東京大学史料編纂所

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幕末維新期軍事関係史料の採訪報告

 一九九三年度に科学研究費(奨励研究A)を得ておこなった幕末維新期軍事関係史料の調査のうち、下記の十四か所分についてここに報告する。以下、調査先ごとに史料の概要と撮影目録をかかげる。なお、研究概要については所報二九号(一九九五年三月)九九〜一〇〇頁を参照していただきたい。
一 刈谷市中央図書館(愛知県刈谷市住吉町四ノ一)
 七月一二日〜一五日、村上文庫中の軍事関係書籍について調査した。村上文庫は、刈谷藩土井家の侍医・国学者の村上忠順の収集によるものである。このうち撮影した書籍は以下のとおり。

 5206『水陸戦考』                          一冊
 5213 教戦略記                          一六冊
 5263 練兵布策                           一冊
 5276『和蘭兵書』                          一冊
 5324『砲兵操練全書』(一のみ)                   一冊
 5325『抜隊龍全書』(六・七巻を欠く)                二冊
 5326『海軍銃卒練習軌範』(前編)                  一冊
 5327『生兵大隊号令詞』                       一冊
 5328『大隊号令詞』                         一冊
 5415『歩操軌範』(初編)                      三冊
 5416『騎操軌範』(初編)                      三冊

二 豊橋市中央図書館(愛知県豊橋市羽根井四八)
 七月一六日、同図書館所蔵の軍事関係書籍について調査し、以下の数点について写真撮影をおこなった。なお、これらの書籍は幕末期の神官羽田野敬雄の収集によるものと思われる。

 和281—6『京都御役鑑』                       一冊
 和396—2『歩操新式』(全六冊)                   六冊
 和396—5『英国新式斯乃獨児尾装銃操法』               一冊
 和397—1『海軍括要』(巻一のみ)                  一冊
 和396—3『歩軍操法』(部分)                    三冊
 和396—4『英国歩兵練法』(全)                   八冊

三 石川県立歴史博物館(石川県金沢市出羽町三—一)
 九月二七日〜三〇日、金沢藩士小川家文書を調査した。幕末の当主小川仙之助は、戊辰戦争の際、金沢藩の銃隊物頭として一隊を率い、北越戦争に出陣した。この小川隊に関するまとまった史料が残されており、戊辰当時の軍隊組織を検討するに貴重な史料群となっている。すでに一九七四年、維新史料室による調査が行われており、史料の内容についてはその調査報告(『所報』九号)にゆずる。今回はこのうち、以下の史料を撮影した(点数が多いため、ここでは『加賀藩士小川家文書目録』の整理番号のみを示すにとどめる)。

 〔藩政—布令〕  24・25・27                   三点
 〔藩政—軍事〕  79〜99(全点)                 二二点
 〔藩政—幕末〕  118〜120                    三点
 〔藩政—新兵制〕 128〜178(全点)               五四点
 〔家—由緒〕   248                        一点
 〔家—勤仕〕   287・295〜298、308            七点
 〔家—家計〕   371                        一点
 〔家—武芸〕   407〜414(全点)                八点
 〔北越戦争—小川仙之助宛・高畠全三郎宛・日記・諸記録・交名・物資・渡金・武器
・分捕品・医療・本営方・出陣先・帰陣・墳墓・法要・一般・絵図〕 415〜882
(全点)                               五五〇点

四 福井市立図書館(福井県福井市文京二—七—七)
 一〇月一日〜二日、福井藩旧蔵の軍事書籍について調査した。このうち、六〇余点については書誌情報をとり、必要な書目について撮影をおこなった。撮影目録は以下の通り。

101『砲術訓蒙』一〜七 安政四・五年/木村軍太郎訳           三冊
104『戦地必要』一〜六 慶応三年/宇式直訳/淀習武場蔵版        六冊
107『兵家須知戦闘術門』一〜六 大村益次郎訳/長門陸軍学校       六冊
120『和蘭王兵学校掟書』文久元年/神田孝平訳/九潜舘蔵板        一冊
125「雷火銃小解」 東条寅訳                      一冊
126「爆銃提綱」                            一冊
127「爆銃使用軌範」                          一冊
128『歩操軌範』 安政二年/膺懲館下曾根蔵版              六冊
134『抜隊龍学校全書』 安政三年/大塚峰郎訳/随時館林百郎蔵版     三冊
135『騎操軌範』中編一〜六 安政三年/牧培蘭訳/折井氏蔵版       三冊
136『歩兵運動軌範』 安政四年/石井修三訳/縄武館蔵版         六冊
140『銃技範』 安政四年/里見大四郎訳/里見氏蔵版           一冊
150『生兵小隊号令詞』                         一冊
156『野戦論』 慶応二年/〓軍舎蔵版                  二冊
163『野戦兵嚢』前後編 慶応三年刊/瀬脇節蔵訳/仙台武庫       一〇冊
165『大隊教練』                            一冊
166『小隊教練』                            一冊
167『歩操新書』増補 慶応四年/瓜生三寅訳               六冊
175『英式歩操新書』五 慶応三年/瓜生三寅訳/南越兵学所蔵版      一冊
191『英国練法号令詞』明治元年版/浅津 渉著/加州練兵局蔵版      二冊
193『陸軍日典』二 明治二年/官版・兵学寮               一冊
194『学寮日典』 明治三年/兵学寮                   一冊
202『海軍沿革論』前編一・二 明治二年/内田正雄訳・柳河春蔭校     二冊

 五 小浜市立図書館(福井県小浜市大手町四—一)
 一〇月三日、小浜藩酒井家文庫の調査をおこなった。以下、史料の内容と記載例を示す。
5—10 慶応秘録                            六冊
 藩の公用留の写しが中心。山田吉令本。所々に風聞等も入るが、あまり多くない。「旧藩秘録」として山田吉令が収集・編纂しつつあったものの一部と思われるが、くわしくは検討できなかった。幕末については、同形式のものが天保・弘化期からある。
�(慶応元年正月〜六月)
「江戸町触写
  此節赤坂芝辺重立其外所々市中ニおいて、子供遊ひニ陣羽織杯之品着用、所々へ屯いたし、拾四、五人・三十人位之一組々々ニ陣を立、紙昇旗等押立、手遊之鑓・長刀・鉄砲を持、太鼓を打、貝を吹鳴し候あそび、追々増長いたし候哉ニ相聞候間、御沙汰無之内早々相止候様厳重ニ親々老より申諭候様可致候、以上
   閏五月十三日                             」
�(慶応元年九月〜一一月)
「 丑年説 何方〓之来状か不詳
 一、薩州之形勢ハ定て聞取被遊候事と奉存候、御家老新納武蔵総督ニ而五大州廻歴仕候、英国分て懇切、金弐百万両御頼之由、風聞仕候‥‥
 一、此節英国ミニストル、ハルリーロ・ハルケス始て来朝、長防へ参り応接致し、夫〓摂海へ乗込様子ニ相心得、殊ニミニストル〓相頼候間、内密フレハルト□□外車蒸気船ニて当月九日朝十時出航、翌十日五ツ時下之関着、ミニストル同道ニて上陸申候処、杉留之助・伊藤春助〔先年英国〓帰国仕候者〕両人申口ハ、兼て英国之条約も取繕候事ニ御座候得は、当今先ツ一致し、彼と手穏ニ取計、後ハ此方素〓平穏仕候得共、征伐抔取来候時ハ此方とも国中無人之様被相成候迄ハ防戦仕候積ニ付‥‥、十一日未明発、夕刻予州松山之城下ニ錨を下し、十二日同地出航、夜十時兵庫着、翌十三日軽舟ニてミニストル、コンシュル同道、天保山ニ至、幕府御役人ニ対面を願、壱人も御出張なく‥‥、実以幕之御取計如何相成事ニ候や、寝食難安被存候
 右風聞及承間申上候  丑十一月                      」
「  大坂出来判事物
 一、壱寸先ハ闇                  再度の御進発
  ‥‥‥‥‥‥
 一、利を以て非に落る               長州父子
 一、欲と道連れ                  長州の歩兵
 一、短気ハ損き                  長州の三人
  ‥‥‥‥‥‥
 一、ひょうたんはならず              攘夷の催促
 一、船頭か多くて舟山に登る            宮中議論
  ‥‥‥‥‥‥
  右風聞及承候間申上候、以上
   丑十一月                               」
�(慶応二年正月〜七月)
「  六月五日
 今五日昼八ツ時頃より紀伊殿・小笠原侯・榊原侯、芸防の間竹島下手より戦争相始り、奇兵隊敗北、討死・手負多、生捕百廿人計有之由、海手より細川侯、奇兵隊武器・軍艦・兵粮船三十六艘乗取由、右ニは岩国より使者ヲ以奇兵隊不残召捕鎮静仕候間、十一日迄御討入御見合御願之由
 右ハ不取留風聞                              」
「寅六月廿六日付京都文通写
 ‥‥扨又長州勢石州江打出、津和野落城并浜田松平右近様野須御城も危き事ニ及ひ候由、‥‥極内々其筋より承知仕候                        」
�(慶応二年七月〜一〇月)
�(慶応三年二〜一〇月)
�(慶応三年一〇月〜一二月)
9—22 軍制改革                            一冊
 明治元年の軍制改革について記録したもの。小浜藩の改革についてはこれまであまり知られていない。やや長文ながら、以下その要点部分を書き出す。
「   頭談
 此程被仰出候通今般専ら兵備を盛ニ被遊候思召ニ付而ハ、天下之大勢と御家之御軍制とを御参考被遊、総轄を始更ニ其職掌を被仰付、尚又和洋之兵家其外をも御膝元へ被召呼、追々得失用捨御斟酌御講求之上是迄之御軍制大ニ御作略可被遊旨御決断被仰出、其大綱之御趣意別紙之通御書付壱通御下ケ相成候、一統拝見可有之候
一、右御作略ニ付而は惣而武役ニ関る是迄之役々之内ニは御廃止相成、或ハ新ニ被設、又は役名を被改、其外軍役持人等之事ニ至迄別紙御書付之件ニ追々被仰出候次第有之ニ付、猶其細目御制度之義は総轄以下取調、追々可相達ニ而候
一、御作□場御茶屋以来軍務所ニ御定、総轄以下掛り役々近日〓出役相成候間、過日被仰出候通、此度之思召入厚被相心得、御作略ニ付御為筋心付有之節ハ以書取右軍務所へ可被差出候、又ハ軍務所へ被罷出其事柄ニ寄掛り々々へ直談有之儀都合次第之事
   四月
    別紙御書付之写
 今度之軍制を和洋之兵家数輩ヲ会合シ、大議ヲ尽シ、諸伝軍術之時勢ニ的当スルモノヲ折衷シテ以テ適用流ト号シ、更ニ確令シテ一藩此法ニ習練馴致セシメ強固ノ基ヲ開カント欲ス、作略之大旨、兵器ノ得失、軍装之便利等我見ル処、各士ノ議スル処、左ノ如シ
一、古今宇内ノ兵務日々ニ沿革シ、砲戦ヲ専ラトシ、就中各国追々洋伝之銃隊制ヲ用ルニ付而ハ、其戦陣ニ利在ルこと推シテモ知ルヘシ、且他所出兵他兵併合之節公務差支候訳も有之候ニ付、今度之作略モ合図・歩法・隊伍等ノ規則ハ洋伝ニ基キ、其他ハ我所長ヲ以テ補修ス、其戦法活用ニ至テハ素ヨリ主将ノ握中ニアルヘシ
一、兵器ハ洋伝施條ノ小銃ヲ以テ最要トス、仰モ施絛銃ノ功用挙試ルニ、其弾力堅甲ヲ射裂スルこと素肌ヲ破ルニ均シ、故ニ甲胄ハ銃丸ヲ防クニ無利、且進退ニ頗ル害アリ、尤往古甲胄ヲ製作スルノ由来刀剣矢等ヲ防クノ為ニシテ弾丸ヲ防クノ為ナルマシ、故ニ矢剣ヲ受ルニ有益テ弾丸ニ損アルこと然り、今ヤ砲戦ヲ専ラニスルノ時進退運用軽便ニシテ運輸費モ亦省ク、且害ヲ去り利を用ルノ道也、故ニ甲胄ヲ廃スヘシ
  但甲胄ヲ廃スト雖モ再可用ノ時勢可有之かモ難計、其上代々由緒相伝ノ名器等も可有之、必一時ニ放棄致スニ不及間、銘々嗜次第ノ儀、是迄ノ如ク持伝ヘ候義ハ勝手次第ニ候
一、鉢金ヲ用ルハ勝手次第之事
一、胴ハ筒袖・股ヲ用、腰下ハ小袴又ハ近世用ル処ノダンブクト称スルモノヽ内、外飾ヲ省キ面々運働便利ノ実用ヲ考試シ、両品ノ内可撰用
  但絹綿麻毛織ヲ用ルこと勝手次第タリト雖モ、貴賤ノ分別ハ尤制度ヲ定追而令スヘシ
一、篭手ハ手詰血戦多利運用無害用不若事
一、革履・草鞋ノ内動歩軽便実用多益ノ方可用、其外陣羽織・押羽織ヲ始メ、惣シテノ軍装其製追々令スヘシト雖モ今爰ニ不記
一、長柄ノ鎗ハ廃シテ旗ハ廃セズ、唯其数ヲ減シテ用ユベシ
一、鎗ハ中古以来ノ器ニシテ、当節得失用捨ノ論アリト雖モ、我家ニ於テハ尤不可廃事
  但以来ハ制度ヲ定ムベシ
一、先手備・旗本備ノ差別平素定メ置候得共、以来ハ先手ノ名目相止、一般併合ノ数隊ヲ備ヘ置、先後ノ順次ハ時々ノ軍配ヲ以テ定ムベシ
 右は方今治乱之堺ニ当テ武門之要務タル軍旅ノ道四裂八裁シテ人心一定セス、是取国ノ基ト云ベシ、故ニ今般断然衰世ノ弊習ヲ一洗シ、同心協力ノ兵隊ヲ設ケ、日夜鍛練シテ大ニ国力ヲ振ヒ、報国ノ誠忠ヲ尽シテ先祖以来ノ家名ニ不恥ノ覚悟相立度候間、一同鞭策紛骨可致候事」
「   頭談
 今度御軍制御作略大綱之御趣意ハ去月相渡候御書付中被仰出候得共、併合・分別、隊名等之義尚又被仰出候間、則別帳取調差出候間一統御趣意可相心得候、尤速ニ御趣意拝承可有之ため相達候事ニ而候間、新旧御切り替被仰出候迄は手附組々等都而是迄之通可被相心得候事
   閏四月                       軍務総轄
 別帳
    三兵御趣意書
 今度作略為し給ふ御軍制之義ハ先ツ全国之兵ヲ三ツニ定め給ふなり、其一ツハ鎗、其一ハ砲、其一ハ銃、此三ツ兵各隊ヲ分ち、隊毎ニ頭を置、又其属役を設けて節制を厳にし、常ニ其道を講し其業に習ひ、或時ハ三兵を合して変化運用を試ミ、進退駆引自在ならしめて三兵各実用に適する様に為し給ハんとの御趣意なり
一、鎗手は是迄之御先手御馬廻りを改めて銃鎗隊と号し、六組を混合し、更に人数を百人と定て是を三兵の長と為し給ハんとも思召なり、依て此隊たる者常ニ鎗術に熟して銃鎗の名に耻さるへし、然るに鎗ハ数間相廻らされハ其用を為さる道理故、数間遠隔砲戦の際ハ専ら小銃を用ひて全隊を助けしめんとの思召ゆへ、傍ら銃隊の道をも常々学んて其業に熟せしむへしとの御事なり
一、砲手ハ諸士新格之内数十人を被撰、其受る所の業を分ちて是を大砲隊と号し、凡古伝之石火矢・魁砲の類を始、新洋伝之海岸・野戦砲とも盡く此隊にて掌り、是又常々大砲の道ニ従事して、凡海陸共大砲ニ関係するの場ハ此隊の受る所と為し玉ハんとの御事なり
一、銃手ハ足軽以下而已ニ限らす諸士にも亦一隊を設け給ふへしとの御事にて、御留守居・御馬廻より御用人・御小姓頭之両支配、扨ハ惣して諸士の子弟迄を混合して、これを奇兵隊と号し、尤銃手の長共申へき程に、朝夕此道に鍛練して大に奇兵之用を為さしむへしとの仰なり
一、惣して諸足軽、御先手或ハ御留守居抔と申組々名目并足軽之名を御止め、普く同心と称し、一同併合之銃隊ニ為し給ひ、其内一、二の番号を分候て分隊を定め、或ハ先鉾、或ハ後陣、又ハ御本陣備へも御用ひ可相成、惣して出張等之兵役一般平等之筋ニ為し給ハんとの思召なり
一、是迄之農兵・砲卒之類混合して新銃隊と号し、是又一種之銃手と為し給ふへしとの仰なり
    付録
 御小姓・御供方・御徒士之類、惣して御膝下御手廻り勤之分、是を昵近隊と称して、御出馬之節、銃又ハ鎗を携て君側厳衛之備に為し給ふなり
   閏四月十七日出ル
    軍装制
 去月十三日被仰出候御軍制御作略御書付之内、兵器・陣服等之儀別帳図之通御制度御定相成候間、一統心得違無之様屹度奉守可有之候、尤器械・陣服共ニ士分以上ハ是迄之通自分用意可有之候、全備候ハ、軍務所へ可被相届候、御宛行無之子弟之面々へハ品柄ニ寄り御貸可相成之処、此度御作略ニ付而ハ莫大無量之御入費ニ候、御新調品々一時御全備も難相成御場合ニ付、乍御不本意御家中御貸具迄へハ俄ニ御力難被及候間、一統御場合恐察有之、可成丈ケハ父兄之助力を以て用意有之様可被致候
 (以下、細目及び図式略)
   閏四月                         軍務所総轄  」
16—18 万延元年遣米使節随行者ヨリノ書翰               一冊
�二月二六日付/松本八郎宛小野友五郎書状
  「安政七庚申年正月、牧野越中守家来小野友五郎義亜国江使節□船ニ乗組出帆之処、亜国〓左之書面、四月十五日講武所〓浜町中屋敷江相達、翌十六日松本八郎方江相達、但異国交易之船之者〓此書面受取候事」
�三月九日付/本丸火の番伊藤助左衛門伜〓文通
�二月一五日付/父為明宛佐賀医師川崎道民書状
  「サントウイス嶋〓親父方ヘ文通写、‥‥四月七日為明方ヘ遣ス」
�二月一八日付/外国掛同役宛刑部鉄太郎・日高圭三郎書状
  「アメリカ商船ヘ相頼箱館港江着、同所奉行受取、四月七日江戸ヘ着之由」
�二月一五日付/和吉宛森田岡太郎書状
16—38 録所聞                             六冊
 北陸(越後)戦争の戦場日誌。新発田戦記が二冊ある(一冊は下書か)。
16—40〜42 戊辰北陸道鎮撫総督軍従軍日誌一〜三            三冊
「 九月十七日〔自中鑓・至関川〕行程一里半余
 一、昨夜来夜行、暁八ツ前頃中鑓村〔此処〓間道嶮路江入〕着候処、加州兵隊・水戸兵隊共早ク着候処、半村焼失、残ル人家中軍并諸家充備ニ付村中ニ焚火野陣致被居候ニ付、吾兵も同様大道ニ火を焚長休息致ス
 一、拂暁加州・水戸・吾藩共漸々中鑓ヲ発、間道〓関川・雷村を向繰出ス、道路至難、道も無キ谷川を泝り、或ハ木ノ根岩角を伝ひ、千辛万苦也
 一、四ツ半時雷村江着、兵粮ヲ遣ひ、会議処江届之処、即刻左之通被相達
                           若州一小隊
     右急速関川江可繰出事
      但着陣之上ハ同所会議所ヘ可掛合候事
       辰九月                      中軍出陣
 一、別段左之通御書付被相達
         暗号
     花(ハナ)ト問  実(ミナル)ト答
         相図旗
     赤相印
      右ノ腕ニ二、三寸幅ノ白キ木綿ニテ結フ              」
16—44 長岡城戦争略記                        一冊
 「録所聞」と同形式の戦争日誌、七月二五・二六両日の記録、巻末に「以上廿七日迄聴処ヲ記」とあり。
17—2 公用留                             六冊
 小浜藩の公用留。慶応三年正月〜明治六年四月。廃藩後は酒井家にかかわるものに限定される。このうち、軍制にかかわる基本的な記事を書き抜いてみる。

