東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 言緒卿記 下

 本冊は山科言緒の日記の後半部慶長二十年(元和元年一六一五)正月から元和六年(一六二〇)二月十五日までを収録した。言緒は元和五年七月十三日参議に任ぜられ、翌六年二月二十五日四十四歳の生涯を閉じる。
 言緒は家業の衣文を中心に学問精励を続け、禁中はもとより、徳川家康からも厚い信頼を得る。元和元年二月十八日、古くは深緋に染めていた四位の袍が、近年黒になっている理由について禁中に家康から諮問を受けた際、高倉永慶が「惣シテ書物不持候間不存」と答えざるを得なかったのに対して、言緒は直ちに諮問に応ずる事が出来た。同年四月二十三日上洛した家康から言緒は学問精励を「褒美」され、五月二十日には「萬衣服之法度可仕之由」を仰せ付けられ、公卿の服制制定を委ねられている。斯くして七月十七日禁中並びに公家諸法度の発布となるが、同日の日記には「衣服方者予書之也」と誇らしげに記し留めている。
 また装束調進の業務が増えるに従って、織手業者との交流も頻繁になっていく。
元和五年正月十二日には内蔵頭を息言総に譲り、世代交代の準備を始める一方、五月二十五日・九月二十三日には織手たちに内蔵寮織手の補任状を発給している。
 また家康との親密な関係は父言経以来保たれてきたが、言緒も厚遇を以って迎えられた。言緒が昵近衆として一般の公家とは異なる作法で将軍参内に扈従している様子は元和元年六月十五日・同年閏六月二十一日に詳しいが、昵近衆の中でも際立って親和感をもたれていたのではないかと思われる。例えば元和二年三月、大勢の公家と共に家康の疾を駿河に見舞った折、他の公家衆が暇を出された時も、特に冷泉為満と言緒には逗留を求められ、久能の廟所に棺が納められるまで滞在している。このため本日記には家康臨終の模様が書き留められる事になった。
なお、上冊に収録した慶長六・七・九・十・十二・十四年の日記は紙背に合計四十点の文書が有り、これを附載として年譜・解題・索引等と共に本冊の末尾に収めた。
(例言一頁、目次二頁、本文三三三頁、巻頭図版二葉、解題一七頁、紙背文書二〇頁、花押・略押等三頁、略系・年譜二二頁、索引四七頁、岩波書店発行)
担当者 田中博美


『東京大学史料編纂所報』第33号p.30