大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記五

本冊には、宝暦四年(一七五四)七月より五年六月までの「公武御用日記」と、五年二月・三月の「関東下向之日記」を収めた。
 武家伝奏同役の柳原光綱は五年正月二十九日に権大納言に選任し、記主廣橋兼胤は同年六月二十四日権大納言を辞した。同役は四年十一月二十日より十二月一日まで、同十三日から二十五日まで、前後四週間近く自家に憚りある病人出来により、所労と称し不参内を余儀なくされたので、その間は兼胤は一人伝奏で、八面六臂の活動をしている。五年春には例の如く同役と共に年頭勅使として関東に下向。二月二十二日に出京、三月四日着府、同月十五日に江戸を発足し、二十七日に帰洛している。
 議奏は二人交替があり、中山栄親が後述の親鷲への大師号願一件に関った廉で、十一月十九日の罷免となり、その替に正親町三条公積が補され、五年正月二十六日に醍醐兼潔が任内大臣により議奏役を免ぜられ、その替に五辻盛仲が補された。
 宝暦四年、桃園天皇は即位より七年、明年は十五歳となられることでもあり、入内のことも具体化されていく。かねてより内定していた摂政一条道香女佐保君の入内のことは六月四日に幕府より御同意の返答もあり、入内の時期は明年の冬と決められる。従前の如く入内の拵料は幕府よりの出費で、銀二百貫目進上のことが想定されていたが、摂政はこれでは不足につき、金千両を別途申請けたいという望みであった。女院も主上もいまこれを武辺に申入れることに反対の意を表明されたが、摂政は伝奏に強く望み、所司代との交渉が図られることになる。所司代酒井忠用は禁中の御作法事は何にても拝見したいとする性格であったことが幸してか、当初は可能性の薄いものと目されていたことであったが、幕閣の了解を得られることとなり、翌五年五月十九日、女御知行として幕府より二千石の進献のこと等が伝えられると共に、女御入内拵料として格別の訳を以て別段に金千両を下されることとなる。また女御御殿のことについては引直しに及ばず、修理を加え用いられることになり、五年六月二日、修復奉行に京都代官小堀数馬が申付けられ、同二十七日御殿が小堀に引渡された。
 入内の準備と共に、摂政一条道香は五年正月下旬を以て復辟しようとして、この旨を伝奏より桃園天皇に奏聞する。十月二十七日のことである。早速天皇は聞召され、復辟後も関白にて一両年も在職するようにとの思召が下される。そこで、摂政は「桜町院御譲位復辟迄被預置之由御書付共」を伝奏を以て天皇に献上している。摂政復辟の儀は所司代を通し幕閣に伝えられたが、十二月下旬に至り幕府より一つの意嚮が示される。復辟後も主上二十歳頃までは、万事摂政是迄の通り故院御在世の節の趣に取計られるべき旨、来春復辟の時分に主上より仰出されるように、というものであった。その頃、摂政は内室の男児死産等のことがあり、参内を慎むべき状況となるが、用務繁多の節に忌中にては支障ありとし、十二月二日には別勅による除服宣下をうける。しかし、正月下旬に復辟の儀は延引せざるを得なく、明けて宝暦五年の正月十七日、摂政は二月中旬に復辟を願い、勅許され、日限は二月十九日とされる、ここに至り関東よりの意嚮、「是迄の通り」とは如何に心得るべきか、摂政の儀の通りか、桜町院御在世の通りか、新儀・再興などの儀は無いよう取計るべきとのことか、どう考えるべきかということが問題となる。所司代も存知せずとのことで、幕閣よりの返答あるまで摂政了簡を以て取計るべき勅旨により対処することとなり、十九日に復辟上表、摂政を改め関白となす詔が下された。是迄の意味については、六月二十五日に至り、所司代書状を以て、関東よりの思召も、関白にて是迄の通り内々摂政の御勤方・御取計あるようにとの趣の由が伝えられている。
 その他、注目すべき頻出記事として掲ぐべきは、(イ)親鸞上人へ大師号願一件、(ロ)宝暦改暦一件、(ハ)仁和寺院家坊官確執一件、(ニ)難波飛鳥井鞠道和融一件などがあるが、ここでは(イ)、(ロ)について若干記しておく。(イ)は西本願寺より宝暦四年五月二十七日に親鷲上人五百年忌に当り大師号願の窺が出されたことを発端とする。朝幕間で大きな問題となり、五年九月中旬に至り、東・西本願寺へ所司代より出願させないよう申渡し、ともに願は差止めることとなったが、十月になり、西本願寺から願を出すことに関与し受納物等まで受けていた者が居たことが発覚し、御咎問題となり、十一月十九日、議奏中山前大納言を初め、園中納言・高辻宰相・土御門陰陽頭が遠慮に処せられた。中山はこれにより議奏を罷免されるのである。土御門は長年に亘る改暦事業をようやく終え、上京中の天文方渋川光洪を指図しながら引続き測量を続行する状況にあったが、これに大きな打撃を受ける。宝暦暦は日本で作られた二番目の暦法で、土御門泰邦の編纂になる。ほんらい八代将軍吉宗の西洋天文学による改暦の意図により始ったものであるが、容易に実現出来ず年数を経ていた。このようなとき陰陽頭土御門泰邦は何とか口実を設け、宝暦二年四月改暦の実権を江戸の天文方から奪い取ることに成功し、三年の測量を経て、四年十月十八日、『暦法新書』十六巻・表一巻を奏進し、翌日改暦宣下・暦号定がなされる。宝暦甲戌暦がこれである。これにより土御門は大いに面目をほどこし、褒美のことも朝廷、幕府の両方で議されていたが、例の御咎によりこのことは御破算となったのみならず、継続して三年間の測量をすることになっていたことも関わることを禁止されたのである。
 なお、校訂者が付した標出に若干の誤解・脱漏等があったので、ここにお詫びし訂正しておきたい。四五頁三行、開帳等→開帳後。七六頁下一行、三哲→算哲。一五八頁下二行、書附→書附案。一七七頁下五行、支障アリ→支障ナシ。一九七頁、醍醐兼潔(正月二十六日免)、東久世通積の次に追記、五辻盛仲(正月二十六日補)。二〇七頁本文下二行、高山侍従→高辻侍従。二四七頁下二行、参加→参賀。三三六真二行、御免ヲ申渡ス案。三四三頁四行、関東亭→関白亭。三五一頁六行、ツテ→ツキ。三五五頁下九行、摂政亭→関白亭。
(例言一頁、目次二頁、本文三六四頁)
担当者 橋本政宣・馬場章

『東京大学史料編纂所報』第34号 p.25*-26