東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第十二編之五十四

 本冊には、元和八年(一六二二)年末雑載のうち、諸家(続)、疾病・死歿の各条を収めた。

 諸家の条では、前冊に続き大名、幕臣、その他諸家の順で、概ね知行高順に配列した。収載した史料のなかで、ここでは一次史料のうち次の二つに触れる。

 �伊達家文書(大日本古文書既刊、原本は現在仙台市博物館所蔵)に残された伊達政宗宛の諸大名書状について。徳川頼房、鳥居忠政、山崎家治の各一通を、前冊収載の『伊達政宗記録事蹟考記』二十六等により、本年のものと比定し、本冊に採った(一、六六、一二〇頁)。

 �土佐高知藩士加賀野井家資料(高知市民図書館所蔵)について。元和年間の土佐藩は藩政改替期にあるが(八年八月十四日第二条〔第四十七冊三七頁以降〕参照)、江戸屋敷で発布された家中法度写のうち本年分と、法度違反に問われた藩士上呈の起請文とを収載した(五三頁以降)。近世初期の大名家江戸屋敷の管理、藩士の服務規律、起請作法等を考える材料として興味深い。

 疾病・死歿の条は、公家・幕臣・大名の家族及び家臣等・神職・僧侶の順で配列し、俗名不詳の者を含む諸寺の過去帳類を最後に収めた。紙数の制約のため略伝の掲出は最小限に抑えざるを得なかったが、戦国末以降の激動期を生き抜いた二百名余の人々の生涯は実に多端である。ここでは掲載内容のうち四点を摘記するにとどめたい。

 �本条冒頭に収めた権大納言日野資勝の『凉源院殿御記』は、その娘である転法輪三条実秀室の病状の悪化と死去、歿後の供養までの様子を記している。資勝は寺社に平癒祈願をし、複数の医師らに治療を依頼する一方、自身でも薬剤を調合して与えるなどしているが、それらの経過が比較的詳しく記述されている(一四一頁以降)。

 �加賀金沢の外港宮腰の町年寄を勤めた中山成之の死歿に関連して、その歿後数ヶ年にわたる遺産相続争論の過程で作成された訴状類を収載した(中山周比古氏所蔵、二二四頁以降)。なかでも家財道具と売掛銀・借銀の書上げは、当時の港町上層町人の生活と経営の実態を知るのに好個の素材である。

 �歌人として知られる豊臣一族の武将木下勝俊(長嘯子)の前室森氏が、この年に京都で病死した。勝俊が関ヶ原戦時に伏見城から出奔した際に、自ら去って剃髪し宝泉院と称していたが、死去後には勝俊もその跡を訪れて二首の追悼歌を詠んでいる。葬地は大徳寺三玄院であるが、実弟に当たる美作津山藩主森忠政の関係で、森家菩提寺の津山妙願寺にも関係史料が残されていたので、それらも採録した(三二七頁以降)。

 �幕臣をはじめ、系譜類でしか死歿の時期を確認できない者が多数にのぼったが、そのうちの一部については墓碑銘等を採集することができたので、それを併載した。元和期以降の金石文の調査は、網羅的蒐集の蓄積がある慶長期以前に比べると、ほとんど手付かずの状態といってよい。断片的な材料を掲載するのには是非の議論もありえようが、可能なものについては今後も順次蒐集の努力を続けていくべきであろう。

(目次二頁、本文四一七頁)

担当者 宮崎勝美・山口和夫・及川亘


『東京大学史料編纂所報』第32号p.17