大日本史料第七編之二十八

本冊には、応永二十四年九月〜是歳、同年雑載を収録した。
公家関係では伏見宮関係の記事が多い。十一月十四日条に「伏見宮栄仁親王一周御忌、是日、貞成王、御仏事ヲ始行セラル」とあり、〔看聞日記〕によって、この仏事の実態を構造的に詳しく知り得る。栄仁親王(貞成王の父)が薨去したのは、前年の応永二十三年十一月二十日のことであった(七編之二十五、同日条)。
 武家側の事項としては、先ず十二月一日条の「足利義持ノ子、元服シ、名ヲ義量ト称ス、仍テ義量ヲ右近衛中将ニ任ジ、正五位下ニ叙シ、禁色ヲ聴ス」を挙げられよう。同月十三日条「足利義量、父義持ニ従ヒテ参内シ、尋デ院参ス」も、これに伴うものである。将軍義持は、毎年、京都近辺の大社寺を参詣しているが、今年は、九月十七日条「足利義持、伊勢大神宮ニ参詣ス」を特記できよう。
 地方の武士については、九月十一日条に、南九州における島津久豊(島津家当主)と伊集院頼久(島津庶家)との薩摩川辺松尾城をめぐる抗争について掲げ、本所々蔵の島津家本に含まれる系図類・合戦記類をふんだんに利用した。同月二十日には伊集院頼久が入来院重長に(薩摩国満家院内中俣・西俣などを)、十一月二日には島津久豊が伊作久義(島津庶家)に(島津庄薩摩方阿多などを)宛行状を発しているが、これらはこの抗争に直接対応した恩賞行為だといえよう。
 寺社関係では、九月七日条「越前竜沢寺開山梅山聞本寂ス」がある。聞本は、曹洞宗総持寺系の僧だが、既に二年前の応永二十二年十二月十八日に遺戒して法嗣を定め(七編之二十三)、翌二十三年十二月十三日に置文を成している(七編之二十五)。九月是月条に「鶴岡八幡宮寺尊運、伊豆山密厳院別当職ヲメグリ、醍醐寺報恩院隆源ヲ幕府ニ訴フ」とある。尊運は、応永二十年二月に尊賢より所職・所領を譲与され、それを同年十一月に将軍足利義持より安堵されていたが、義持が、本年七月一日、隆源を密厳院別当職に補し、その院領を安堵するよう鎌倉府に命じたため、尊運と隆源との間に複雑な抗争が展開せざるを得なくなった。十月二十三日条「細川持有、建仁寺永源庵塔主惟忠通恕ト共ニ、同庵規式ヲ定ム、マタ同庵ニ其ノ所領ヲ安堵ス」があり、同日付の〔永源庵式目〕(建仁寺永源庵所蔵)の本文を提示したが、これは未紹介の史料で、今後、あらためて研究に活用されることを期待しよう。そして十二月十一日条「前大僧正醍醐寺地蔵院聖快寂ス」があり、大通寺文書(山城)から多くの遺言状・譲状・置文を提示した。
 さて是歳条として、特記すべきは倭寇の記事である。この年(一四一七、永楽十五年)は、中国(明)側で初めて名詞として「倭寇」という語彙を用いた年である(それまでは「倭、○○を寇す」と動詞的に用いていた)。即ち〔明史〕日本伝に「(永楽)十五年、倭寇(a)松門・金郷・平陽、有捕倭寇(b)数十人里京者」とある(aは動詞、bは名詞)。実際、「倭寇」の活動も激化するので、「明、征倭ノ意アリ、且ツ沿海ノ防備ヲ厳ニシテ、倭寇ノ侵掠ニ値フ」とか「朝鮮、沿海ノ防備ヲ厳ニシテ、倭寇ノ侵掠ニ値フ」という綱文を立てて、明・朝鮮側による倭寇対策を明示した。
 雑載としては、災異と社寺の項を収めた。ここでは、〔応永廿四年之記〕(春日大社所蔵)の全文を収録したことを特記できる。これは、若宮神主中臣祐富の日記で、当時の春日社の仏会・神官・荘園・芸能など諸様相を知る上で、非常に詳しく貴重な史料である。判読困難な箇所が多く、内容的にも複雑であったので、大山喬平氏(大谷大学)・安田次郎氏(お茶の水女子大学)にご教示いただいた点が多い。また担当者三名は、校正の段階で、春日大社(奈良市)に赴き、〔応永廿四年之記〕の原本を閲覧させていただいた。併せて感謝申し上げる。
 最後に。本冊の原稿作成段階では山口と榎原雅治が担当していたが、榎原の所内異動(古記録へ)に伴い、新人の田中克行が参加した。しかし田中は、入所後わずか四ヶ月で急逝した。ここに、同僚として、あらためて御冥福を祈る次第である。
(目次一五頁、本文三八四頁)
担当者 山口隼正・田島公・伴瀬明美

『東京大学史料編纂所報』第33号 p.23*-24