大日本古文書 家わけ第二十二 益田家文書之一

大日本古文書は従来から武家文書と寺社文書を共に編纂する体制をとっているが、『蜷川家文書』の完結をうけ、今回、史料編纂所所蔵「益田家文書」を家わけ第二十二として刊行する。
益田氏は、系図によれば本姓藤原氏、永久年間(一一一三年〜一一一八年)国兼の代に石見に下向し、最初御神本氏を名乗ったが、その曾孫兼高の時、本拠地石見国美濃郡益田荘から益田氏と号するようになったという。美濃郡一帯および石見国衙のあった那賀郡にも所領を有し、一族には三隅・福屋・周布・永安などの各氏を含む、石見国有数の武士団であった。南北朝期以降は、大内氏、さらにその滅亡後は毛利氏に従い、江戸時代には萩藩毛利家の国家老として長門国阿武郡須佐に本拠を移し、幕末に至った。
益田家文書は総数一万点あまりにのぼり、その全容は『益田家歴史資科目録』(山口県教育委員会、一九七九年)から知ることができる。鎌倉時代から明治・大正に至る文書のうち、中世文書のすべてと近世・近代文書あわせて五千七百点あまりは、一九五八年に本所が益田家より寄託を受け、その後一九八八年に本所の所蔵となった。また、残る近世・近代文書は、山口県阿武郡須佐町の益田家邸内に保存されている。これだけの規模を持つ武家文書は、比較的中世文書の残存数が少ない山陰地方の史料として貴重であるばかりでなく、これまでに大日本古文書に収載されている毛利・吉川・小早川家などの各文書と密接な関係を有し、それらを補完する文書という点でも重要である。
さて、益田家文書のなかでも、中世文書のすべてと近世文所の一部一二〇〇点あまりは、現在一一七軸番外八軸と称され、他の一点文書とは異なるまとまりを有しているといえる。大日本古文書の収録対象に予定しているこの部分の文書の性格について、以下、簡単に考察を加えておきたい。
上記の「一一七軸番外八軸」のうち、「一一七軸」と呼ばれている部分は、『益田家什書』において、第一から第百十七までの番号を付されている文書群にほぼ相当する。この『益田家什書』とは、近世に益田家内部で伝来文書を書写・編纂した書物であり、本所と京都大学に「長門国阿武郡須佐村益田精祥蔵本」を写したものがある。益田家文書は影写本等が作成されなかったため、原本の写真が公開されるまでは、大日本史料等の史料集はこの『益田家什書』を利用して編纂されてきたという経緯がある。ただし、『益田家什書目録』の原本にあたるものは、上記『益田家歴史資料目録』中には見あたらず、この点今後調査が必要である。なお、本所謄写本二四冊本(二〇七一、七三/八)は「明治廿九年四月採訪、三十一年十二月謄写』とある。本所には他に一二冊本の『益田家什書』写本(四一七一、七三/二)もあり、こちらは一番から七十二番までの巻子が写されている。
ところで、益田家文書では慣用的に「軸」という呼称が用いられているが、『益田家什書』収載部分の文書群は、多くは巻子装に装訂されているものの、なかには冊子や、複数の巻子が一箱に入れられ、その一箱に対して一つの番号が付与される形態のものもある。だから厳密にいえば一一七「軸」という表現は適当とはいえない。後述するように、『益田家什書目録』のなかで「軸」という表現が使われていることに影響されたものであろうが、そこでは「軸」「巻」という表現に独特な使い分けがなされており、「軸」という呼称は再検討の必要があろう。
