東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 十七

本冊には、細川忠利文書の内、寛永十年分の諸方宛書状として「寛永拾年分公儀方御書案文」(整理番号十−廿三−二)所収の四百九十一通を収めた。
宛先は、前卷に引き続き、大名とその家臣(小笠原忠真・小笠原忠知・松平重直・小笠原長次・有馬直純・有馬豊氏・島津家久・喜入忠続・川上久国・伊勢貞昌・立花宗茂・矢島重成・蜂須賀忠英・永井直清等)や、幕閣等(土井利勝・酒井忠勝・酒井忠世・稲葉正勝・松平信綱・伊丹康勝・榊原職直・春日局等)・長崎奉行(曽我古祐・今村正長)・国廻上使(小出吉親・城信茂・能勢頼隆)・豊後府内目付(石川重勝・市橋長吉・堀利政・駒木根政次・大久保忠政・川口宗重)宛のものを中心に、牢人を含む武家・公家・社家・僧侶・商人等さまざまな階層に及ぶ。
寛永十年正月から九月前半まで、忠利は、前年十二月に初入国して以来、新領地肥後に在国している。参勤のための熊本出立は九月十二日、江戸着は十月十五日であり、以後年末まで江戸にいる。まず、年頭から二月にかけては、旧領豊前に転封した小笠原忠真・同忠知・同長次・松平重直らとの間の先納米の処理のため、忠真等との相談や幕府の伊丹康勝への問い合わせを繰り返し、「先納由断之様ニ他所之衆」に思われることを心配している(一八九三号正月六日小笠原忠真宛書状等)。これには、筑前黒田氏との間の豊前先納米をめぐるかつての紛争の経験が影響しているのかもしれない。その他、豊後国東郡安岐浦公儀継船の交替時期についての新領主小笠原忠知や府内目付石川重勝への問い合わせ(一八九二号等)、肥後代官から引き継いだ船三十艘の処置の幕府大坂船手番小浜光隆への問い合わせ(一九〇九号)、豊前から同行させてきた奉公人の出替わり後の帰国の小笠原忠真との間の約束(一八九三号)等、国替えにともなう雑事に追われている。
新領地については、当初、知行割の困難などが生じており、三月の領内国廻を行いながら今後の仕置き方針を検討している。八月、榊原職直よりの質問に答えて、当面の肥後の「仕置」を列挙している(二二八七号)が、そこでは、�一国土免として知行割をすること、�肥後百姓を公儀御用で用いる時も日用駄賃とすること、�小物成免除、綿・漆・海手役は加藤家代の半分、�町役免除等々が定められている。伊丹康勝への書状(一九三八号正月十七日)では、「大国にて御座候間、万事のびやかに申付度心中」であり、「余切きさむやうニハ仕間敷候」と述べ、一方、稲葉正勝への書状(二〇六一号二月廿六日)では「打入ニきつく成敗仕、後ゆるめ候様ニと存候」としている。そして、入国後一人も「百姓」を「成敗」せず、「籠舎」させていないことを強調している(前二書状、及び二〇九五号三月廿四日有馬直純宛書状)。
前年末に類焼した江戸屋敷の件については、第一報への返事に、「此中余身過分成儀ニ而、空おそろしく奉存候処、か様之儀ハ身のましなひにて別而安堵仕候」との感想を書き付けている(一九一九号正月十日伊丹康勝宛書状)。肥後拝領という将軍からの「身に余る」厚遇の直後、他の大名からの視線もいささか気になっていたかもしれない時期の忠利の発言として興味深い。「身のましなひ」というフレーズは見舞いを送ってきた他の大名たちへの返書にも頻用されている。
この他、幕政に関わる動静を中心として、黒田家の内紛の状況と幕府の裁定に至る観測、国廻上使の動向等々について豊富な内容を含んでいるが、寛永十年については、『細川家史料』五及び十一に、同年分の細川忠興と忠利の往復書状があり、書状の中で伝えられる情報の骨子については共通するものも多い(『所報』一一号及び二三号における『細川家史料』五及び十一の出版物紹介も参照)。忠興・忠利父子間で交わされる情報への認識(評価)・対応と、忠利と第三者の間における情報への言及のあり方の違いを比較しながら分析することが可能である。
本冊で用いた史料冊子底本には、数ヶ所で丁順の綴じ違いが確認される。現在、本冊の写本として確認できる二種類のもののうち、一方の「寛永拾年分之内公儀方御書案文抜」(整理番号十−廿四−三)は、綴じ違い発生以前の段階での写本であり、他方の「寛永拾年分公儀方御書案文」(整理番号四−二−一一四、同九年分と合綴)は、綴じ違い発生以後の写本である。本冊では、当初の丁順を復元して編纂した。
(例言二頁、目次三七頁、本文四八四頁、人名一覧四三頁)
担当者 山本博文・小宮木代良・松澤克行


『東京大学史料編纂所報』第35号p.26