�「(慶応四年二月、北陸道先鋒出張を拝命)右京大夫在京中召連候人数之覚
   惣人数二百参拾八人

       士分八拾人

     内 足軽五拾七人

       小者百一人

   ‥‥‥‥‥‥

    二月七日                酒井右京大夫内 福岡小源太 」
「同月十四日、左之伺書・人数書、‥‥海陸軍務局江差出之
   ‥‥付而ハ右人数凡一万石ニ何程之割ヲ以差出可申候哉

   銃隊・砲隊之外用捨之趣別段御達御座候、然ル処当藩先年来銃隊専修行為仕候得共、猶旧制ヲモ相用罷在候間、鎗隊等取交候而も苦ケ間敷候哉
    二月十四日                             」
 この時に提出した人数書には、銃隊士・鎗隊士共六〇人、足軽九三人、歩兵三〇人、持夫一三七人、又者三二人、ほかに医師および参謀酒井左京亮家来(銃卒一〇人・持夫二人・又者一人)を合わせ、総計三八九人と書き上げている。

「同月十六日、松尾豊前ヲ以、人数書之内鎗隊ハ相止メ可申、並夫方之者十分減候
 様御差図ニ付、即刻改テ人数書差出候処、御落手有之
    銃隊         弐百四十人
     内士分以上     弐百十人
    隊長司令士      弐十五人
    砲          四挺
    右司令・砲手共    弐十人
    輜重持等要務之者   六十三人
    夫方之者       五十人
    医師         弐人
           以上四百人                      」

 結局、「鎗隊」差出は中止され、また、さきの史料(9—22)にみたように、閏四月の藩制改革によって既存の番方は鎗・銃・砲の三兵に再編される。その主力は「銃鎗隊」となる。「鎗は廃止しない」という妥協の産物とはいえ、「遠間は砲戦」であることが確認されており、これは事実上の銃隊化であった。なお翌明治二年春に英国式が採用され、少なくとも二大隊が編成されていることが別史料から知られる。
 四月、荒銅を売却して小銃購入費にあてる。

「(五月一九日)軍務御役所江軍資金納左之通差出之
        覚
 一、高十万石之分
      納金三千両
        内金千両
  右は兼而被仰出候軍資金之内三ツ割一当五月分相納申候、以上        」
 端高三五五八石分についても納金一〇六両二分の三分の一(三五両二分)を五月一〇日に納入した。
「(五月二三日)軍務官ヨリ左之通御達有之
                             酒 井 若 狭 守
 兼而被仰渡候国元兵隊之内弐百五十人、京師御警衛トシテ早々可繰出旨御沙汰候事」

 この部隊は六月二日に京都に到着、同月二八日に岡部筑前守家来預り守衛のための人員を残し、兵二一八名は小浜へ引き揚げる。七月一三日、徴兵三〇名を差出す。兵卒の二五名は徒士格、一四番隊に繰り込まれる。

�「(二月一七日)外務省エ
                       小浜藩 井坂静太郎
 右之者横浜港居留米利堅海軍士官タウンリー方エ差越、英学修行為仕度奉願候此段御許容被成下度奉存候、以上
   二月十七日                 小浜藩公用人 河村 潜
  外務省御役所
  ‥‥‥‥‥‥
 即日御付札
  書面願之趣聞届候、洋船乗組之儀ハ神奈川県庁エ可申立候事         」
 七月一〇日、大蔵省へ軍資金三分一納一〇三五両二分を上納した。

�「九月廿七日、弁官ヨリ御達書二通
 今般藩制被仰出、海陸軍御定則被為立候ニ付、従前軍資金は九月納ヲ限り被廃候事
    庚午九月                       太 政 官
  海軍資金上納方之儀、年々十月中御蔵米平均直段ヲ以石代相場相立大蔵省ヨリ相達可申間、其年十二月・翌年三月・七月都合三度ニ割合セ上納可致候事
   但当午年十二月ヨリ上納之事
    庚午九月                       太 政 官  」
 一一月一三日、徴兵規則を弁官より達す、北陸道諸藩は四月二五日から五月一日の間に差し出すものとされる。
 明治四年正月晦日、一二月分の海軍資金7454両3分2朱・永20文のうち、4000両を上納、残額の納入猶予を願う。現石高60682.906195石に対し、海軍資割合高は2730.74石、この金額を三分の一宛納入するものとして、三月分が7454両、うち三月末の納入分は5000両、皆済は五月末にずれこむ。
五月二四日、徴兵差出の見合せが通達される。
17—9 小浜藩改革覚書                         一冊
 小参事山田藤内吉令。藩制改革関係の通達・上申の留。
 このほか、「酒井家編年史料稿本」(全七八五巻、付録二九巻)を閲覧し、文久期の農兵取立記事および維新期史料のいくつかについて内容を確認した。
六 黒羽町芭蕉の館(栃木県黒羽町前田九八〇—一)
 一一月二三日、黒羽藩大関家文書の調査を行った。幕末の当主増裕は、先代増徳(養子)が押込隠居に処せられた後に横須賀藩西尾家から養子に入った人物だが、洋式兵学にくわしく、幕府の陸軍奉行・海軍奉行・若年寄などを歴任した。黒羽藩校作新館の旧蔵本は現在も同町の小学校に保管されている。
337 御在府中公辺御案詞帳                       一冊
 慶応元年六月〜二年、鶴山参府に関する幕府への伺い・届け等を中心に記したもの。中に銃器の移送など雑多な届書もまじる。
「  覚
 一、十二斤ホヲト筒          二挺
    但箱入包切
 右は大関肥後守武器ニ而御座候、此度江戸湯島天神下屋敷〓在所下野国黒羽迄差送申候、千住宿御固所無相違御通被下候、為後日証文仍如件
                        大関肥後守内
  慶応元丑年十月二日                安藤三郎左衛門 印
 千住御固所
    御番衆中                              」
 江戸からの銃器輸送はさかんで、小銃二〇挺(11/15)、同二〇挺(慶応2/2/2)、同五三挺(2/28)、同二七挺(5/26)‥‥となっている。
「                       大関肥後守家来
                             宮 内 陶 亭
 右被召抱歩兵屯所付医師被仰付、御扶持方弐拾人扶持被下候間、其段可申付候、尤大砲組之頭可被談候
                        私家来
                             宮 内 陶 亭
 右今般被召抱歩兵屯所付医師被仰付、御扶持方弐拾人扶持被下候間、其段可申渡旨御書付被仰渡奉畏候、則当人江申渡候、此段申上候、以上
  (慶応二年)六月廿九日                大 関 肥 後 守」
347 藩債取調帳                            一冊
 黒羽県から明治四年九月二日に大蔵省へ提出したものの控え。
 藩債金五万三一七二両余のうち、四万二九二一両余は「明治三年午年ヨリ当未年迄ニ追々元方示談之上切捨」とあり、一三一〇両は「追々返弁済」、残りの八九四〇両余が債務として残っているとし、その内訳を報告している。このうちの三六〇〇両余は日光山からの借入金である。
イ67 異国船取計方御触達に対する返答延引届下書             一紙
「去ル天保十三寅年御触達御座候江戸海江異国船渡来之節警衛并防禦手当人数・武器、早速可申上処、武器等取調方不行届延引仕候、此段申上候、以上
                             大関肥後守家来  」
イ68 異国船渡来之節江戸有合人数武器届下書               一紙
「江戸近海江異国船渡来之節警衛并防禦手当被仰出候節、江戸有合人数・武器、左之通