さて、「一一七軸番外八軸」の内「番外」の方だが、これは『益田家什書』に写されていない部分である。ただし、他の多くの益田家文書のなかからこれら八点のみを「番外」とし、『益田家什書』第百十七番までの文書群に準じた扱いをする理由は一様とはいえない。まず番外五〜八については、巻子に「御什書雑記」として一から四までの番号が付されており、また番外一も包紙に「御什書」という文言があるので、これらが従来から「御什書」として扱われていたことを確認できる。また、番外三「永和二年益田本郷御年貢并田数目録帳」は、『益田家什書』において第八十と付されている「祥兼自筆往古知行之証文」に当たることが確かなので、巻子装題簽が剥落してしまったために番外の扱いをうけたものと考えられる。しかし番外四「御領大境絵図」と番外二の織田信長等三通の書状が、なぜ「御什書」番外とされたのかは不明である。後者は充所からいっても益田家に本来伝来した文書でないことは確実なので、おそらく近世末期以降益田家にはいり、後になってこのように「御什書」と同様な扱いを受けたものと推測される、次に、現存する益田家文書と『益田家什書』との間の対応関係が問題になるが、これについては、福田榮次郎氏が以下のように整理している。a『益田家什書』に第四十六として収載されている「近衛信尋公御自筆一通」は現在確認できない。b第九十として『益田家什書』に収載されている「益田家於石州被官中間書立横帳一冊」は現在確認できず、別の文書が入っている。c巻子題簽が剥落している番外三は『益田家什書』の第八十に相当する(既述)、d『益田家什書』には第百十八「貞享三年御幕旗伺物一箱」があるが、現在確認できない。(福田榮次郎「『益田家文書』と『益田家什書』について」『明治大学人文科学研究所年報』第三十三号、一九九二年)。
ところで、上記論文において、福田氏は近世における益田家文書整理の過程についても言及し、『益田家什書』冒頭の、『益田家什書目録』上下の記載より、現在の整理装訂が何回かにわけて行われたことを指摘している。確かに『益田家什書目録』上下の記載からは、次のような文書の整理過程を考える事ができる。以下、�〜�として『益田家什書』の各段階と、*印で上記目録の記載から推定した整理成巻・修復・目録作成の過程を示す。なお、そこで使用した「撰集」という言葉は、�段階の増補編纂を指して、『益田家什書目録』のなかで用いられている表現である。
『益田家什書』編纂の過程
�「十五軸」の段階、
*「先年ヨリ仕立有之分」−第一次撰集
�「五十軸他二巻」計五百十四通(番号「第五十二」まで)の段階
*「元道代」(宝永七〜寛保二年)の「公儀」差出、−第一次修復、第二次撰集、第一次目録(「公儀」差出目録、現存『益田家什書目録』上と同内容か)作成、
これは享保五(一七二〇)年から始まる『閥閲録』編纂のための藩への文書提出に関係すると考えられる。
�「七四軸外拾三巻』計千八十七通(番号「第八十七」まで)の段階、
*寛延四(一七五一)年、−第二次修復、第三次撰集、第二次目録「上下二冊」作成
�「七十九軸二十二巻」(番号「第百三」まで)の段階、
*「去ル戌ノ年』(寛政二年)「新添」部分か−第四次撰集
�「七十九軸三十一巻」計千百七十三通(番号「第百十二」まで)の段階、
*寛政五(一七九三)年、−第五次撰集、『益田家什書目録』上下(第三次目録)作成
�『益田家什書目録』作成以降、『益田家什書』に「第百十三」から「第百十八」までが加えて書写された段階。
*第六次撰集に相当する
��の時期が、『益田家什書目録』の記載より、それぞれ寛延四年、寛政五年であることは既に福田氏が指摘している。また、同じ記事から、��についても�は享保年間の『閥閲録』編纂時、�は寛政二年と推測することができよう。
また、益田家文書近世分にある「益田元道伝書之謄」(二九函一−一〜七)には、益田就恒の代、元禄五(一六九二)年に、就恒が緒方恒栄に命じて家蔵文書の調査を行った旨の「什書跋」が引用されているので、�はこの元禄段階の調査に相当する可能性もある。なお、この「益田元道伝書之騰」七冊本は、虫損がひどく現状では充分な調査ができないが、益田家の中世・近世文書がかなり写されているばかりでなく、「益田隼人家」「益田頼母家」あるいは益田氏に関係する他家文書も若干収載されており貴重である。以上の何次かにわたる『益田家什書』編纂において、中世文書すべてを入れるという方針があったことは、中世文書が全点「什書」に含まれていることから確認できる、しかし、複数の編纂段階があったために、中世文書の巻子は連番で存在するのではなく、ところどころにある程度の塊をもって収載される形になったのである。一方近世文書については、多くの近世文書のなかから、どのような基準を以て『益田家什書』が作成されたのか、確かな方針はいまだ明らかではなく、今後詳細な検討が必要である。
