。
13131 甲寅亜夷入津図
 ペリー再来航時の絵図面類。航跡・台場・蒸気船・ボート・軍装・応接風景・人物・大砲・道具類など二八点。
13091〜13094 風聞記                      四冊
 横小帳。13091の表紙には文久二年四月から元治元年六月、慶応元年四月から一〇月とあるが、文久年間は一〇数丁のみで、途中に「風説都之錦 上」の表紙があらわれる。内容は元治元年の京都に関する風説が中心。「風説都之錦 下」も同じ冊に綴られている。この四冊がいわゆる「鳥取藩記録」として「大日本維新史料稿本」等に採られているものと思われる。
「丑九月横浜来状書抜
 英仏亜蘭蒸気軍艦八艘昨十日当港出帆ニ付、右趣意柄取調候処、彼申立ニは、防長御征伐之義段々御年延ニ相成、夫ニ付兵庫開港之事件難被取行、且日本之□弊傍視難忍之折柄ニも候得は、公辺御処置曲直御糾方も可有之と存居候処、此程ニ至り追々切迫、最早近々防長御手切ニも可相成趣ニ付、右期限ニ至り候上は国々〓も軍艦差向速ニ征伐を遂ケ可申旨申立候由ニ付、参政酒井飛州侯被相越、猶又閣老泉州侯被相越、種々説諭も有之候得共、彼不聞入、終ニ出帆、摂海江相廻り、於大坂応接之上長防海江可相廻、尤大坂おゐて勅許無之旨之応接ニ候ハヽ帝都江相進、直勅を請候積り之由、尤長州海辺とも四ヶ国軍艦凡三十艘程兼而相廻し有之趣申立候由……」
「卯五月下旬所々伝聞書
一 仏国と朝鮮の事件扱ひニ相成、朝鮮〓仏国江償金を出すニ至るへし、朝鮮金乏敷、償金ニ出すへき金を魯西亜ニ借らんといふ、朝鮮は日本の属国なれは、日本にて周旋し金子を日本〓朝鮮江貸し、仏国江償はしむへしと、且日本〓朝鮮江貸す処の金ハ実ハ仏国〓出して日本ニ貸し、日本〓朝鮮江貸遣すなりと、日本政府仏国〓借る所之金ハ百万元なりといへり」
3646 江戸留守居日記 文久三年                    一冊
 鳥取藩政史料は、国元・江戸・京都での各種日記類がよく残されており、『池田慶徳公伝』の材料に使われている。文久三年六月十四日、摂海警衛にあたっていた鳥取藩兵は沖合の外国船に発砲したが、幕府への報告は七月になっている。
「(七月二三日)
一 去月十四日英艦江及発砲候一条追々御届仕候旨、内談之義差出ス
(八月十六日)
一 六月十四日英艦打払候旨并伝奏〓御達之趣御届
(同日)
 六月十四日九ツ時頃、明石鼻〓天保山三十町程沖合江蒸気船壱艘乗込、碇泊之体ニ相見、帆印等も不相分ニ付、実否取糾候所、英吉利国人と相聞江直様致手配打払仕候処、紀州江向ケ逃去申候、此段御届申上候様申付越候、以上
   八月十六日               御名内                                 清水兵太郎 」
7146 御軍式控 安政四年〜文久元年                  一冊
 日記類から軍制改革関係の記事を抜書したもので、記載は詳細で中身がある。
                                 (保谷 徹)


『東京大学史料編纂所報』第35号p.100