 一、物頭                  壱人
    但、旗奉行兼
 一、大目付役                壱人
    但、使番兼
 一、普請奉行                壱人
    但、賄方小荷駄兼
 一、医師                  壱人
 一、書役                  壱人
 一、大工頭                 壱人
 一、勘定方                 壱人
 一、小頭                  弐人
 一、足軽                  廿六人
 一、中間小者                四拾人
  武 器
 一、纏                   壱本
 一、旗                   壱本
 一、鉄炮                  十五挺
 一、玉箱                  二荷
 右之通御座候、尤時宜ニより人数・武器増減之儀も可有御座候、此段御届申上候、以上
                           御   名
 (貼札)『普請奉行ハ馬ニ無之積
       物頭・大目付計騎馬之積』                   」
イ70 老中奉書
 五月二一日付、水野忠精から大関肥後守宛。常野両州賊徒取締の件。
イ329 下野黒羽藩軍装写真                       一葉
イ363 御願届留録 明治五年                      一冊
 大関増勤の洋行に際しての留守心得、同伴の小野梓・瀬谷小次郎の留学費負担等に関するもの。
イ367 小銃并器械取調帳 明治四年一一月、元黒羽県           一冊
「  元黒羽県兵器上納御届
 先般御布告相成候元黒羽県小銃并弾薬・付属品、別紙之通取調差出候ニ付、則致上納候也
   辛未十一月         宇都宮県権参事 岩 村 高 俊 印
  東京鎮台御中
 一、施条小銃                 三百九十挺
    但〔ケン 百九十二本、サーヘル 五十二本〕
 一、歩兵小銃                 六十六挺
    但、ケン 四十八本
 一、底装小銃                 二百十五挺
    但、ケン 五十本
 一、パトロン                 八万九千百八十発
    内 施条小銃弾              五万五千五百二十発
    底装小銃弾                三万三千六百六十発
 一、雷管                   八万五千三百粒
 一、タス                   六百四十
 一、ラントセル                十六
 一、洗毛                   百七十九本
 一、三ツ股                  二百弐拾四
 一、万力                   十五
 一、施条小銃弾型               十弐
 一、歩兵小銃弾型               二ツ
 一、六ツ道具                 十五
 一、玉取                   九ツ
 一、洗棒                   八本
  辛未十一月                          元黒羽県
 東京鎮台御中                               」
イ412 黒羽藩官員録 明治四年三月一二日                一冊
 大関増勤への賞典祿一五〇〇〇石
七 栃木県立文書館(栃木県宇都宮市塙田一—一—二〇)

 一一月二四日、黒羽藩家老滝田家文書(那須町沼野井在住、滝田馨氏寄託史料)の調査及び撮影を行った。主な史料の記載例をあげる。
イ632—2 公私用要手控 安政七年
(八月二日)
「一、安藤三郎左衛門下着、奥様御離縁御使廿三日ニ相勤、御挨拶兼而不行届恐入思召候旨、五月女三左衛門相勤候由、伺廿二日諸士江為御聞取候由、少々御書付之内差略致候由、尤公辺御届内有無之事、丸々無之積談遣候処、江戸ニ而入レ候方可然と評議ニ而、御内向之儀ニ付公辺江御届等無之段藪長三及演説候由、町奉行之席格〓徒目付迄三左衛門〓申談候由也、△乍御迷惑御政事向四、五年可被成御聞御隠居様御挨拶之由也‥‥」
(八月四日)
「一、今日御書付を以席々江為御聞左之通、尤両奉行以上壱役壱人ツ、昨日口上使差出置候也
   奥様御事兼而御不熟被為入、無御據此度御和談之上被為及御離縁候、此段可奉承知候
   一、御同方様御事御離縁被為成候ニ付而は、殿様御妹之御続きニ候、尤御含之儀も被成御座候ニ付、諸伺等惣而是迄之通相心得、以来御鉱様と御名を可奉称旨被仰出候
     申八月                              」
イ633 江戸立帰公私用要手控 文久元年
(四月二六日)
「一、殿様へ是迄不宜御次第共ケ条書を以去ル十五日ニ同役共一同揃候而申上、一切御取用無之、無據十八日ニ乍恐御座込申上候、右ニ付追々御養子御貰御隠居之御手続相成候段内密申上ル、尤旧冬右近〓右様可相成哉極密申上置候事也            」
イ743 修行中手控覚 文久三年
 滝田勝将の嫡男勝武は江戸へ出て洋式兵学を学んでいる。この修行日記もいくつか含まれている。
(七月一八日)
「一、小先生コロリニてひる時〓帰宅、大ニ下リ、‥‥死去」
(一〇月三〇日)
「一、歩操袖珍代料三朱、同大隊代三両、何れも上〓出候事
  一、小隊学・生兵学、何れも代料弐朱也、是又上ヨリ出、此四部之代料受取、休太郎・四郎両人之分迄受取、中ニ小隊学・生兵学之方講武所〓出候ゆへ未求不申、併先生江相頼置候間近日手に可入候、小隊学・生兵学代料金三分□□預り置事」
(一一月六日)
「一、小先生ツイセン調練有之、頭分計陣羽織着用、惣人数四百五十人計、屋敷〓見物ニ来ル、真野新太郎・同権七・秋元鉄之助・佐野勝次郎、都合四人也」
イ688 時用記 元治元年
(一一月一日)
「一、大沼将監〓早速屋敷江御用向ニ付出候様申来候ニ付、夜六ツ時塾出、屋敷江五ツ時行、大沼江出候処、水戸天狗共御在所江参るへき勢有之ニ付、早々御人数差下し候様御在所〓申来候、就而は御預り浪人御預替相願候、併浪人掛り之人々ハ御預替成不申候而は御下之ニ不相成、就而は貴様旁は浪人江掛り相は無之ニ付一先下り候方可然、相成丈急キ下り可申候様申渡され候‥‥塾江帰り候は四ツ時少々過也             」
(一一月二日)
「一、塾荷物片付早朝ニ出来申候、四ツ時々分退塾致候節、先生〓餞別として京都砂糖漬一袋ツ、并京焼千代久一ツヽ、外ニ先生哥一前ツヽ貰申候‥‥
   同年十一月廿五日出府、廿八日着、十二月四日入塾、夫〓認 」
116 大沼渉より滝田水月宛状 二月二二日
「一、東京近々諸藩兵隊出京相成‥‥御改革可有之義と被存候、未聢と不致候得共、肥前佐賀・筑後久留米・柳川等御疑心之次第ニ而、兵隊御差向可相成由極密承り申候、出所宜候間多分実事ニ可有之候‥‥」
125 口上覚
「   口上覚
 私儀門人共鉄炮為致稽古度奉存候得共、玉薬難及自力難渋至極仕候、依之御時節柄奉願候儀は恐入奉存候得共、何卒玉薬正ニ而も料ニ而も拝借仕度奉願候、此段御家老中迄何分宜敷御執成、御序之砌被仰達可被下様奉頼候、以上
   六月朔日                     秋 元 鉄 之 助
  五月女三左衛門殿
  小山新平殿
  渡辺速水殿                           」

 滝田家文書の撮影目録は以下のとおり。勤中日記および農兵取立関係の史料が中心である。
イ285  泰平諸国江戸新規御固付                    一冊
イ363  当時流行一ツト節                       一冊
イ364  農兵御出役御賄諸入用書上帳                  一冊
イ365  農兵姓名書                          一冊
イ366  峯岸・迯室両館野兵帳                     一冊
イ367  兵法学規則書                         一冊
イ632—2公私要用手控 万延元年六〜八月                一冊
イ632—1公私要用手控 万延元年二月                  一冊
イ633  江戸立帰公私要用手控 文久元年四・五月            一冊
イ634—1御病気御在邑中御用番留記 文久元年七月            一冊
イ634—2御病気御在邑中御用番留記 文久元年九月            一冊
イ634—3御病気御在邑中御用番留記 文久元年一一月           一冊
イ635  御用向留記 文久二年六月                   一冊
イ636  御用番手控 文久二年一〇月                  一冊
イ637—1公私要用留記 文久二年八・九月                一冊
イ637—2公私要用留記 文久二年八月                  一冊
イ637—3公私要用留記 文久二年一二月                 一冊
イ638  初出府餞別覚帳 文久三年六月                 一冊
イ639  御用番手控 文久三年一・二月                 一冊
イ640  御入湯御願御在邑御用向留記 文久三年六月           一冊
イ641  御入湯御願御在邑公私要用留記 文久三年八月          一冊
イ642  御病気御届在邑御用番留書 文久三年一〇月           一冊
イ643  御用番手控 文久三年一二月                  一冊
イ644  御触留 文久三年七月                     一冊
イ645  修行中手控(滝田勝将) 文久四年正月             一冊
イ646  諸手控留記 元治元年一一月                  一冊
イ688  時用記 元治元年一〇月一四日                 一冊
イ694  諸付届受取帳                         一冊
イ743  修行中手控覚(滝田勝将) 文久三年七月            一冊
イ744  兵学修行中小遣付込帳(滝田勝将) 文久三年六月        一冊
イ824  言上箇条書返翰                        一冊
イ825  御改革御沙汰書写                       一冊
イ908  掌中録 慶応二年四〜六月                   一冊
イ909  御家中廻状之写                        一冊

八 栃木県立図書館(栃木県宇都宮市塙田一—三—二三)
 一一月二五日、同図書館の黒崎文庫中の軍事書籍および風聞留の調査・撮影を行った。黒崎文庫は寄贈史料。原蔵者の黒崎家は旧安沢村(現矢板市内)の豪農として知られるが、詳しくは未調査である。安沢村は奥州街道から数キロ西へ入ったところにある。
 まず、幕末期の風説留について調査した。以下、目次のあるものはそれを書き出すものとする。このうち、○印を附したものは写真撮影をおこなった。
K210—34 文久襍記                        〇一冊
 文久元年五月〜九月の記事、東禅寺事件の風聞留。巻末の奥付に「元来江戸赤坂一ツ木町尾張屋清兵衛〓□□□ニ而買請、写置」とあり。
K210—68 文久紀聞 乾・坤                    〇二冊
 文久元年七〜一二月のもの。乾は諸大名の願・届と幕府の触達の類をとめたもの、坤は外国との往復書簡の写しの類。

