東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 中右記 三

 本冊には永長元年(一〇九六)・承徳元年(一〇九七)を収めた。本冊の底本には、古写本では陽明文庫本、新写本では東山御文庫本を用いた。また校合には、東山御文庫本及び陽明文庫所蔵新写本を用いた。これらの写本については前冊までに述べたが、本冊に収めた古写本の承徳元年春・夏・秋・冬四巻には、藤原兼経(一二一〇−五九)が建長元年(一二四九)にこの本から抄出した際の奥書がある。
 本冊の期間の記主藤原宗忠は、年齢は三五−三六歳、位階は正四位下、官職は右中弁であり、永長元年四月二一日に修理左宮城使に補され、承徳元年四月二九日に内蔵頭を兼ねた。この間宗忠は右中弁として政や官奏などの政務に携わるとともに、嘉保元年(一〇九四)に任じられた伊勢神宮(内宮)遷宮行事弁及び豊受宮(外宮)遷宮行事弁として、嘉保二年の内宮遷宮の事後処理と承徳元年に行われる外宮遷宮の準備にあたっており、前冊に引き続いて遷宮に関する記事が多い。同じく行事弁を勤めた承徳元年三月二八日の堀河天皇の春日社行幸では、上卿・行事の任命から始まり、最初の予定が触穢によって行幸当日に延期され再度挙行されるに至る経過が詳しく記されている。
 先に宗忠を侍従から右中弁に任じた堀河天皇の信頼は厚く、承徳元年四月には「親昵人」を側近くに召したいとの思いにより、宗忠に内蔵頭を兼任させた。はじめ宗忠は、近代の内蔵頭は経済力のある受領の任じられる官であるとして辞退するが、天皇の再度の言葉により受け入れている。このことに関連すると思われる紀広浜以下歴代の「内蔵頭次第」が同年閏正月四日条裏書にあることは知られるとおりである。
 兼任直後の五月五日、四月から病気であった父宗俊が死去した。宗俊はこの時五二歳、権大納言で、正月の除目の執筆や行幸の上卿を勤めるなど有職の公卿として活躍していた。宗忠は当日条に、宗俊の死と五月六月の日記を記さないことのみを書きとめて中断する。そして七月に再開された日記は、取り上げる出来事の件数も記事の量も極端に少なくなった。外宮遷宮行事を辞すなど、着服中の宗忠の参加する行事・政務が限られることも多少は関わるだろうが、それまでの情報収集に熱心な記述に比べて執筆を控える態度が明らかである。その抑制的な筆致に父の死に対する宗忠の心情がうかがえ、仏事のおりなどには哀惜の情が記されている。
 一方社会状況に目を転ずると、本冊ではまず永長元年夏の田楽の大流行(永長の大田楽)、そのさなかの八月の郁芳門院〓子内親王の急逝、続いて悲しみのあまりの白河上皇の突然の出家、という一連の記事が注目される。この年は、その後も九月の興福寺炎上、十一月の関西地方大地震と事変が続き、これらの記事も充実している。承徳元年では、中断以前は前記の春日社行幸を中心とした詳細な政務の記事が大半を占める。
(例言一頁、目次一頁、本文二四六頁、口絵二葉、岩波書店発行)
担当者 吉田早苗


『東京大学史料編纂所報』第34号p.29