東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 幕末外国関係文書 巻之四十七

本冊は、文久元年正月朔日(一八六一年二月十日)から同月二十日(同年三月朔日)までを収めた。
本冊の対象とする期間では、前巻に引続きヒュースケン暗殺後の英・仏・蘭の各外交代表部の横浜退去と帰府が最も大きな外交問題である。これは二つの側面から考えることができる。一つは、ヒュースケン暗殺後の幕府への対応をめぐって分裂した英仏米三カ国の関係修復であり、一つは、横浜へ撤退した英仏公使と幕府の帰府合意形成である。
前者については、以下の通りである。まず、巻之四十五に収録された五ヵ国代表部会合の結論の解釈をめぐって、英米の間に激論が交わされた。口火はハリスが切った(正月三日、一〇号)。要するに、会合で作成された議事録は不正確であり、署名することはできない、三ヵ国の政策はある種の脅迫である、この旨を英本国へも伝達せよ、と求めたのである。不正確だと指摘されたオールコックは、自らの正しさを証明するため蘭(二一号、二八号)・仏(二七号)と連絡を取り合って、七日ハリスに長文の反論を送り(三〇号)、ハリスこそ戦争で幕府を脅迫してきたではないか、という。
この論争はどちらかといえば、ハリスの方から折れた。彼は十四日にオールコックヘ意見の相違は議論しない、と書き送った(五八号)。十六日オールコックはこれを受けて、議事録についての議論を打ち切ることとした(六二号)。ハリスは即日議論の結果を本国へ報告し「彼(オールコック)との怒りに満ちたやり取りに引き込まれてしまったことを悔いております」と述べた(六三号)。
ハリスはまた、英仏へ、横浜居留地拡張問題で幕府に対して共同歩調をとるよう働きかけ在日外交団の関係を修復しようとした。万延元年十二月二十九日付私信でオールコックに対し、幕府が拡張に応じそうだと通知したのである。そして、オールコックからの激しい反論(三〇号)が届いた直後に、わざわざこの私信の着信の確認をおこなっている(十一日、四三号)。この情報を信じたオールコックが若年寄酒井右京亮に確認したところ、酒井はそうした拡張の合意はないと答えた(十三日、四九号)。そこで、オールコックは翌日わざわざ確認の書翰を送り、酒井らが合意について全く知らないとこたえている旨連絡した(五六号)。困ったハリスは十六日、老中との会談の席で強引にねじ込んで、居留地拡大のための合意を取り付けることに成功した(六一号)。そして翌十七日神奈川領事にその旨を連絡したのである(六七号)。
一方、幕府と英仏との帰府交渉も慌しい。万延元年末に幕府が英仏などの求めに応じるには時間が欲しい、と答えたのに対して、主としてド・ベルクールの案であろう(五号)、幕府を追い詰めるために日本近海を巡航することを両国は求めた(四日、一二、一三号)。これは六日に幕府に届き、幕府では早速会議が持たれ、「説得の方可然」という意見が展開された(八一号)。そして、九日に右京亮派遣が決定した(同)。この神奈川での交渉は十二日(四五号)、十三日(四九号)と連続し、そこでの合意に沿って共同覚書が老中にあてて起草された(五〇号)。結論的には英仏の外交団待遇改善や貿易事務改善などの要求を幕府が全面的に受け入れることとなったのである。
この交渉の様子は、十三日から毎日のように江戸に伝えられ、幕府では連日評議が続いた(八一号)。帰府時に祝砲を放つかどうかが問題として残り、結局右京亮派遣による再交渉ということになった(六四、六五号)。しかし、議論のための会談には応じられない、という英仏側の建前論の前に幕府側はなすすべもなく、英仏側の条件全面受諾を確認して交渉は終わった(六八号)。こうして二十一日に英仏公使は帰府することになる(七八、七九、八〇号)。
サハリンでは、ロシア側の越冬部隊の動きが波紋を生んでいる(七、二五、七七号)。ロシア側はアイヌに働きかけ物資調達(ロシア側は交易といい、日本側は強奪だという)を行なおうとした。これは万延元年から続く傾向で(六〇号)、ロシアの南下政策の強まりを感じさせる。
箱館ではあまり大した事態は起っていないが、長崎ではリハチョフがロシア通詞志賀浦太郎を乗船させるために交渉し、ついに長崎奉行の許可を得ることに成功する(二、五五、五九号)、また、前年以来の錫板等関税の問題が引続き議論になっているが、英米公使の判断は錫板などは二割の関税である、という判断(六、三一、三四号)で決着する。
横浜には、英仏公使が滞在した。彼らはその滞在を単に帰府のための外交交渉の手段として使うばかりではなく、貿易問題の実態を知り、その問題点解決の切り札としても利用した。そのため、前年以来居留民の集会を開き、貿易上の諸問題を掌握整理した(三九、四八、七二号)。これらが第二回の酒井右京亮との交渉(一三日、四九号)に十分活かされた。ヒュースケン暗殺を契機とする英公使らの江戸撤退は、怒りのあまり外交特権である首都駐在の権利を放棄した上に、得る物もなく帰還したと思われがちであるが、外交交渉をリードしたのは誰かを検討するかぎりでは、このような考えは成り立たないように思われる。
なお、一八六〇年八月の神奈川地所規則をオランダ外務省文書から引用した(一四、一六号)。六〇年の英国の長崎・横浜領事報告関係の史料も引用した(三八、七〇号)が、領事報告全体は収録しきれていない。IUPのBritishParliamentary Papers,Japan参照されたい。
(目次二〇頁、本文三八二頁)
担当者 小野将・保谷徹・横山伊徳


『東京大学史料編纂所報』第34号p.27