K210—82 従弘化至慶応種々雑説集                  一冊
一、水野様羽州山形江御引越御城御引渡之事
  并遠州浜松江異国船掛り候一件
    水野様御引替りニ付百姓騒動之事
一、亜墨利加人之詩三枚
一、文久三亥年異国軍艦ニ付江戸大騒キ御触数条
一、江戸街の風聞
   并浪士御仕置其外種々之御触
一、長州公之御届
一、八州御取締〓御達向キ
一、大和国騒動之聞書
一、異国軍艦渡来之御触
一、落首之覚いろいろ
一、安政五午年暴瀉病流行ニ而死人夥敷ニ付、戯れ道行未来江ころり寝の文句
一、慶応二寅年摂州兵庫之打こわし一件、大坂同断
       甲州已下武州松山辺打こわし一件
一、慶応二寅年長防一条并栃木之町触
K210—99 元治記聞                         六冊
�初編 乾
一、長州勢騒立大坂詰〓報知之書状
   并行装書之事
一、六月廿五日早便之写
一、松平相模守〓問合之事
一、堂上方九家建白之次第
一、長藩〓朝延江差出候歎願書之長文
   并同断紀州家江差向候書面
一、稲葉閣老を以長藩江申渡候ケ条并答書
一、烏丸仲若町江張紙并大炊御門外両家江投文之事
一、在京諸侯名前之事
一、大坂広井〓来状之写、長州討手之姓名書
一、京都大火之略図添、飛脚屋〓之書状
   并定飛脚屋〓之書状
一、京都〓早打之書面写
一、中根一之丞江家督被仰出候事
一、三条所之御高札之写
一、於関東御触之事
�初編 坤
一、京都大変為知来状之事
一、京都大火神社・寺院并町数其外焼失里数・員数之事
一、八月朔日会津家〓同家江来状・別紙并討死手負姓名乃事
一、高橋某〓来状之写
一、長防御征伐御触諸大名姓名并攻口諸侯姓名の事
一、大坂御固津山家・高松家・保科家にて召捕捌候長州人名前并船中にて自滅之もの名前之事
�二編目 峯山軍記 乾
一、魁功名峯山軍記
一、二本松字介川攻届書
一、水浪降参姓名書
�二編目 峯山軍記 坤
一、栃木町浪士乱妨御届乃事
一、浪士追討之書付写
一、筑波山屯集名前書
一、井上筑後守侯〓御届之事
一、野州表官軍出陣之事
一、浮浪之もの役々名前乃事
一、九月七日来状合戦之次第之事
一、九月十一日来状之写
一、官軍強弱取組之事
�三編 上
一、子八月廿七日〓為見戦争日記
一、同九月十九日〓同断
一、同九月廿六日〓戦争乃事
一、同十月朔日戦争水戸殿諸生組討死手負
   并塩ケ崎長福寺に葬る戦士之事
一、同十月廿三日戦争田沼侯〓御褒美御沙汰之事
一、別段新聞神奈川開板中国戦争始末之事
一、長州下之関海湊〓報告之事
   并長州大守書翰訳文之事
一、九月十二日御役替之事
�三編 下
一、水府藩塙某囚中上書写
一、同外五人呈閣老書并辞世詩哥之事
一、御進発御触書之写
一、子十一月御役替之事
一、常州賊徒脱走ニ付閣老御渡御書付之事
一、甲州表御警衛被仰付候事
一、野州賊徒脱走信州路甲州路へ御取締之事
一、御関所通行御触之事
一、小倉三十偽家撰之写
K210—79 文久慶応雑話                      〇一冊
 表紙書込みにより各冊の全体構成がわかる。
「文久二壬戌年八月被仰渡 六通
 慶応元乙丑年
 同 二丙寅年
 同 三丁卯年
     是〓慶応記  三冊有之
     又 慶応雑記 壱冊
     又 慶応記事と成     」
 次に目次をかかげる。内容は文久二年八月〜慶応二年末。
一、公儀御礼日并御装束変革之事
一、乗切登城老人駕篭之儀ニ付御渡書付
一、御徒士御譜代被仰付之書付
一、諸役人供連減少之被仰出
一、寅二月御上洛可被遊旨被仰出候事
一、御上洛東海道御旅行ニ付御触
一、馬鹿か戯れか亜方か聞書
一、長防一件ニ付紀州家建白
一、長防御裁許ニ付歎願書并被仰渡数条
一、家茂公御所江被仰上之写
一、一橋中納言殿防長追討御名代出陣之被仰出
一、防長追討御供村上源之助之状
一、禁裡付御家来〓之文通
一、西国合戦之様子大坂〓来状 二通
一、熊本侯〓一橋公江之上書
一、防長一件石州口〓御届
一、長防士民中〓雲州公江送ル書
一、薩州留主居〓幕府江之建白
一、伝奏〓所司代江御達
一、諸侯隠居之噂書
一、御所〓被仰出候書付
一、長防追討供廻り野本新平〓之状
一、葛生〓防長歩役出候人〓之書面
一、小笠原喜平司〓届
一、花山院薨去ニ付鳴物停止之御触
一、御府内米売方被仰渡書付
一、御尊骸西丸江御着棺之御触
一、本所深川辺難渋人集り候御書付
一、湯殿はなし
一、毛利一家中芸州家ヲ以京都江出候書付
一、時世いろはかた
一、長州一条噂
一、五街道馬車可相用被仰渡
一、外国米之御触
一、横はま火事
一、外国学望候もの可罷出候書付
一、横はま火事、図所附
一、蝸庵先生聞識并大崎先生之詩
一、大樹公奏聞書写
一、伊賀守殿御渡書、弐通
K210—80 慶応記                         〇三冊
 目次なし。
K210—78 慶応雑記                        〇一冊
一、荒地其外御高入ニ可相成場所見分之御触
一、横浜表語学伝習志願之もの取調之御触
一、徳川玄同殿一橋家相続候之御達
一、硝石御自製場被仰出候御触
一、川々国役変革之御触
一、松平民部大輔殿清水家相続之被仰出
一、御軍製御改正兵賦金上納之御達
一、硝石御自製之再触
一、新帝御践祚相済御恐悦可申上御達
一、大関肥後守若年寄被仰付候書付
一、大行天皇御謚号
一、外国人江悪口其外妨致間敷之御触
一、御目見以上惣髪伺頭ニ而相済候書付
一、船便諸荷物商人荷至迄軍艦奉行ニ而取計可申書付
一、将軍宣下御昇進御祝儀惣出仕被仰出候書付
一、細川家小倉ニ而左京太夫と一手ニ相成防戦手立届書
一、小倉小笠原長州人之防戦心懸之苦心御届
一、戎服火事具御改正之御達
一、登城之節羽折下筒袖陣股引不苦達
一、先帝御葬送御達と長討兵解之事
一、水府浪士宇都宮御預ケ之人名
一、宇都宮様西丸御門番御免日光御名代登御達
一、百姓武芸相止メ可申御触
一、猪鹿威鉄砲ニ付御ふれ
一、兵庫是迄之御達取消之御触
一、大樹公御隠居被成度思召ニ付御内談御沙汰事
一、松平肥後守守護職御免跡上杉様之事
一、毛利宰相隠居同長門守相続御所〓飛脚被遣事
一、兵庫開港御触之事
一、三兵修行ニ付刀鎗鼓手之携候儀市中江御触
一、安政吹立弐歩判天保二朱金歩増之御触
一、酒造鹿沼宿三人江中川様宇都宮近村先江入札可致達し
一、宇都宮宿酒造御調石高
一、同歎願之書付其外右一条ニ付種々書付
一、伊勢両宮石清水春日社へ礼服着用不敬無之様御触
一、関所通し方変革之御触
一、御老中月番ヲ止メ総裁ニ而取計候御達
一、戸田様御奏者番寺社奉行兼帯被仰付候事
一、酒造高造人江戸差出候次第
一、戸田大和守様若御老中御辞退御所御取締之事
一、宇都宮酒造酒代上納被仰付候事
一、宇都宮御上屋敷駿河台ニ而被下候御達
一、卯酒造三分一造り之御触
一、兵庫開港ニ付金札出来候御触
一、市中三階之普請御免之御達
一、交易六ヶ国御聞済之御触
一、山城国禁裏江御貢献之御達
一、御軍役御改正知行高半減十か年金納可致御達
一、一橋様御事公方様と可奉称御触
一、江戸市中賊徒之風聞書
一、二條御城江勅使之事
一、御代替り巡見ニ付御触
一、蒸気飛脚船出来候御触并賃銀付
一、二條御城へ御移替御昇進御祝儀之御達
一、軍役御改正ニ付無実之労費相省候様之御達種々
一、〓江京本店〓書状、十月十一日京都騒キ之書抜
一、東海道筋都而神仏之御札ふり候様之書状之写
一、江戸外国人居留地規則之内ノ書抜
一、増上寺大僧正土屋家江御出駕之一条
一、大樹公於京都被仰出候書付
一、右御老中〓御達
一、御所〓被仰出候書付 二通
一、京都〓之書状、京地御固メ御大名
一、大坂〓書状、京都騒キ之取沙汰種々
一、江戸表御用金并金札之御達
一、宇都宮〓酒造新規御増高願之書付
一、五街道人馬賃銭割増御達之書
一、右ニ付宇都宮〓諸方江賃銭之定メ書
一、悪党九人宇都宮江立入同弐人召捕候次第書
K210.08—9 慶応記事                      ○六冊
 所々に本冊の成立に関する記載がみられる。以下に例示する。
(第一巻)「慶応三卯年十月ヨリ
       同 四辰年正月迄
        是〓前々とじ本ニ相成候本数之覚
         文久慶応雑話  一冊
         慶応記     三冊
         同 雑話    壱冊
         夫〓此度慶応記事ニ続キ
          二冊目近日五月中
           辰二月十二月
         慶応記事 六冊出来      」
(第二巻にはさみこまれた紙片)

「先達而差上候秘書文面之内、此度善書を得一読候所写誤御座候ニ付申上候大坂城江引取候後と有之所、○引取之旨趣と御座候
闕下を奉犯候勢現在と有之所、○勢現然たり左袵より兵端を開きと有之‥‥右御直し置被遊可被下候                                 」
(第五巻欄外の書き込み)
「此処□□□□迄ニ書取、不訳り之文字御推察可被下候」
(第六巻欄外の書き込み)
「此文重化ニも候ハヽ御取捨可被下候」
 さきの「文久慶応雑記」の書込みともあわせて考えれば、これらは、文久慶応雑記—慶応記—慶応雑記—慶応記事の順に作成された一連のものであることがわかる。また、特定の情報収集者の存在が知れ、内容から見て、宇都宮の町方の人間である可能性が強いようである。情報サークル的なものなのか、あるいはある種の業者なのかは検討を要するが、いずれにせよ当該期の北関東における政治情報に関する重要な史料である。

(第一巻)
一、日光御神領支配替被仰出之書付
一、同嘆願書
一、卯十一月中宇都宮ニ而盗賊討留候口書
一、右変死人見分書
一、出流山境内浮浪屯集一件風聞写数条
一、同連判状写
一、同被召捕候名前
一、所々散乱之もの討候之条々
一、新潟開港之御触
一、御鷹場改革之御触
一、唐太島出稼勝手次第相成候御ふれ
一、出流屯集之類賊御政治之御触
一、出流屯集之薩浪栃木ニ而討取候趣書状
一、薩州三田屋敷打払之一条江戸状
一、同御ふれ数条
一、京都之御沙汰書
一、大坂来状之内写
一、大津〓来状之内写
一、醤油・味噌其外取調之御ふれ
一、菜種油等他国江積送り致間敷御触
一、将軍職御辞退御聞届ケ之御達
一、市中悪徒取締之御触
一、関所通り方之御達
一、同通切手宇都宮町之雛形
一、将軍職御辞退被聞召候御達書
一、禁裏〓諸侯江之御達
一、同御変革ニ付御触数ヶ条
一、京都〓文通の写、江戸〓之状写種々
一、辰正月江戸町触
一、江戸表正月十五日迄老人子供引払被仰出噂

(第二巻)
一、辰正月五日御沙汰書
一、大坂ヨリ正月八日出之状
一、同九日出之状
一、江戸ヨリ正月廿一日出之状
一、正月八日京都ヨリ状
一、同四日京都之御ふれ
一、同六日同御触
一、戸田大和守様御家来松井良太郎直話
一、仁和寺宮様御詠
一、伏見合戦場之図
一、江戸八町堀ての字〓之文通
一、上様フランス江御渡海なとの風聞書
一、京都卯極月十二日出之状
一、同正月十日認之状、合戦之風聞書
一、京都之御ふれ種々
一、正月四日鹿島長右衛門〓状
一、同十一日出之状
一、同五日出之状
一、羽生御役所〓御達、組村江之御触
一、栃木八百新ニ而太平山参詣之物語
一、京都〓正月十八日出、栃木江の状、二通
一、御所〓御沙汰書
一、御征討御人数配り
一、正月十六日認、合戦之噂
一、宇都宮ならや支配人京都〓書状
一、江戸松田〓宇都宮江の状
一、御所〓被仰出、仙台家中之人咄
一、御所〓被仰出之書再写
一、正月十日認、大坂〓来状、附り征東宣旨
一、京都〓申来り候七ヶ条之噂、同悪口
一、世上之雑説
一、京都〓御触
一、三条御高札不残御下ケニ相成壱枚書ニ改ニ相成候文言
一、大坂市中江之御触
一、同御旅宿附
一、同屋敷封印附
一、三条御制札御文面をやわらけ市中江御触
一、同断
一、御追討御軍勢分ケ
一、中仙道御追討御下り之様子探さく書面、数通
一、尾州御家中之吉岡氏〓之書状
一、公儀之御触御屋敷方限りにて之御ふれ数条
一、一谷尾州様一藩江之御触
一、歩兵江戸出□迫り栃木通り西方迄探索書
一、江戸状数通

(第三巻)
一、一橋様御相続之御触
一、公方様薨御之御触
一、日光御神領御支配替一件数条
一、同一件之内
一、御役人附 三枚
一、出流屯集一件徒党ニ付御触、栃木〓書状
一、落書種々
一、江戸并新潟開市延期之御達
一、辰正月廿日上方一件ニ付江戸〓之状
一、正月十日大坂〓之書状書抜
一、正月十二日上様還御ニ付御在邑之重役御呼出之御達
一、変都之行    大崎氏述
一、御役人附并江戸見廻り之諸侯附
一、王政復古被仰出候御達
一、上様上野江御謹慎之御達
一、同奏問書
一、御変革ニ付屋敷其外取計方御達
一、辰二月十八日附江戸状
一、桑名降参之次第書
一、落書種々
一、京都〓御布告書御下ケ之事
一、右之條々之写
一、太平山御□主様御勅語之旨
一、歩兵江戸市中乱妨致候ニ付御達
一、金銀融通方ニ付御触、江戸市中不残
一、市中戸締りして出張之陸軍方賄受負の御達
一、同御受書
一、公儀所御取立之御達
一、一橋様御答聞書之再写
一、公儀所御開之御達
一、御布告書再写
一、京都御触写種々
一、同諸御役々名前附
一、松平之称号本姓ニ復古之御達
一、京都〓宇都宮藩岡田氏登京被仰付候事
一、宇都宮殿様御上京之御達
一、京都〓老人其外御聞之御達
一、勅使御回国御達しニ付宇都宮会所詰メ達
一、御巡国人数登御達数々
一、同巡国似役信州松代ニ而召捕候噂
一、上様御退隠御相続紀州様之旨内御沙汰
一、百姓町人ニ至迄見込有之候ハヽ可申達旨之御達
一、二月廿八日出之江戸状
一、同御役人附
一、禁中御渡書付再写
一、京店〓書状其外何も再写

(第四巻)
一、卯年八月因州公建白
一、辰正月京阪間の戦争起り御直達之写
一、同二月四日太政官代御軍勢掛り〓御渡之書付
一、同日江戸御白書院ニおゐて百石以下布衣已上江御達書
一、フランス・ミンストル〓建白書
一、辰正月廿五日桑名辺形勢聞書
一、銘々采地江罷越度との伺不及之旨御達
一、同断
一、常州笠間之聞書
一、有栖川御宮様御行列、江戸〓之状
一、佐野屋源六〓宇都宮荒重江之状
一、勅使御下向人数
一、上様御恭順御謹慎ニ付町ぶれ、二通
一、将軍并大政御返上無余儀次第之噂書
一、御布告長持通行之頃〓日増諸家様御下り風聞書
一、官軍先鋒と唱相下り候奸賊御召捕候之事
一、御恭順御達し書種々
一、フランス建白再書
一、万石以下江御達し再書
一、御はた本御家人唱物停止正月代止メ之御達
一、旗本衆江御達し再書
一、万民安堵し家業相勤候様長藩之ふれ
一、先帝御一周ニ付有栖川宮〓御ふれ
一、国中穢多惣代□□村幸右衛門願書
一、公儀所御取立之義再書
一、旗本家族勝手次第知行所土着之御達
一、御直上意之御達
一、御筋告書五通ニ附大田原役所〓廻状
一、順達村々附并流行唄
一、上州官軍騒キニ付諸所百姓一揆乱妨種々
一、江戸小網町なら屋の□廻りの人の噺
一、栃木辺噂種々
一、行田館林辺之噂
一、坂戸平弥始ゆうけきたい通行之噂
一、葛蒲町〓栃木金沢江之状
一、京地之風聞書いろいろ
一、上野瑞台院御内触
一、御勅使江戸近く御忍ニ付御ふれいろいろ
一、甲州郷民一揆之噂