ところで、先に触れた『益田家什書目録』中の「軸」と「巻」の用語の区別であるが、現状の装訂の状態と『益田家什書目録』の記載を比較した結果、「軸」とは普通の巻子装のものを示し、「巻」とは軸木がつけられていない状態の巻物を表現していたと考えられる。ただし、目録作成後、軸を付されたものがあり(四十九、七十七〜八十七、九十八、百四〜百十二番)、これらは皆同じ体裁の巻子装となっている。この同じ体裁ということから推測すると、四十八番は『益田家什書目録』に「軸」とあるが、もとは「巻」であったと考えられ、そのように想定すると、�段階の「二巻」という合計数にも一致する。このように、益田家文書の巻子装は、表紙裂地、題簽の紙の種類などによっていくつかの種類に分けられ、そこから装訂の時期や、一巻にまとめられたある文書群の成巻段階での位置づけ、といったことを考える手がかりが得られる。
益田家文書の写本として、最後に『閥閲録』にも触れておこう。周知のように、『閥閲録』巻七は永代家老「益田越中」家であり、四分冊に二一四点の文書が収載されている。この配列は、『益田家什書』とは異なっており、前述の�段階の部分で指摘したように、当初藩に提出した文書が『益田家什書』第五十二番までの文書写であったとしても、『閥閲録差出原本』(山口県文書館所蔵)の段階に至っては、毛利家側、すなわち『閥閲録』編者永田政純の編纂意図に従って、現在の『閥閲録』の形に取捨選択されたと考えられる。
以上、益田家文書中の『益田家什書』収載部分を中心にその性格等について説明を加えてきたが、現在の巻子編成は上述した近世の益田家内部での文書編纂の結果であり、『大日本古文書』編纂においても、この形を崩さず、『益田家什書』中の番号に従って、現在の巻子等のまとまりを明示した形で刊行していく。
さて、次に本冊収録部分の文書について概略を紹介し、傍注などに関する若干の説明を加えたい。本冊では第一番より第三十二番まで巻子三二巻に含まれる三四二点の文書を収載した。このうち第一・二番の巻子は源頼朝と益田氏の関係を示す文書写(一号(四)〜(一一)・二号)を含み、不明な点の多い鎌倉時代の益田氏を考えるための数少ない史料である。しかし、既に種々の議論がなされているように、写であるこれらの文書は、その文言や様式からいっても検討の必要があり、注意すべき史料といえる。特に原本に即した情報ということでは、紙継目裏花押の存在が注目され、誰がどのような意味で据えたものなのか今後追求していくことが必要である。また、この裏花押の無い継目も一部あることや、虫損の状態が連続しないことから、第一の巻子では当初とは文書の配列が異なっている可能性が指摘できる。二号文書が第一番の巻子のどの部分に入るかも含め、この二つの巻子については種々の課題が存在するといえよう。また、全体に鎌倉時代から南北朝初期までの益田氏については、第三・四番の巻子や今後収録予定の第五十三番の巻子、さらに宇地村地頭職を相伝した益田氏庶子家の文書である原屋邦司氏所蔵文書(島根県美濃郡美都町都茂、本所では一九九八年に調査撮影すみ)なども含めた総合的考察が必要であろう。次に第五番から第十二番の巻子(二三号〜一一三号)には、石見守護大内氏・山名氏などの関係文書が収載されている。これらは石見守護を確定するうえで必須であるばかりでなく、史料の乏しい山名義理の系統に関係する史料としても貴重である。ただし、守護代に相当する人物については、その人名を確定できなかったものが多く(二六・三〇・三一・九〇・九一号など)、今後の検討が待たれる。この部分で傍注等について特に説明を要する文書は、七一・七四・七六・一〇〇号である。