東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 十六

本冊には、細川忠利文書の内、寛永九年分の諸方宛書状を収めた。諸方宛忠利文書は、その案文を書き留めた「公儀御書案文」・「御案文公儀」等と題する冊子体の史料として残されており、これを「公儀御書案文」と総称する。寛永九年より忠利の歿する同十八年分まで、年次毎に一冊乃至数冊から成り、合計十五冊が現存し、総計四千四百通余の忠利書状案文が収められている。以下にその概要を示す。「」内は、表紙外題。
�「寛永九年分御案文公儀」寛永九年一月七目〜十二月晦日分(整理番号十−廿三−一)
�「寛永拾年分公儀方御書案文」寛永十年一月四日〜十二月二十八日分(整理番号十−廿三−二)
�「寛永拾壱年公儀御書案文」寛永十一年一月五日〜十二月晦日分(整理番号十−廿三−三)
�「寛永十二年分公儀御書案文」寛永十二年一月二日〜十二月二十二日分(整理番号十−廿三−四)
�「寛永十三年公儀御書案文」寛永十三年一月六日〜十二月二十九日分(整理番号十−廿三−五)
�「寛永十四年公儀御書案文」寛永十四年一月二日〜十月二日分(整理番号十−廿三−六)
�「寛永十四年公儀御書案文」寛永十四年十月四日〜寛永十五年一月十五日分(整理番号十−廿三−七)
�「寛永拾五年正月廿七日より五月晦日迄公儀御書之案文四冊之内」寛永十五年一月廿七日〜五月晦日分(整理番号十−廿三−八)
�「寛永拾五公儀御書案文四冊之内六月朔日より九月廿八日迄」寛永十五年六月一日〜寛永十五年九月廿八日分(整理番号十−廿三−九)
�「寛永拾五年十月朔日より十一月十九日迄公儀御書案文四冊之内」寛永十五年十月一日〜寛永十五年十一月十八日分(整理番号十−廿三−十)
�「寛永十五年公儀御書案文四冊之内十一月十九日より」寛永十五年十一月十九日〜寛永十五年十二月晦日分(整理番号十−廿三−十一)
�「寛永拾六年公儀御書案文卯正月四日ヨリ」寛永十六年一月三日〜十二月廿九日(整理番号十−廿三−十二)
�「寛永拾七年公儀御書案文正月より」寛永十七年一月七日〜寛永十七年六月十一日(整理番号十−廿三−十三)
�「寛永拾七公儀御書案文」寛永十七年六月十三日〜寛永十七年十二月廿八日分(整理番号十−廿三−十四)
�「寛永拾八年正月五日公儀御書案文」寛永十八年一月五日〜三月十三日分(整理番号十−廿三−十五)
「公儀御書案文」は、藩主忠利の側にいる右筆によって作成された諸方宛忠利書状の「案紙」を順次記録していったものであると推測される。したがって、藩主自筆書状や自筆による加筆の部分は原則として含まれない。また、必ずしも日付順に記録されていない部分もあり、案紙が即日「公儀御書案文」の冊綴に記録されなかったことも考えられる。宛名は、幕府年寄・老中・諸役人及び細川家と親交のある大名・旗本・公家・僧侶、さらに大名家中等多岐に亘る。内容も、江戸の将軍家光・幕閣の動向、各大名の動静、風聞を中心に当該期の政治情勢について豊富な史料を提供する。既刊の細川忠興書状や、同忠利書状の同時期の部分と併せて、より立体的な分析が可能となることはいうまでもない。
本冊で収録した�冊には、総計三百七十九通分の諸方宛忠利書状案文が書き留められている。この内、主な宛先としては、豊後府内目付(森重政・本郷勝吉の二名、及び市橋長吉・石川重勝の二名、それぞれ銘々宛若しくは連名宛)宛が総計四十五通あり、さらに江戸の幕府年寄や諸奉行及び取次の旗本宛のものは、酒井忠世・土井利勝・酒井忠勝・稲葉正勝・永井尚政・伊丹康勝・榊原職直・曽我古祐等への銘々若しくは連名宛の書状や請書を中心に全体の二割以上をしめる。