(第五巻)
一、太平のはらつゞみ
一、慶応三卯十二月栃木の騒キ
一、同江戸町ぶれ
一、同薩州屋敷の騒キ
一、同十一月頃京都之取沙汰
一、同四辰年三月水戸天狗の噂
一、同三月頃栃木辺之噂
一、同江戸状写
一、太平山律僧様之御内話種々
一、慶応四辰春京伏見一条崩シ之御沙汰
一、同三月諸城合戦引続キ所々御沙汰
一、律僧様之御内話
一、諸城合戦見候もの之噺
一、辰四月所々打毀しの噂
一、江戸之噂
一、八木宿之騒キ
一、江戸近在所々噺
一、梅□詩鈔古仏之古詩
一、大崎先生雨窓漫吟
一、京都御沙汰数条

(第六巻)
 目次なし。軍防局達、民政裁判所布達など。
 次に、文庫中の幕末期軍事書籍を調査し、下記のものを撮影した。
K396—1『生兵教練書』 慶応三年刊、市川渡著、信天舎蔵版      〇一冊
K396—2『大隊教練』下巻  慶応元年刻、求実館蔵版         〇一冊
 「柘植氏蔵」の書き込みがあり、そのうえに貼紙で「大久保氏蔵」とある。
K396—3『小隊教練書』  慶応三年刊、市川渡著、信天舎蔵版     〇一冊

九 宇都宮大学付属図書館(栃木県宇都宮市峯町三五〇)
 十一月二六日、黒羽藩家老益子家文書の調査・撮影をおこなった。益子右近信将の御用日記を中心に、以下のものを撮影した。
127 御在邑中御用向留記   安政六年七月(痛みにつき後半不開)    一冊
128 御在邑中御用向留記   安政六年一〇月              一冊
129 御在邑中御用向留記   安政七年正月(痛みにつき不開)      一冊
130 御在邑中御用向留記   安政七年三月(痛みにつき不開)      一冊
131 御用向記        万延元年八月(痛みにつき前半不開)    一冊
132 御在邑中御用向留記   万延元年一〇月              一冊
133 立帰出府公私手控    万延元年一一月              一冊
134 御在邑御病中御用向留記 文久元年四月               一冊
135 御在邑御病中御用向手控 文久元年六月               一冊
136 御在邑御病中御用番留記 文久元年八月               一冊
137 御在邑御病中御用番留記 文久元年一〇月              一冊
138 御在府中御用向留    文久元年一二月              一冊
139 御用向手控       文久二年三月               一冊
140 御在邑御用向留記    文久三年九月               一冊
141 御在邑御用向留記    文久三年一一月              一冊
142 御在邑中御用向記    文久四年正月               一冊
143 御在邑中御用向記    文久四年二月               一冊
144 益子信将履歴覚書    慶応四年四月               一冊
145 下之庄御用出手控    慶応四年四月               一冊
146 御用向留記       慶応四年閏四月              一冊
147 白坂中野番沢棚倉戦争公私用要手控  慶応四年四〜六月       一冊
149 白川常宣寺御本陣鷲尾殿之御名代手控 慶応四年七月         一冊
152 御取締中陸奥国白川・菊多・磐城・磐前・楢葉郡郷村高付写      一冊
154 棚倉出張中御用向留記  明治二年一〜三月             一冊
155 御留守中御用向留記   明治二年四月               一冊
156 御用向留記       明治二年五〜六月             一冊
157 公私用要手控      明治二年一二月〜三年二月         一冊
158 御用向留        明治三年三月〜              一冊
159 御用向留        明治四年正月〜              一冊
160 御供登東京在勤中手控  明治四年八月               一冊
188 御沙汰事並自他用要向其外留記      元治元年三月〜      一冊
189 御直筆写並御触御改革ケ条席達等之控 元治元年三月〜        一冊

一〇 中津川市苗木遠山史料館(岐阜県中津川市苗木二八九七—二)
 十二月一三日〜一七日、苗木藩遠山家文書の調査・撮影をおこなった。
 幕末の藩主遠山友緑(信濃守)は、文久元年七月一五日〜二年閏八月二五日、元治元年一〇月一五日〜慶応三年六月一七日の両度、計四年弱にわたって幕府若年寄をつとめている。以下、史料内容および撮影分(○印)について記す。
27 幕府御親衛隊操練略式                       〇一冊
 長州御進発当時に構想されたものか。三兵隊と講武所隊が旗本の備えと組み合わされている。
90 公用帳写 慶応四年五月〜六月
太政官の布達類、苗木藩の届・願等の控えなど。他藩の留守居から廻された情報等を含む、基本的なもの。
190 江戸日記 八七(文久元年)                   〇一冊
 藩主の行動メモ。若年寄就任時の分につき撮影した。
「 十月三日  快晴
一、例刻登城、今日御月番対客無之、右ハ豊前殿初新銭座江川太郎左衛門調練場へ見分ニ罷出候付而也、豊前殿・和泉殿・出雲殿行分早退出、下部屋ニ而小袴・割羽織ニ着替、‥‥右調練場へ被越、大小砲銃隊見分相済候而‥‥」
「 十一月廿一日  快晴
一、公家衆御対顔ニ付、六ツ半時供揃、月並五ツ御太鼓打出候而登城、熨斗目・半袴着用、其後大紋ニ着替御対顔済、半袴ニ着替、退出〓同役一同伝奏屋敷へ罷越、八ツ時立帰申候」

 日記関係で撮影したものは以下のとおり。
188〜191 江戸日記八十五〜八十八(文久元年正月〜二年四月)    〇四冊
192 日記八十九(文久二年閏八〜一一月)               〇一冊
196 江戸日記(元治元年一〇〜一二月)                〇一冊
198 公私雑書(慶応三年一〜三月)                  〇一冊
215・216 覚秘録 一・二                     〇二冊

 藩主から在所へあてた直書、藩主あるいは留守居名で維新政府へ提出した届け・願いの類を留めた藩主の手元のメモ。慶応四年正月〜一一月。
218〜220 見聞秘抄                         三冊
 大目付触など、基本的なもの。
318 幕末維新留書(国事諸留書)                   〇一冊
 安政年間の風聞留、箇条書のうすい冊子。
「一、此度於京都ニ仰出候由にハ、西洋流砲術之儀於関東ハ専相用候得共、右ハ古来〓之流ニも有之、且又家々之用来も有之候事故相改ニ不及候、尤西洋流兼学之儀ハ不苦候、未ニ若狭守申渡候とか有之書付ありと或人いへり、虚実ハしらす          」
「‥‥清国之風説、『イキリス』清国広東・厦門於両処何か違犯之事有之、清国之官軍打払之候処、両所ニ而廿余艘迄ハ打砕かれ大敗致、已来清国へ来舶停止也と云り
   私ニ曰、実事ならは愉快之事也、或人の話ニ、『イキリス』人於広東敗北し、長崎へ来、手疵之養生致居候由聞けりと云り、是を以考ふるに、江戸へ来りし『イキリス』人も広東ニ而大勝利を得、勝嬌り来りと『アメリカ』人云りといひ、献上之蒸気船も勝利を得たる目出度船也と云へりと風聞せしハことことく偽り也、虚実はしらす、    」

331 参政中之書付                         〇一一通
 若年寄就任中の探索書・上申書の類。内訳は以下のとおり。勘定所のものは関東取締出役による探索報告である。
 � 風聞之趣申上候書付(文久二年八月、勘定奉行)
 � 京地探索之儀申上候書付(同上)
 � 上(同上)
 � 京地之風聞之趣申上候書付(同上)
 � 京地探索之趣申上候書付(同上)
 � 風聞之趣申上候書付(同上)
 � 風聞之趣申上候書付(同上)
 � 隠居料之儀ニ付再願書(文久二年一〇月、水野痴雲)
 �(銃隊稽古につき伺書)(慶応元年二月、小普請組支配)
 � 組之者心願之儀奉申上候書付(慶応元年二月、内藤隼人正)
 � 小普請入願
346 鍋島紀伊守直堯書状                       〇一通
354 中川修理大夫参府猶予方願書写                  〇一通
359 中川修理大夫久昭書状                      〇六通
599 謹上 富国強兵論                        〇一冊

 慶応四年四月、上総国武射郡眞行寺村眞福寺定金(当辰五六才)の建白書。弁事役所宛のもの。長文。僧侶の還俗による兵卒創出等、多岐に亙って兵卒給源と財源の創出法について説く。
「一、徳川将軍家麾下之侍〓為御軍役兵賦銃卒被成御取候、右麾下之侍知行之分米之内ニ而右御軍役可相勤処、地頭四分・百姓六分と申割合、千石十二人之割、一ヶ年兵賦壱人雇金五拾両ツヽ差出し申候儀ニ御座候、徳川将軍家慶喜公近来意外之入費連年打続候ニ付而ハ、不為得止事、為海陸軍備麾下之侍知行之内半高借上ニも相成候、且御政権被成御返上将軍職御辞退之上ハ、旧格古例等相廃候ハ勿論、格外之省略、日用之月俸十分滅略、不容易御時節柄ニも御座候、農工商各疲弊仕候中に、寺院僧徒計ハ□□を貪り、栄耀相続し、女犯肉喰種々御後暗キ所等有之、‥‥旧弊御一洗之御時節柄ニも御座候得ハ、各罪科御赦免、今般廃仏僧尼還俗帰農之勅法被仰出候様乍恐奉存候、‥‥皇国無益之遊民五十万僧還俗、皇国有益之農兵五十万騎を速ニ可生候、‥‥是則富国強兵之基と乍恐奉存候‥‥‥‥
 一、関東穢多頭ハ武州浅草弾左衛門と申候、八ヶ国之内所々穢多散在仕居候、是ハ牛馬猪鹿狗猫惣而獣類之皮剥製造仕候職人ニ而、去ル寅年防長御諫伐之砌は銃卒ニも被成御用候儀ニ候得は、有益之民と可申候‥‥  」
613 征長一件諸事留書                         一冊
 慶応元年七月〜二年六月。大目付触・長州藩の届書・諸隊の上書など、よく知られている情報の留。
679 尾州西洋流砲術図                        〇九枚
 銃隊図、大砲図など。彩色図。
844〜873,603 見聞雑書一〜三三(二六は欠番)        〇三二冊
 安政〜明治初年の政治情報を幅広く留めたもの。政局にかかわる事件に加え、ちょぼくれや狂歌など、市在の動向に関する風聞が含まれた情報留。全三三巻(うち二六は欠番)。ただし記事は必ずしも編年されておらず、テーマごとにまとまっている部分もある。各巻ごとの内容については、また機会をえて紹介したい。
930 見聞之儀申上候書付                       〇一冊
 慶応二年一〇月、軍目付梶清三郎による長州戦争の戦況報告(五月二八日〜九月一三日)。
931 長防探索書                           〇一冊
 幕府探索方の報告の写、「長防国内軍備并武役之事」に関する報告、ほかに薩摩の兵制、英国との関係、あるいは対馬の朝鮮政策に関する探索報告あり。
932 辰七月廿二日亜人対話書
 安政三年七月二二日、ハリスとの対話書
951『銃工便覧』(安政三年、林潤暉、肥州小城井上蔵版)        〇一冊
1208 外国記事                            一冊
 安政四年二月、老中書取(広東英人焼払‥‥)
 安政四年七月、老中書取(条約箇条の件、下田奉行へ達)
1220 王政復古布達留 一〜三                     三冊
 新政府の布達類をとめた基本的なもの、中に苗木藩の伺・届もある。一巻は慶応四年正月〜三月、二巻が三〜五月、三巻が五月〜一一月。初期の布達は京都留守居のネットワークで廻達されていることもわかる。
「以廻状致啓上候、然は参与御役所〓別紙御書付之通御渡、早々及御廻達候様被仰渡候ニ付、夫々御廻し申候、此段御承知御見留り様〓当方江御返却可被成候、以上

  正月二日酉□           分部若狭守家来 三 上 鷹 次 郎
 大関肥後守様  市橋下総守様  久留島伊予守様
 五島飛騨守様  土方聟千代様  大田原�丸様
 片桐主膳正様  此方様     建部三二郎様
                   御留守居中様
                   御用達中
  議定御役被仰付候            三 条 前 中 納 言
  参与御役被仰付候            東 久 世 前 少 将     」
「   覚
               遠山美濃守家来 徴兵
  〔剣術一刀流・槍術種田流〕          給人 東方為之進
  〔砲術荻野流増補新術蘭式・兵学長沼流越流・漢学〕
                      中小姓 福 田 一 也
  〔剣術直心影流・槍術宝蔵院流・柔術揚心流〕
                      以上徒士 水野伴之進
  右之通粗相学居申候得共、何も未熟之義ニ御座候間、此段奉申上候、以上
   十一月八日              遠山実濃守家来 陶 山 平 馬
    軍務官御役所                            」
 十一 金沢市立図書館(石川県金沢市玉川町二—二〇)