最初の七一号は、前後が応永七年の文書であるが、介入道(大内道通)、大内満世の両人が出てくることを考慮して検討した結果、この文書は応永九年のものである可能性が高く、満世の長門二郡拝領も、同年のことと推定した。次に七四号だが、袖判で書止めが「也」、充所がなく本文に折り込まれるといった様式が、他に類例をみない特異なものである点が問題となる。御判御教書と御内書の中間形態のような形で、文書名は足利義満御内書としたが、さらなる検討の必要な文書といえよう。次に七六号「豊後守」の実名を、官途、花押形から「杉重連」とした点である。重連は近藤清石『大内氏実録』以来「重運」とされているが、「重運」と実名が書かれている確かな文書を今のところ発見できないので、益田家文書第八十二番巻子所収六月九日付(杉)重連・(森)良智連署状の表記に従い、「重連」と傍注した。最後に一〇〇号文書だが、これは第十二番巻子の、最初に「兼堯十五通」という押紙が貼られた数点の文書群のなかに収められている。しかし「小早川家証文」二五二号(『大日本古文書小早川家文書之二』一三八頁)より、差出の足立守祐は明応・文亀頃の人物と判断され、そうなると一〇〇号本文中「孫次郎」は兼堯ではなくその孫の宗兼となって、文書の年次も延徳二年頃と推定できる。近世の文書編纂時の誤りと考えられるが、このような例は他にも一九六号などがあり、ここから、巻子編成や押紙等の注記は文書の性格を考えるうえでたいへん参考になる反面、全面的に信用することには注意を要することがわかる。
第十四番から第二十番までの巻子中の文書(一一五〜二一一号)は、益田氏が大内氏等に従って上洛し、畿内地城を転戦した寛正から文明年間の史料が中心である。特に応仁・文明の乱における西軍の中心大内氏側の関係文書として注目できる。ただし、既に井上寛司氏が指摘しているように(井上寛司・岡崎三郎編『史料集.益田兼堯とその時代』、一九九六年益田市教育委員会発行)、この時期の益田氏の動きは複雑であり、文書の年次推定については今後も検討していかなければならないといえる。
次に第二十一番から第二十八番までの巻子(二一二〜二九九号)は、大内氏を介して室町幕府とも直接交渉を持った益田氏の、幕府・大内氏関係者からの文書が収められており、益田氏のような有力国人と彼らがとり結ぶ具体的関係を示していて貴重である。と同時に、幕府との関係では武家故実に関する史料が多く(第二十五番の巻子など)、一六世紀の室町幕府が益田氏規模の国人にとって、権力の中心というよりは、儀礼を介した権威の中心といった様相を呈していくことが読みとれる。なお、足利義昭関係としてまとめられている文書のうち、費乗書状二通(二九五・二九九号)は、興味深い内容を持ち、その一部は他の史料でも確認できるが、記載されている事がらについてさらなる検討が必要であろう。
最後に、第二十九番以降今回収録した第三十二番までの文書(三〇〇〜三四二号)は毛利氏関係であり、『閥閲録』にも多く収載されている部分にあたる。さらに次冊以降収録予定の第五十一番の巻子に至るまで、おおむねこの傾向が続く。
これらの文書のなかでは、永禄六年、吉川氏を介して益田氏が「重代刀」を毛利氏に贈与し、益田・毛利両氏の結合が確認される過程を示す書状のやりとり(三〇八〜三一六号)が興味深いといえよう。また、毛利家当主からの一字状などが、第三十二番の巻子にまとめて収載されていることからわかるように、毛利家の歴代藩主と益田家歴代当主の主従制的関係を示す文書は、『益田家什書』に収録する方針であったと考えられる。
なお、巻末花押一覧には、同型であるかにかかわらず原則として写真撮影可能な花押を全点収録する方針をとったが、一号文書継目裏花押のみは、鮮明な花押一点を収載するにとどめ、以下同型とした。
(例言四頁、目次二九頁、本文三〇六頁、花押一覧二二丁、花押掲載頁一覧表四頁、挿入図版一四葉(網版))
担当者 久留島典子

『東京大学史料編纂所報』第35号 p.29*-33