また、大名宛のものとしては、島津氏や柳川立花氏・鍋島氏・豊後岡の中川氏・延岡有馬氏・臼杵稲葉氏・小倉転封後の小笠原氏等の地理的に近い周辺の諸大名宛のものを中心に全国の諸大名宛のものが百通以上に及ぶ。ただし、慶長五年以来関係険悪な筑前黒田氏宛のものは一通もない、宛名は、必ずしも大名本人宛ではなく、その家臣に宛てたものも多い。その他、春日局宛(四通)、京都所司代の板倉重宗(三通)、町人や牢人宛のものもある。
寛永九年正月廿四日に大御所秀忠が歿した時、忠利は江戸にあり、家光から他の大名同様に秀忠遺金銀の分配を受けている(一五二六号文書)。三月初めに小倉へ帰国した直後の忠利の関心は、次の参勤時期のことであった。一方では江戸から伝わる家光のいわば代始めの新政の情報を集めつつ、榊原職直・稲葉正勝・春日局等を通じて参勤時期を探っている(一五七二・一五七三・一五七六号文書等)。しかし、五月廿九日に肥後加藤忠広が改易されるという大事件が起き、また、筑前黒田家内の御家騒動深刻化の報が伝わると、熊本と福岡についての情報を集めて(一六二二号文書等)、周辺諸大名と情報交換を行いつつ、豊後府内目付への連絡を密にするようになる(一五九二号文書等)。熊本城請取の上使稲葉正勝一行の九州派遣にあたっては、忠利は、上使の順路における道や糧食の整備を、万一の場合の肥後への出兵の可能性もにらみつつ、万全の注意を払って行なっている(一六〇二・一六〇四号文書等)。さらには、稲葉正勝の熊本城入城を、いちはやく正勝生母の春日局へ速報するという気配りも怠りなかった(一六六五号文書)。その努力の結果、忠利への評価は高く、熊本城請取りの一段落した七月廿六日には「九州表之儀脚注進」や上使順路の「領内道・橋念入」に骨を折ったことが稲葉正勝から家光に披露されたことを報じる年寄連署奉書が出された(一七〇八号文書参照)。この間、次の肥後国主の行方について、忠利は冗談めかしつつも自分が選ばれることへの期待を行間ににじませている(一五八九・一七二九号文書)。そして、期待に違わず、十月三日、参勤したばかりの江戸城で肥後拝領を命ぜられると、すぐに小倉に戻り(十一月十日、一七五六号文書)、熊本城請渡しの上使板倉重昌等の到着を待ちながら、急遽国替えの準備に取りかかっている。
熊本城から上使が戻ってきた直後の十二月六日に小倉を出て、十二月九日熊本城へ入った。即日、江戸の堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋宛書状及び酒井忠世・永井尚政・青山幸成・伊丹康勝・酒井忠勝宛書状が出され、「大国」・「国之様体見事」につき、「過分成仕合可申上様」もないことを言上している(一八一六・一八一七)。
忠利書状各号の史料名については、日付・宛名の順で、「某月某日甲宛書状」のごとく付与した。ただし、宛名が連名となっている場合、脇付が連名宛名の末尾にのみある場合やまったく脇付がないものについては、一通の書状が連名宛で出されたものと仮に判断し、「甲并乙宛書状」もしくは「甲外三名宛書状」の如く付与し、各宛名毎に脇付があった場合は、銘々宛に一通ずつの書状が出されたものと判断して「甲并乙并丙銘々宛書状」の如く名称を付与した。ただし、末尾のみに脇付のあるもの等でも、案文上に加筆された「銘々へ」等の注記や文意により、銘々宛書状と判断したものもある。
なお、本冊は、前述の如く、案文が必ずしも日付順となっておらず、とりわけ、一七八八号文書と一七八九号文書の間等には、日付の前後が大きいが、原本については同一の丁においてつながっており、後世の綴じ直し等による錯雑である可能性はない。したがって、原本作成過程の跡を明示する意味も考え、そのままの順番とした。
(例言二頁、目次三〇頁、本文四一二頁、人名一覧三〇頁、図版一葉)
担当者 山本博文・小宮木代良・松澤克行


『東京大学史料編纂所報』第33号p.25