 一九九四年一月二五日〜二八日、加越能文庫を中心に金沢藩軍事関係史料の調査・撮影をおこなった(○印が撮影したもの)。
◆加越能文庫
16・23—15 公義御変革御書付等留                  一冊
 文久二・三年の横山政和による留、参勤緩和に関する閏八月一五日の上意達など。横山政和(政次郎、蔵人)は金沢藩家老(嘉永六年八月〜)、文久三年に小松城代、のち富山御用主附を経、慶応四年に御軍事方兼任、明治元年一二月に執政となった。
16・25—54 御親翰留 明治三年正月                 一冊
 縁組・家督相続・隠居等、家中からの諸願書の留。朱書で指示が書き込まれる。政治的内容はない。
16・28—195 上書集                       〇二冊
 �原題「風説雑記」/「四十六」
  慶応四年夏〜明治二年春の諸情報の留。
 �原題「上書集付録風説雑記」/上書集「四十五」
  幕府の軍事関係の情報をとめたもの。
  16・85—5の上書集(全五〇冊、うち四五・四六を欠く)の一部と思われる。
16・40—90 御用方手留付録(全七冊)               〇七冊
 奥村栄通(助右衛門、河内守)の手留。政治情報を留めたもの(『所報』二六号、宮地報告参照)。安政五〜明治三年。奥村は人持組頭、金沢城代、年寄役を歴任したが、元治元年一〇月〜慶応元年八月の失脚(遠慮)期間がある。
16・41—56 表方示談物覚
 横山政和。内用方の軍制論。
16・41—58 奥之間示談物等覚書                  〇一冊
 横山政和(政次郎、蔵人)。蒸気船購入一件の書簡往復等をとめる。
「長州殿蒸気船品川沖ニ碇泊いたし居候付、前月十五日聞番示合私見物ニ罷越申候‥‥、中々大成仕組ニ而不容易品ニ御座候‥‥右様大成品一覧抔ニ而とても考之付候義ニ而は無之、其上西洋学等ニハ又色々議論も可有之候へとも、先私切之了簡に任、序御内々貴所様御心得迄ニ御咄申上‥‥
                (文久二年一二月八日付、将監宛横山蔵人書状)」
16・41—66 御内々御尋之品等控                  〇一冊
 横山政和。軍制改革をめぐる議論の留め。
16・41—207 日省記                       二一冊
 嘉永三年一二月〜元治元年四月(間はとびとび)、金沢藩家老村井長在(又兵衛)の日記。御用番時代(嘉永三年一二月〜安政五年五月、のち元治元年七月に復帰)は箇条書の月番政務日誌、その後は御用番からの布達を留める程度で、日付のみの部分も多い。
16・41—212 諸事留帳                       一四冊
 嘉永六年〜明治三年、横山政和による御用留。触達が中心で、かつあまりくわしいものではない。
16・43—130 水上儀一覚書                    〇一冊
 慶応期の番士改革に関する史料。水上儀一は二五〇石、先手二〇数名と自分家来・小者をひきいる先手物頭。慶応期には砲隊頭をつとめた。
16・43—133 砲隊物頭就被仰付候諸事留               一冊
 慶応期に新兵頭、ついで砲隊物頭をつとめた高田省吾(三五〇石)の手控類。このクラスの藩士のものとしてはまとまったもの。
16・43—134 日誌
 明治二年九月二〇日〜一〇月二九日。中隊頭杉本成章のもの。藩庁からの布達類が中心、とくに軍事関係の記事は詳しい。
「(九月)御家中兵卒隊入之者於隊列ニ調練等有之節、是迄主人忌懸り之節出方相控候得共、以来相控ニ不及、併主家ニ不幸有之節ハ日数七日相控可申候事」
16・50—29 一組軍役内考覚書                   〇一冊
 横山政和。嘉永六年。嘉永年間の軍役備えに関する覚書。
16・50—57 御軍装方一件留                     一冊
 嘉永六年、軍役備え取り調べの一件ほか。
16・50—61 御軍装調理書                      一冊

 成瀬本、文久元年の軍役表。
「知行高 一、二百石                  御馬廻 布目多七郎
        人高七人 人夫三人 乗馬一疋 夫馬一疋・□取一人
        人数合十一人 馬数合二疋
           内
        一、主人   乗馬一疋・□付二人
           若党二人  槍持一人
           草り取一人 具足持一人
            〆八人 一疋                    」

16・52—82 京都御守衛御人数銃隊編成ニ付諸事留          〇一冊
16・53—5 御領内防備之為上書                   〇一冊
16・53—6 御親翰拝写示達下書                    二通
「‥‥中納言様段々被仰出之趣も有之、就中西洋新伝之利器御取用方之儀ニ付、文久度被仰出候趣も有之候処、‥‥昨年諸士一同筋入銃相用候儀被仰出候、其後上京之節上様御親諭被遊御拝聴候処‥‥」(『加賀藩史料』に収録)
16・53—8 村井又兵衛口上書控
「御親翰被成下謹而奉拝載候、先達而御軍制之義一統被仰出候通本邦之御軍法を本と被遊、且西洋之器械をも御取用宜敷品ハ猶又御取捨被遊御軍制之御一助と被遊度候、‥‥私義先達而以来小銃新造等も申付、稽古方等為仕候義先以行届不申義と奉恐入候、以後之義尚更相心得可申奉存候、尤小銃之義ハ御取用被為在候御趣意之御義御座候間、以後迚も是迄申付置候小銃等ハ相用申心得ニ罷有申候、此段被聞召置候様奉願候‥‥
(子)四月十一日                       村井又兵衛判 」
16・53—11 御軍制御改正之義ニ付愚存書              〇一冊
 安政四年二月、青山大膳亮家来山脇治右衛門の上申書。西洋流の採用や民衆からの銃卒徴募を説く。
「或人之説ニ、皇国之地勢英国ニ髣髴と仕候ニ付、兵制も概略彼国ニ相倣候ハヽ可然との由、‥‥
 銃卒之義は固有之同心足軽は勿論、農工商〓も相募習熟為仕置候は軍卒大ニ増加可仕と奉存候、‥‥」
16・53—13 〔西洋の軍制採用に反対意見書〕            〇一冊
16・53—15 西洋火術之義ニ付心付之趣御内達書            一冊
「西洋流挙用壮猶館等被為建置候御趣意奉恐察候儀乍如何左条ニ申上候、‥‥
 西洋流とて御挙用御座候得は御家之御流儀ニ而、則日本之兵法と可申候、‥‥西洋之軍律・兵器を御穿鑿被仰付、其学を講明仕、其術を錬磨いたし、彼が利器活法を御発明御座候而已ならす、猶又上々新発明をも被成候思召ニ可有御座候ニ付、‥‥      」
16・53—16 西洋火術之義ニ付達                  〇一冊
 15に同じ。亥九月。「金谷与十郎心附書か」とある。金谷建尚は御先弓頭二〇〇石。
16・53—18 砲術之義ニ付達                     一通
 早川徳三宛中島興山達書。砲術を「一統新流」に改める決定を通達。
16・53—48 〔歩砲大隊人員〕                   〇一冊
16・53—78 〔調練御覧等記録〕(部分)              〇一冊
16・53—80 弓炮三隊操練所図式                   一冊
 横山政和旧蔵本。嘉永五年、脇田尚方著。弓・鉄砲足軽の調練法、弓組一組と筒組二組で調練・行軍を行うもの。筒組は足軽二〇人・小頭二人・手替二人の二四人から成る。奥書に「右此年嘉永五年二月、三家之需ニ応シテ書記し畢、脇田伊世幾尚方」とあり。
16・53—87 流鏑馬并調練等記                〇一冊・五枚
 奥村栄通編、このうちに「安政四年九月、於東都鼠山下曽根殿門弟西洋流調練之次第・付図二葉」がある。江戸郊外の鼠山における下曽根門下の調練記録。
16・53—88 高島流砲術稽古業書等                 〇四冊
 小川権之助による記録。安政四年一一月、大森村地先の打場での砲術稽古参加者名簿が三冊。もう一冊は、西洋砲術業書。八月二五日、浜御殿海上での砲術調練の記録。総指揮は下曽根金三郎。
16・53—91 本藩雑記                        一冊
 文久三年の雑記録、軍制、調練記事等含むが、うすいもの。
16・53—92 御旗本御備押絵図等                二冊・三枚
 野村良旧蔵。文久三年四月二〇日の打木浜調練図。旗本備立図である。
16・53—101 英新式天覧私記                   〇一冊
 南保太郎吉の記録写。明治三年四月、駒場野大調練における金沢藩隊(英式)の記録。南保太郎吉一照は金沢藩士、小隊長をつとめた。
16・54—37 御鉄砲所御用日記                   〇二冊
 成瀬正居本。元治元年分。
16・54—38 御鉄砲所大筒并尺筒員致留(成瀬正居)         〇一冊
16・54—40 〔短エンピールド等購入之〕覚等            〇一冊
16・55—37 矢田村製鉄所一件                   〇一冊
 慶応三年五月〜明治二年一二月。鹿島郡矢田村製鉄所の御用地関係史料をまとめたもの。真館與四郎所蔵本の写し。
16・55—56 海防方留帳書抜                     四通
 文久三年の銃卒取立一件を含む。
16・56—54 海防方一件                      〇一冊
 加藤又八郎義成本。文久二年一二月〜三年三月、夫馬出方及び銃卒取立一件。
16・57—17 壮猶館御用隠密達留                  〇一冊
 成瀬正居(主税)本。金沢藩の軍制改革の拠点となった壮猶館の御用留。内容は項目ごとにまとめられており、一連の日記とともに壮猶館の実態を知る好資料である。成瀬は安政二年三月から三年七月まで壮猶館御用をつとめ(知行一五〇〇石)、元治元年に再勤している(寺社奉行兼務)。本冊は安政元年〜三年。
「(安政元年四月)去年八月作之進江西洋流砲術稽古方棟取被仰付、追々御用立候者出来候様配慮可仕旨等被仰出、且御家中等ニも追々□(上)達候者も出来候へ共、其師家も違ひ、故に何か相互ニ意地を立候様之趣相見江候旨等、尚亦第一御藩中一和不仕而ハ万一之節何か不都合御用弁ニも相成間敷等之儀被仰渡候‥‥今一編詮議方も無之哉之旨被仰渡候‥‥
  一、海岸防禦方ニハ火術可為専要、故に近年於公辺四芸同様西洋流砲術相学候様被仰渡候由粗承知仕候、依而於御国右公儀被仰渡之御主意を以御家中之人々西洋流砲術四芸同様心懸候様品能被仰渡候ハヽ可然奉存候                    」

16・57—18 壮猶館御用達留(成瀬正居)              〇一冊
16・57—19 壮猶館御用日記(成瀬正居)              〇一冊
16・57—20 火矢方役所壮猶館へ打込被仰付候一件(成瀬正居)    〇一冊
16・57—21 斉勇館規則(木版)                  〇一冊
 「坂府兵学校御規則ニ模擬シ相定候大綱」の原題あり。明治三年に開設された金沢藩の士官養成学校の規則書。
16・57—43 〔壮猶館へ稽古ニ罷出候人々届方等〕          〇一冊
16・57—44 壮猶館砲術稽古書                   〇一綴
 安政三年五月の成瀬主税・横山内蔵助上申書など。
16・57—46 壮猶館規則留抜萃                   〇一冊
 成瀬正居本。文久三年七月、海防方年寄よりの達など。
16・57—47 壮猶館御用雑記(成瀬正居)              〇一冊
16・57—48 壮猶館雑記(成瀬正居)                〇一冊
16・57—49 壮猶館大筒員数留并弾数(成瀬正居)          〇一冊
16・57—50 壮猶館大砲弾丁                    〇一冊
16・57—51 〔壮猶館并御鉄砲所御用日記〕元治二年         〇一冊
16・57—52 〔砲術稽古ニ付伺書〕                 〇一冊
16・63—115 諸事御用留(一のみ)                〇一冊

 安政〜元治年間、羽咋郡の地方へ対する布達留。異国船渡来の際の手当・詰人、銃卒稽古、京都守衛のための強壮人夫徴発の件などがある。

「(文久三年三月)
 一、六千五百五拾人 御郡御手当人夫
     内六千八拾人 御蔵所等詰人数
     内弐千八拾人 強壮之者  三千八百八拾人 一ト通之者
     〆残四百七拾人 一ト通り之者        文久三年三月調理
  ‥‥‥‥‥‥

 一、羽咋・富来ニ而五拾人宛銃卒稽古仕揚候上、又五十人宛新タニ稽古済ニいたし、畢竟ハ御在住一ヶ所ニ三百人宛出来候様‥‥
「(同五月)
 一、銃卒稽古所規則書‥‥壮猶館教師之教を守可申、稽古筒教師〓時々可相渡、済候ハヽ可相返‥‥
 一、御縮方厳重相心得雑ケ間舗義無之様銃卒身元之者江は御手当銀不被下、小前之者へは稽古出座毎一日弐両宛之図御手当銀可被下‥‥
  ‥‥‥‥‥‥
    銃卒撰方規則
 一、町在乃至五拾人より両三人宛‥‥、
   五尺以上之者十七才頃〓三十才位迄‥‥                 」
16・76—21 加賀藩所轄兵庫製鉄所始末               〇二冊
 明治二年〜六年代。
16・81—771 軍術叢談                      〇一冊
 渡辺庸旧蔵本。仏式調練のノート。
16・81—769 船中打筒之図                     二枚
 「ボート」から「カノン」を打つ図、下曽根金三郎の名があり、16・53—88の浜御殿海上の調練図か。
16・86—19 講武所銃陣号令語等                  〇一冊
 講武所西洋銃陣号令語、安政四年九月下旬於東都鼠山下曽根殿門弟西洋流調練、御老若方御見置有之図并巳九月四日七日於鼠山調練隊列、中隊図式
16・86—24 大坂兵学寮ニ関する御手留抜書             〇一冊
 明治二〜四年、大坂兵学寮の金沢藩関係部分を御手留から書き抜いたもの。窃盗や欠落記事あり。金沢藩の「入塾者」は明治二年一二月で六名、三年正月に二〇人となっている。
◆河野文庫
95・26—13 〔兵学に関する図説集〕                〇一冊
95・14—35 御仕与力留 嘉永四年〜明治三年            〇三冊
95・26—43 大砲御用留 弘化三年〜嘉永元年            〇一冊
95・26—72 壮猶館稽古方留                    〇一冊
 河野文庫の内容については『所報』二六号、宮地報告を参照のこと。河野久太郎は安政三年五月、壮猶館西洋流砲術師範となっている。
◆蒼竜館文庫
203—54 Reglement op de Exercitirn en Manoeuvres van de Infanterij.Bataillons School の Tweede Stuk
       一八三一年版                       〇一冊
◆村松文庫
21・3—195『壮猶館歩兵稽古法』                  〇六冊
 木版、文久三年刊。生兵の部・小隊の部・大隊の部(上・下)・諸陣の部・散兵の部からなる。「筋入筒」段階のもの。
◆南保文庫
090・88—1 御軍装要用                      〇一冊
 安政年間の軍装一件、手引的にまとめられたもの。
十二 熊本大学付属図書館(熊本県熊本市黒髪二—四〇—一)
 二月一四・一五日、永青文庫中の熊本藩軍事関係書籍および史料の調査をおこなった。
103—5—8 『仏蘭西軽歩兵程式』大隊教練第五編上           一冊
102—40—47『仏蘭西軽歩兵程式』大隊教練順序・令言図解       一冊
 明治二年一〇月、田辺良輔雅好訳。巻末に全巻の構成が付されている。

