大日本史料第十編之二十二

本冊には、正親町天皇天正二年(一五七四)四月八日より六月十三日までの史料を収める。
 中央の織田信長の動きとしては、まず近江石部城の攻略がある(四月十三日条)。これにより、長年にわたって信長に抵抗してきた六角承禎・義治父子も、遂に本国を逐われるに至った。羽柴秀吉による今浜城の普請、長浜への改称と合わせて(六月六日条)、近江一国の支配固めが進んでいる。また山城でも、将軍足利義昭追放後に帰服した三淵藤英の伏見城を廃城とし、細川昭元も槇島城から本能寺に移してしまい、塙直政を山城守護に任じてその槇島城に入れている(五月是月条)。
 しかし、正月以来不安定な越前の情勢はさらに悪化し、前年八月に従兄義景を自殺に追い込み、信長に帰順した朝倉景鏡(土橋信鏡)は一向一揆との戦いで敗死し、同じく信長に従っていた朝倉(篠河)景綱も敦賀に逃れた(四月十四日条、五月二十目条)。武田勝頼も、二月の美濃攻めから一転して遠江に鉾先を向け、高天神城を包囲している(五月十二日条)。このほか、義昭も島津義久を誘うなど(四月十四日第二条)、反信長勢力の活動はますます活発である。
 続いて地方に目を向けると、中国方面では宇喜多直家が、旧主で信長方の浦上宗景を破って地歩を固めつつ、毛利氏との結び付きを強めている(四月十八日条)。九州では、正月に龍造寺隆信によって本拠地肥前鏡城を奪われた草野鎮永とその実父原田了栄が、大友宗麟の後ろ盾を得て巻き返しに転じ、肥前・壱岐の諸将の多くを味方に付け、龍造寺氏の孤立化に成功する(五月二十日第二条)。
 東日本の動きはさらに激しい。二月以来、関東に在った上杉謙信は、上野の数城を陥れたものの、由良成繁・国繁父子の桐生・新田金山両城は攻略ならず、越後に引き揚げることとなった(四月二十五日第二条)。この間、利根川右岸の拠点である武蔵羽生城に兵糧を入れようとして、川の増水で不成功に終わっているが、その原因は、羽生に赴いて現地を実見しながら、物資搬入の困難を見抜けなかった佐藤筑前守の甘い状況報告にあるとして、「佐藤ばかものニ侯」と謙信が感情をむき出しにしているのが興味深い。
 この謙信の動きに対応して出馬した北条氏政は、続いて築田晴助の下総関宿城に向かい、本格的な攻撃に乗り出している(四月二十六日条)。
 東北では、一時鎮静化していた最上栄林(義守)・義光父子の争いが再発し、正月にも栄林側に立って出兵した伊達輝宗が、再び義光を攻撃した(四月十五日第二条、五月十一日第二条)。しかし、六月五日に会津の当主蘆名盛興が死去したことから(同日第二条)、情勢を見定めるため、とりあえず矛をおさめている。蘆名家としては、田村清顕との戦いで重臣松本氏輔を失った(五月十三日条)のに続く痛手で、隠居の盛氏が須賀川二階堂氏から盛隆を養子に迎えて家督を嗣がせることで、事態の収拾を図っている。
 右の蘆名盛興・松本氏輔のほか、死歿・伝記としては、佐野昌綱(四月八日条)、真田幸隆(五月十九日条)、里見義堯(六月一日第二条)を収録した。いずれも東国で活躍した武将たちだが、中でも里見義堯については、二度にわたる国府台合戦の敗北を乗り越えて安房・上総二ヶ国の大名へと成長した事蹟とともに、『堯我問答』等が物語る日蓮宗富士門流との関係が注目される。
 他にも家の継承に関わる事項として、五月十一日条に九条行空(稙通)から同兼孝への所領譲渡を収めている。これはおそらく、二月に兼孝が右大臣となったのを契機として行われたものであろう。
(目次七頁、本文二八七頁)
担当者 染谷光廣・中島圭一

『東京大学史料編纂所報』第32号 p.17