東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 薩戒記 一

「薩戒記」は権大納言中山定親(一四〇一〜一四五九)の日記である。「薩戒記」という名称は「さだちか」の反名によって附けられたものといわれる。「中山定親卿記」「中山霜臺禪門記」等の外題を付す写本もあるが、『大日本古記録』においては古くから通用している「薩戒記」の書名を採用した。
最初に『大日本古記録 薩戒記』を編纂するにあたっての基本的方針を述べておきたい。本書の原本は本所に五巻(附載文書一巻を含む)、京都大学附属図書館に二巻(附載文書一巻を含む)、宮内庁書陵都に断簡三葉が所蔵されているのみであり、大半の部分は写本によって編纂しなければならない。原本の存する部分はすべて原本を底本とすることは勿論であるが、その存しない部分は、諸写本中もっとも善本と思われるものを底本とし、対校本とするにふさわしい写本との校合によって、原態の復原に努めた。
また、本書には、日次記、別記、附載文書のほか、後人の手によって編まれたと思われる多種の部類記が存在するが、これらは、少しでも原態に近づけるという編纂方針に基づいて、所載の記事は年月日ごとに割裂し、うち日次記、別記、附載文書のなかに見られない記事については、それぞれの記事が本来排列されていたと考えられる箇所に収めることとした。また「薩戒記」の名を含まない種々の書にも「薩戒記」の記事がしばしば引用されているが、それらについても、「薩戒記」自身の部類記の場合と同様の措置をとることとした。本来の排列箇所を推定するにあたっては「薩戒記目録」や同時代の諸史料を参照し、推定の根拠を付記した。なお「薩戒記目録」は、おそらくは戦国期ごろに定親の子孫によって編まれたもので、最終冊に収める予定である。
『大日本古記録 薩戒記一』には応永二五年正月から同三〇年一二月までの記事を収めた。これは定親が一八才から二三才までの期間に相当する。本冊の冒頭、応永二五年正月二日条によれば、旧年中からの望みが叶って、この日、定親は従四位上に叙されている。後年、定親は、嫡子親通が従四位上に叙されたころに日記を終えていることを考え合わせると、この従四位上叙位が日記を書き始める重要な契機であったと思われる。なお定親は、本冊の収載期間においては応永二七年正月五日に正四位下、同二月五日に正四位上、同二九年一二月一八日従三位に上階、官職は日記の始まる時点では左中将であったが、同二七年閏正月一三日に蔵人頭を兼官し、同二八年一二月二一日に参議に昇進している。
本冊のうち、原本の存するのは応永二九年五・六月記(本所所蔵)のみである。このほか応永二六年七・八月記(東京国立博物館所蔵菊亭本)と応永三〇年冬記(京都大学附属図書館所蔵滋野井本)が日次記の形態をとった写本であり、また応永二五年正月記(京都御所東山御文庫本)も日次記の形態をとどめているが、あとの部分はすべて部類記や別記を割裂のうえ整序したものである。用いた部類記・別記の種類、底本、対校本などについては例言に詳しく記したので、そちらを参照されたい。
次に内容であるが、部類記に依拠している部分が多いこともあって、定親の廷臣あるいは後小松上皇の院司としての職務にかかわるものがほとんどである。なかでも、「薩戒部類私要鈔第四」「薩戒記抄出 宣下消息」を主要な素材に編纂した応永二七・二八年記には、定親が朝儀に参仕することを命ぜられた文書や、蔵人頭として定親が諸家に参仕を催した文書多数が列記され、圧巻である。それらを見ると、同じ朝儀への催状であっても、上卿を催す場合には論旨、弁以下を催す場合には定親の直状形式の文書が作成されていることがわかる。後者の場合の文書名の付け方には迷うものがあるが、本冊においては「職事書下」という名称に統一した。また応永二五年二月二四日の花山院忠定元服、二六年三月一六日の禁裏和歌会、二七年正月七日の白馬節会、二九年正月一六日の踏歌節会、二九年六月一一日の神今食、同年一二月一八日の朔旦冬至叙位、三〇年八月二七日の小除目についての詳細な記事があり、室町期に行われていた儀礼を知る上での重要な史料であろう。それぞれの朝儀に室町殿が参加することによって、平安以来の儀式のあり方がどのように変質しているにも注目されたい。
巻頭図版には、原本のうち前記神今食に関する部分を掲載した。具注暦を利用した形態であること、大胆な補筆訂正が多いことなど、自筆原本に共通する特徴が示されている。
(例言七頁、目次一頁、本文二五九頁、口絵図版二頁、岩波書店発行)
担当者 榎原雅治


『東京大学史料編纂所報』第35号p.33