  一、新兵体術書           全一冊
  一、令言図解〔生兵・小隊〕     全一冊
  一、同   〔撒兵〕        全一冊
  一、喇叭符号            全一冊
  一、小隊教練の部          全一冊
  一、撒兵教練の部          全一冊
  一、大隊教練順序・令言図解     全一冊
  一、大隊教練の部          全二冊
  一、生兵教練の部          全一冊
 これらに「千八百六十七年式元込銃教則」を毎冊に増補して添付するとある。

103—16—1 重訂『英国歩兵練法』                 一八冊
 慶応三年五月、薩摩蔵版。赤松小三郎訳。一八六二年式に六四年四月の改正を加えた英国官版の翻訳。第一編〜第七編、全九冊。このうち、一〜六(三と四は上下分冊)が二セット一六冊、七と図解が一冊づつある。図解のみ青表紙(他は朱表紙)なので、元来は別物。製本所は鹿児島下中町吉田源左衛門と大坂心斎橋通安堂寺町秋田屋太右衛門の両書林。
13—3—9 京都大坂長崎探索書 慶応二年八月              一冊
 第二次長州戦争関係の探索情報がほとんどを占めている。このうち、幕軍の駐留経費及び見積り等について報じたものを以下にあげる。

「 御進発ニ付於浪花表御入用之方大凡
 一、金三百拾五万七千四百四拾六両余
    御進発被仰出候節〓御進発途并大坂表江御逗留中丑九月〓寅五月中迄、御供向御手当金・旅扶持方石代金
 一、金百弐拾壱万九千六百五拾両余
    寅六月より同十二月中迄、御進発御供向御手当金・旅御扶持石代金其外口々御入用凡積り
     但一ヶ月金拾七万四千弐百三十五両三歩余也
  御進発御入用壱ヶ月積り
 一、金五万三千七百九拾九両余
    御供之向御手当・雑用金、職人其外手当共
 一、金弐万八千七百七拾両余
    四百俵以下旅御扶持方石代渡分
 一、米弐千八百八拾八石六斗五升余
    金三万七千八百五拾九両三歩余
     御供方粮米其外品々渡御入用分
 一、金壱万三千八百七拾両余
    御陣器其外御道具類新規・御修復其外品々御渡入用
 一、米千五百拾九石三斗八升余
    金四万両
     芸地粮米御用金之分
 本ノマヽ
  小以 米四千三百六十八石三斗余
     金拾七万四千弐百三拾五両三分余                  」
「備前侯より黄門江被差出候書付写
   ‥‥‥‥‥‥

 一、御兵制御変革ニ付而は、元より深キ思食も被為在候儀とは奉存候得共、或は洋風ニ御心酔被遊候か人心疑惑を生し、終ニ小事よりして御大路相障候様之儀ニ至候義難計奉存候間、猶被為加思慮度為存候
 一、練兵之儀当世之御急務ニは御座候得共、於洛中炮発等致候時は被為対朝廷如何可有御座哉ニ奉存候間、此辺篤御斟酌被為加度為存候
   ‥‥‥‥‥
    十一月                   備 前 守 」
「一、陸軍兵士京都野外七、八里之場所ニ而差障無之方江罷越業前練習仕度段申上候処、‥‥全山野渓間嶮岨之地ニおゐて進退軍動ゐたし度、御奉行江懸合候所、砲発・金鼓無之候へは差支之儀無之候得共(山陵・公家領等との問題がないか問い合わせよと指示されたが、結局別紙のように実行したい云々)
   十一月           陸軍奉行並 松 平 若 狭 守
                 歩兵奉行並 蒔 田 相 模 守
   大津辺  伏見辺  東山辺
   太秦辺  鞍馬辺  愛宕辺
    右之通
     十一月                              」
「小橋恒蔵より指出候書付写
     姓名不知
 御軍制御改正仏国伝習御開ニ相成候付而ハ、陸軍三兵不遠して成功ニ至り、御軍備御厳整之儀は勿論ニ御座候得共、獨砲兵は尚未タ御全備ニ至兼候半、野砲隊ハ御整可申候得共、此而已ニ而ハ城砦之攻守・海岸之防備全闕遺仕、有事之日ニ至、或は不練之兵卒・不具之器械を以不得不戦之儀も出来仕候半歟、兵類之中各有区分、就中砲兵之区分は関係甚大ニして今日之御急務と被存候、蓋砲兵之職掌は他之実ニ比較仕候ハヽ事甚多端ニ渡候事故、士官之学術も諸科ニ交渉不仕候而ハ相整不申、下長・伍長之勤向等迄も親見聞不仕候而ハ不分明之件々余多有之候様奉存候、幸ニ今伝習御開之折柄に御座候得は、騎炮隊・城炮隊・海岸砲隊等被遊御取立、其役々之者へ遂ニ伝習被仰付候ハヽ御軍備益充実仕候半、且又役々之者各其職掌之外他顧不仕様相成候ハヽ成功之程必速ニして、仮令才力不及人者御座候共相応御用立可申哉、此迄之通城砦之攻守・海岸之防備皆同種之人員被遊御用候而ハ、士官之職掌徒ニ多端ニ相成、或は先後失席之事も御座候様奉存候、炮兵御区分ニ相成候ハヽ、当時常備之兵ハ配合之多寡も相定候事故必別ニ人員不被遊御定候而ハ御軍備充実仕兼候半、然ニ他日諸学校御興立ニ相成人才成立迄は今之士官御選用ニ相成候ニ付、門地爵秩之御都合も可有之儀ニ御座候得は、蒙命之後修行不仕候而は相整申間敷と奉存候、然ニ士官と兵隊一時ニ被仰付候而は兵隊之所為は甚易、士官之職掌は甚難く御座候へハ、必兵隊况熟之後尚士官中ニは職掌未熟之者も御座候半、然る時は兵士其事之難易を不弁して士官を蔑視仕候族も出来仕候半、左候ハヽ自然法令不行臨時誤事可申哉、付而は凡城炮隊・騎炮隊等之役々被遊御選定、御役名被下置、夫々修行被仰付候ハヽ可然哉、尤修行相整候迄は全予備之人員ニ被成置、御手当・扶持等一切被下置、唯衣服類ニ而も少々充賜り、専其職事修行仕候様被仰付候ハヽ各其目的相定候事故、必日夜勉強仕、互ニ成功之期を競ひ可申哉と奉存候、右役々之中伝習ニ御差遣ニ相成不申向は、砲兵局・騎兵局等ニ而夫々修行仕、其余は専書籍上ニ而致研究、取調出来仕候件々ハ一々之を業前ニ施し、無用之空論ニ不陥様仕、可成丈ハ翻訳を不仮して原書を取扱候様相成候ハヽ容易全隊相整可申、且御軍備御充実之一端とも相成可申哉と奉存候、然共右等は定而御成算被為在候御事と被存候得は、懸蒙之簡見諭等而申上候儀奉恐入候得共、乍恐当時強兵御専務之折柄御闕典之様窃ニ奉存候付、罪戻之程忘却仕聊陣螻蟻之誠‥‥、頓首百拝
   三月                            」
14・23甲1—60 塩硝土取方ニ付御達                 二通
「白塩硝製方ニ付而、御国中家々床下土取方之儀御天守方〓懸合有之候ハヽ異議無之様との儀、嘉永度一統及達置候通候処、其後代替等ニ而右之趣不承知之面々も有之候哉、間々は故障申出候向も有之様子ニ相聞候、塩硝製方之儀は御軍用要用之品、当時切迫之急務ニ付、弥以異議無之様、尤右取方之節家居之障ニ不相成様仕、手方之者共心得筋之儀は此節一際厳重之及達候、此段一統為達旨御条‥‥    」
文2—3—21 明治三年記録諸伺                     一冊
 熊本藩時代から白川県・熊本県時代(明治三〜六年)のもの。藩・県と区戸長間のやりとり、民政面のものがほとんど。
「    覚
                          黒 田  仕
                          山 田 一 雄
 右両人先年従東京連越、昨春譜代之家来願相済候処、御変格被仰出候ニ付暇差出候筈之処、去ル八日両人共為扶助米弐拾俵充被下置候段軍事掛大属〓達之相成申候、私長屋ニ差置申候間御支配ニ御差加可被下候、身分之儀は矢張士族ニ可有御座哉、奉伺候事
 三月十三日                    清 水 九 郎
                      留守支配 山 木 八 郎
 松 山 繁 殿
 ‥‥‥‥‥‥
   軍事掛しらへ
                          山 田 一 雄
                          黒 田  仕
 右は旧幕之兵隊ニ而仏式ニ長シ候者共ニ付、清水九郎東京より連下り、扶持ニ相成居候処、既ニ旧臘帰郷相企候節御止ニ相成候付、其儘ニ差置候而は難相済御座候間、為御扶助毎歳二十俵宛も可被下置哉
  ‥‥‥‥                           」
 熊本藩では、明治二年冬に一季居の帰郷整理を行ったが、その中にはこのような旧幕歩兵出身の者もあり、藩はこれに扶持を与えて引き留めている。前者への返答は「士分之取扱ニ而候」であった。
文1/3—11 諸隊調                          一冊
 熊本藩諸隊を構成する兵卒の出自・履歴がわかる史料。「小銃二十番加賀山権十隊」から記載事例をみる。
「一、七石弐人扶持      当代小銃隊 山地太次郎 十八才
  実父山地儀左衛門儀二丸隅御裏御料理人被仰付置、慶応四年三月病死仕候ニ付、稽古扶持として壱人扶持被下置候処、御改革ニ付、依願明治二年七月外様足軽ニ被召抱、切米七石弐人扶持被下置候
 一、七石弐人扶持      当代小銃隊 北村徳次郎
  実父北村養節儀北村甚九郎育之士席浪人ニ而罷在候処、天保四年十二月高宮熊平と申者〓被為殺害候ニ付、嘉永七年二月於南郷右仇熊平を仕留メ、其後猶浪人仕居候処、北村甚九郎依願、明治二年外様足軽新参別録ニ被召抱、切米七石弐人扶持被下置候
 一、七石弐人扶持      小銃隊 坂本正五郎 二十九才
  文久二年十二月、竹細工箸用之由ニ而弐人扶持被下置竹細工人見習ニ被召抱、明治三年七月切米七石弐人扶持被下置小銃隊ニ被召出候」

一三 佐賀県立図書館(佐賀県佐賀市城内二—一—四一)
 二月一六日〜一九日、佐賀藩鍋島家文庫の軍事書籍および関係史料の調査をおこなった。
991—1160『和蘭官軍歩操軌範』初編
 安政二年、膺懲館下曾根氏蔵版、牧天穆訳・下曾根敦閲
 �生兵教練部  一
 �生兵教練部  二・三
 �生兵教練部  四・五
 �百羅屯教練部 六
 �百羅屯教練部 七・八
 �百羅屯教練部 九・十
 �和蘭官軍歩操軌範図解 完
991—1161『和蘭官軍歩操軌範全図』
991—1162『和蘭官軍歩操軌範全図』
 いずれもさきの�と同じもの。
991—1163『歩兵運動軌範』小隊教練編 一・二            二冊
991—1164『歩兵運動軌範』大隊教練編 一〜四            四冊
 安政四年刊、縄武館蔵版、石井修三訳。小隊教練部が第二編、大隊教練部が第三編にあたる。一八五五年式。
991—1165『歩兵運動軌範』大隊教練編 一〜四            四冊
991—1166『歩兵運動軌範』小隊教練編 一・二            二冊
991—1167 和蘭官軍歩操常銃軌範下編 抜隊龍教練二〜一二     一一冊
 写本、巻一を欠く。
991—1169 海軍手銃取扱之範軌手控                 一冊

