東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十一編之二十二

 本冊には天正十三年十月十四日条から同年十一月二十一日条までを収録した。なお十一月二十一日条は未完であり、次冊に続くものである。
 これより先(八月)、羽柴秀吉は四国をその勢力圏に収めたが、これにともなう中国・四国大名の動きがこの時期に見られた。しかし、東北・関東・九州は依然として勢力圏の外にあり、それぞれ伊達氏・後北条氏・島津氏を中心とする独自の情勢が展開されていた。ただし九州はすでに秀吉の視野に入っており、島津氏との間で緊張が高まりつつあった。また東海の徳川家康の動向も微妙であり、ここでも緊張が高まっていた。このような中で、秀吉は一方では家康との抗争の再燃に備え、他方では検地など内政の充実を推し進めたのである。
 以下、おおむね日付順に、本冊の内容について概説する。
 十月十五日条には、土佐の長宗我部元親が上京したことを収めた。秀吉に拝謁し、金品を献じて臣従の礼をとったのである。また伊予には毛利輝元・小早川隆景、阿波には蜂須賀正勝・同家政がそれぞれ進出していたが、両国の経営にかかわる史料を十一月一日・三日・十二日の各条に収めた。
 同じ十月十五日条には、伊達政宗が陸奥二本松に畠山義継の遺臣を攻めたことを収めた。政宗の父輝宗は、この直前(十月八日)に義継と相打ちの形で落命しており、政宗はこれに報復せんとしたのである。一方、蘆名氏・佐竹氏などは連合して伊達氏と対決する姿勢を示し、両者はついに戦火を交えるに至った。十一月十七日条に収めた陸奥高倉・本宮一帯の合戦がそれである(「仙道人取橋の合戦」として知られている)。「秋田藩採集文書」所収の年月日欠消息四通を、この合戦にかかわるものと判断して収録した。また「仙台武鑑」所収の合戦図を、四頁に分割して収録した。
 九州では島津氏が秀吉の動向への対処を迫られており、十月二十日・二十四日の両条にこれにかかわる史料を収めた。一方、島津・大友両氏の対立にあっては、日向・豊後国境の情勢が緊迫し、島津氏では本格的な出兵も検討されたが、結局中止された。この間の経緯は十一月一日・二十日の両条に収めた。
 十月二十八日から十一月二十日にかけての各条には、徳川家康にかかわる事件が多く見られるが、その概要は次の通りである。
 家康は家臣と協議して、羽柴秀吉への人質呈出を拒否することに決した。それと同時に、他方後北条氏との間には、誓書の交換に応じている(十月二十八日)。家康は、秀吉との対立関係を明確化するとともに、その為にも後北条氏との同盟関係を強化したのである。
 家康は、かつて一向一揆を起こした三河の浄土真宗寺院の内、天正十一年以後もその再興が禁ぜられていた、本証寺・勝鬘寺・上宮寺など七つの寺院に対して、その再興を許可した(十月二十八日)。なおそれに関連する本証寺の無断帰国問題について、便宜合叙した。この一向宗寺院に対する処置も、領内の不安定要素を除去する目的であり、秀吉との対立関係が反映したものであろう。
 家康の重臣で岡崎城主の石川数正が秀吉の許に出奔して、世間を驚かせた(十一月十三日)が、その直接の契機は、前月末の人質呈出問題であった。以前より数正は秀吉との融和策を主張する代表的人物であり、小牧・長久手の役後の講和で活躍し、家康の子義伊の大坂移徙には、数正の子康長も同行していた。事件が起きると、家康は北条氏直に報ずると共に、居城浜松から急遽岡崎に入った。この事件によって両者の緊張関係は一挙に高まり、家康は直ちに岡崎城の修築に取り掛かった(十一月十八日)。秀吉も翌年の家康征討を計画し、家康方の動向を報じてきた(十一月十七日)真田昌幸にその旨を伝え(十一月十九日)、家康に対する要衝である大垣の一柳末安には、再度に渡って指示を与えている(十一月十八日・同二十日)。
 十一月二十日条には、興福寺大乗院門主尋憲の死没及び伝記の記事を収めた。尋憲は二条尹房の息で九条家の猶子として興福寺大乗院に入室、門主となる。青年期に大和国を見舞った戦乱や先代門主尋円との不和などから、僧歴では、貴種門跡としては異例の昇進の遅さが特徴である。尋憲の著作・書写文献は伝わらないが、日記『尋憲記』が伝存する。交友では、松永久秀との親交を伝える記事が多く、筒井順慶との不仲が伝えられるなど、彼の政治的立場が反映されていると言える。『多聞院日記』の記主英俊が尋憲の同学であったことはつとに有名であり、寺内における人物関係を示す記事もなるべく収めた。目立った事蹟は少ないが、政治・社会状況や門跡内の軋櫟に翻弄された、苦難に満ちた生涯が窺われ、その生涯に戦国・織豊期の大和のありようが凝縮されていると言える。
 十一月二十一日条には、秀吉の山城検地と公家・寺社への所領安堵のことを収めた。まず、九月初めに検地の風聞がおこってから、十一月二十一日付の判物・朱印状発給までの過程を示す記録として、『兼見卿記』を中心に掲げた。公家達が検地の情報を収集し、所領保全を求めて検地奉行に種々の工作を行っていた様子が具体的に記されている。つづいて、十一月二十一日付で公家や寺社宛に発給された所領給付や安堵の判物・朱印状を、判物、朱印状の順に、各々寺院宛、神社宛、公家宛の順に排列して掲げた。
 本条は、関係史料が膨大であるため、『大日本史料』では異例であるが、次冊にも続くこととなった。次冊では検地の執行過程を示す文書や、検地の結果作成された検地帳を収める予定である。
(目次一二頁、本文三七三頁)
担当者 酒井信彦・鴨川達夫・前川祐一郎


『東京大学史料編纂所報』第34号p.23