 小銃(雷管式ゲベール)取り扱いに関する操練書の写し。随所に通詞を介しておこなった「セルゲアント・ヤコブス」との質疑応答が書き込まれており、長崎における海軍伝習の際に筆記されたものと思われる。一〜一三五章。
「(第四〇章)○ペレトンス=ヒュール
 第三列ノ人而已『イン、デン、アルム』ヲ成ス、『ロッフル』ノ命令ニテ打止ヲ成シ、『スラプ、ヲップ、トロム』〔実ハ鼓ヲ打ツ〕ノ命令ニテ第三列ノ人架肩銃ヲ成ス〔原書中第三列ノ人ノ字無シ、併シ現在我ガ伝習スル処、『ロッフル』ニテ第一列・第二列ハ打止ヲ成シ、直ニ架肩銃ヲ成ス‥‥〕
 (第九七章)‥‥『スコードルト』ノ命令ニテ右掌ヲ以銃ヲ鉛直ニ立ツ〔『ヤコビュス』云、右掌ノ小指ヲ銃身ニ当テ、銃ヲ前ニ押シ上下鉛直ニナサシム可シ〕」
991—1194『白鹿屯学校図式』                    一冊
 安政二年刊、膺懲館蔵版。七五の操練図と簡略な解説を加えたもの。冒頭に調練にあたっての基本的な定義が添えられており、参考となるので以下に要点をかかげる。
 ・白鹿屯(ペロトン=小隊)の構成/教師一、号令官一、諸職下長一、設幾窒号令官一、左嚮導一、後拒二、兵士四八人を要する。  ・銃列/三列構成とし、第一列は身長大の兵士、第二列は小、第三列に中を配置する。列の間隔は一尺とする(我国の曲尺一尺三分七厘である)。
 ・歩法/一歩は彼国の二尺であり、我国の二尺七分四厘である。歩法は、一分に七六歩を「常足」、一〇〇歩を「急足」、一二〇歩を「攻襲火急足」とする。
 ・砲発/砲発は一分間に三〜四発とする。第一列は水平に、二・三列はやや下向き方向に発砲する。
991—1246 新兵・隊列・陣列教練指揮語               一冊
 手写本、蘭式の号令詞。
991—1306『格能弗答古知幾』初編・二編               二冊
 慶応二年刊、木村宗三訳。一八五三年版クノープの戦術書。一巻根元答古知幾と二上巻適合答古知幾。
991—1307『仏蘭西答届智幾』一〜三                 三冊
 慶応三年刊、達理堂蔵版。村上英俊訳。的〓那隈原編
991—1309 三兵新書 巻二・四                   二冊
991—1310 三兵新書 巻三                     一冊
 手写本、巻二〜四のワンセットのものの一部。ミュルケンの書を肥前の小出光義が訳したもの。三冊で四八章〜一九九章の部分。三冊目の奥付に次のようにある。
「右、早田先生之継テ命ヲ雖モ写之ヲ、急テ不能顧誤落ヲ、志君子各看テ之ヲ補助ヲ以テ必ス其罪ヲ許シ給エ
   元治二乙子仲春             金 原 則 宜 写」
991—1418『砲術新篇』                       五冊
 慶応二年刊、静修堂蔵版。山中敬叟訳・川本幸民閲。四・五/六/八/九/一一・一二の五冊のみ。一二巻は図解。
992—612『仏国軍法規教兵家必携』一〜三               三冊
 明治二年刊、柳田氏蔵版。柳田如雲訳。仏国の原著を一八六四年に米国レンジーが米語訳したものの再訳。
359—13 軍国御備御仕組一通 慶応二年 御仕組所           一冊
「慶応二年寅八月九日、以御年寄被相渡候御書付
  当折柄ニ付而は、従来之典格ニ不拘、諸般非常之以仕組富国強兵之基本相立候様可被致者也
  右は最前河内殿・志摩殿被為召御直ニ被遊御沙汰候ニ付、御書付を以被仰下候様両人〓申上相成候末被差出候旨                          」
「時勢柄責而御蔵入有米之内米三万石位は年々別段御軍備之筋ニ被御引分置候半而不相済ニ付‥‥」とし、諸書省略策を出す。内容は各役所定員の半減、諸寺社祭礼・法事の半減等々。
351—9 慶応四年辰二月御仕組帳                    一冊
 「御出陣御仕組」と内題があり、供回りの人員・武器等に関する規定。貝、先立、御側筒、玉薬箱、御馬廻近習‥‥、総計一六二人、ほかに雑夫五〇人・駄荷馬二〇疋、近世的な編成規定である。

351—6 兵員録                            一冊
 内容目次は以下の通り。
一、常備壱番大隊役々并兵士・兵卒人員
一、同 弐番大隊同断
一、同 三番大隊同断
一、同 四番大隊同断
一、同 五番大隊同断
一、予備壱番大隊同断
一、同 弐番大隊同断
一、同 三番大隊同断
一、斥候隊兵員
 常備大隊(壱番大隊)の構成は次のとおり。
  大隊長(一)、副大隊長(二)、伝令(五)、同属吏(二)、同使卒(六)
  器械幹事(一)、同録事(二)、同属吏(二)、同下吏(二)、器械工(三)
  輜重幹事(一)、同録事(二)、同属吏(二)、同下吏(二)
  大砲隊/司令(一)、副司令(二)、各砲司令(四)、照準(四)、砲士(二〇)、砲卒(一二)
  一番小隊/司令(一)、副司令(一)、小司令(二)、嚮導(二)、兵士(七〇)
  二番小隊・三番小隊/一番小隊と同じ構成
  四番小隊/二等司令(一)、副司令以下は一番小隊と同じ構成
  五番小隊・六番小隊/四番小隊と同じ構成
  医師(八)
 各大隊の隊長名は以下のとおり。
  常備一番 大隊長鍋島市佑  副大隊長石井平九郎・原田□之助
  常備二番    鍋島孫四郎     田村乾左衛門・(欠員)
  常備三番    鍋島孫六郎     浜野源六・(欠員)
  常備四番    鍋島守五郎     成島彌六兵衛・(欠員)
  常備五番    乾一郎殿      古川喜平次・(欠員)
  予備一番    伊豆殿       原次郎兵衛・(欠員)
  予備二番    田中五郎左衛門   重松善左衛門・(欠員)

351—12 明善堂・香焼島詰・精煉方・砲術并火術方・三重津海学校・蘭学并英学寮
                                     一冊
 各機関の来歴を書き上げた編纂物。「御年譜」や「松乃落葉」からの引用を含んでおり、明治中期のものか。
351—7 御火術方・長崎伝習                      一冊
 天保一四年五月に御火術方を創設して以降、慶応年間までの略史を編纂したもの。天保一五年五月には、志波(左伝太)と羽室(平之丞)を下曾根金三郎へ入門させ、蘭伝砲術の皆伝をうけて御火術方稽古人に取り立てている。

「(嘉永五年九月)
     当時御火術方砲術御相伝相済候人数調
       侍   七十九人
       手明鑓 五十五人
     火術両組惣人数調
       平士本人 百九十二人 外ニ忰・孫五十九人
       手明鑓同 二百十人  外ニ忰・孫八十四人
       足軽同 百三十五人  外ニ忰・孫・後見七十四人
       支配足軽 二百六十人 外ニ忰・孫・後見百三人
         〆千七十七人                       」
 安政五年正月一九日付けで長崎伝習の「課業式日」の書き上げがある(『松乃落葉』巻三に収録)。

023—41 内密書付并聞合書 慶応二年 御仕組所            二冊
 長州戦争の各藩の戦況報告、江戸での諸種の情報、幕府人事に関する詳細な報告をとめる。
「今般西洋滞留中、彼方諸生之噺或ハ閻巷之風説等日本之事ニ係候儀は心を留承候に、兎角日本を悪様ニ申は十ニ七、八ニ而‥‥承候儘を録上仕候
 方今欧羅巴州にて英吉利・仏良西・魯西亜・プロリセン・テネマルカ等皆文明之政事ニ而、相互ニ定約を押立、信義を以相交り居申候、然れとも其政府々々之内情は相互ニ□□狭ミ、若交際之間ニ定約ニ背き信義を失の国あらハ猶予なく討伐して其国を取らん事を望ミ、英吉利・仏良西・魯西亜は其意甚しく、仏良西政府ニ而は英国を亡さん事を希望する故に英国之過チを見出し、之をケ条に取り罪せんとの企をなし、英国之仏良西ニ於而も又同様也、魯西亜も日本にてハ信義之国之様ニ唱へ候得共、日本・支那を取らんと欲するの内情は又なきにしもあらす、然し一度定約を取替したる上は罪なきに其国を伐ツ事能はす、譬へハ魯西亜ニ而も英吉利にても私ニ日本を討んとする時は仏良西・亜米利加等より日本ニ応援して其妄伐之罪を正すへし、故ニ各国と交を結ふには、国之富強大ニ拘らす只信義を失さるを以て主とす
 ‥‥各国交りを結ふに一度信義を失ふ時ハ一日も其国立かたく候、然るに日本政府ハ外国人江対し信義を失ふ事度々にて、加之動もすれハ鎖港之談判にも及、故ニ日本政府今之通ニ而は永続無覚束、誠に薄氷を渡る姿なりと一般之風説ニ御座候
 ‥‥亜米利加のシヨンソンと云ふ者に巴理府ニ而逢し時、同人の話に、英吉利・仏良西の両国ハ頗る日本を取らん事を希望するの模様なり、夫故ニ、今薩州は幕府に背き内々に事を計り、討幕の企をなす事を英国にては能く承知するといへとも、之を知らさる体ニて、薩州人等英国ニ至り諸器械及ひ軍艦を求、或ハ諸学術伝習抔するのも懇切ニ取扱ひ置て、夫を幕府ニ何之沙汰も不致又幕府ニも懇切ニ相交り、此節横浜ニおゐて日本より海軍・陸軍之伝習を頼候処、蘭・仏争ふて伝習せん事を望めり、人ニ物を教に相争ふて教の理なし、是皆英・仏日本をなつけ、終には吾か為となせんとの遠謀なり、又今幕府と薩との間之事あらハ、其勝敗之模様ニより、必す勝利之方ニ応援すへしと話申候
 ‥‥‥‥
 右之外、諸人の談話・閻巷之風聞等日本の事ニ関り候事件、前文に大同小異、別ニ録上仕候程之事承り不申候、以上
   慶応二年寅三月                   岡 田 摂 蔵  」
 岡田摂蔵は柴田日向守の渡欧使節に随行したが、その役割やその後の消息についてはさだかでない。

「                        寄合水野国之助足軽之由
                               佐久間勘吉
                             米 山 平 吉
                             小 田 友 吉
                             吉 田 太 吉
                             青 田 善 吉

 右は昨十四日暮六時過、於新吉原五十間屋抜刀乱妨候付、見廻家来共捕方致手当候内逃出候間、追駈、同所并浅草田町ニ而召捕申候、於田町捕押候節先駈之者被組敷、無余儀善吉江為手負申候、右之者共今暁町奉行井上信濃守方へ引渡申候、此段御届申達候、以上
  (慶応二)十一月十五日            酒 田 左 衛 門 尉  」
355—25 大小銃製造録                        六冊
 明治三五年に編纂されたもの。編者は長森敬斐。「松乃落葉」とともに『佐賀藩銃砲沿革史』の最も基本的な引用史料になっている。長森はほかに「内外台場改策始末」も編している(本史料はその後コピーにて収集済)。

�(目録)御台場其外諸組渡藩用一式
  (緒言)「一、此巻分テ四種トス
        一、藩用ノ大小砲銃鋳造
        一、公儀及ヒ諸藩ノ依頼鋳造
        一、公儀エ献上ノ鋳造
        一、鋳造ノ実状及ヒ発射試験
       一、引用書目
          閑叟公御年譜 鍋島可雲日記 本島藤太夫日記〔松ノ葉〕兵動忠平手控 谷口弥右衛門手控
         右ノ外口碑ニ存スルモノヲ加記ス
          明治卅五年四月         長 森 敬 斐 謹記 」
�巻二、公儀并ニ諸藩御頼
�巻三、献上銃
�巻四、鋳立并ニ試発
�巻五、鋳立并ニ試発
�巻六、鋳立并ニ試発
 巻六には、大砲鋳造に動員された鋳物師の名前があり、これは『沿革史』では省かれている。
「(嘉永五年一〇月五日)十五貫五百目御筒御鋳立相整候ニ付、番子番割左之通朝五ツ半時ヨリ吹始、昼八ツ時無事ニ相済候
 一、一番 東ヨリ一ノタタラ          頭取 〔長世町〕  源 吉
    吹高二千斤                   〔同〕    甚蔵
      内、銅〓・ 錫                 〔伊万里川東〕忠蔵
                                 ‥‥‥‥ 」
 以下、六番まで、各台に九〜一〇人宛がついている。次に、大砲鋳造の見積書を例として示す。
「(嘉永六年)同年十一月今又唐銅七貫二百目御筒三挺鋳立被仰付候ニ付、左之通積出ス
  唐銅七貫二百目御筒三挺、重五千三十斤ツヽニシテ鋳立入具積
  一、銅一万九千三百五十九斤
  一、錫二千百二十九斤四合九杓
  一、白炭千九十五俵
  一、番子年間二千六百二十五人
     食賃正銀九貫五拾六匁弐分五厘
  一、タヽラ踏三百三十六人
     賃同六百七拾弐匁
  一、土砂・縄・藁其外
     代同壱貫拾四匁
  一、細工道具修理竹木
     代同壱貫弐百六拾目
  一、真金一丁新出来
     代同五百五拾目
  一、鉄定金三丁
     代同百八拾匁
   〆正銀拾弐貫七百参拾弐匁弐分五厘
      内残地金二千百斤
  右ノ通丑十一月出ス                           」

355—6 諸控                             一冊
 安政三年、谷口弥右衛門提出の積書。「薩州献上軍艦ニ備ル大砲注文ニ付、積書并ニ百五十ポントノ積書諸控」

355—7 公儀御用石火矢鋳立記                     一冊
 安政四年、谷口弥右衛門の日誌。
「一、同十月廿三日〔六番御鋳立〕三十封度ミツテルカノン為御試、生石灰入ニテ御鋳立相成候
  但、中村奇輔殿存寄ニテ橋新其外相談ノ上ナリ、本島殿エ相談候
   暁七ツ時ヨリ火入始、明六ツ半頃迄微火、夫ヨリ段々猛火ニテ鎔掛、暁七ツ半時頃相済、尤皆以鎔不申候得共鋳立相整申候‥‥
 一、同十二月廿三日、三十六封度御鋳立
   ‥‥暁八ツ時ヨリ火入始、明六ツ半時皆鎔シ、四ツ半前辺ヨリ開口、九ツ時相済候
   鎔至極宜敷候得共、四番爐中頃より爐土沢山流レ落候故大困り申候事」
355—8 御献納ほう録                         一冊
 「谷口鋳立記」、安政六年のものか。一五〇ポンド砲の鋳造記録だが、記事は簡略なもの。
355—16 両島新御台場御備大砲鋳立記                 一冊
 嘉永四〜安政三、鋳物師頭谷口弥右衛門真敬によるもの。「鋳造記」の巻六の原史料か。
355—23 手覚                            一冊
 伊王島・神島に設置した大砲のデータおよび試射結果について記したもの(慶応三年)。「兵動」本。
 359—6 備忘録                           一冊
 慶応二年、兵動本。大砲鋳造の積書等のデータ。
 939—1 達帳 明治三年/家事職                   一冊
 奥向き、家政関係の触達が中心のもの。軍制関係の記事は少ないが、次のようなものを留める。
「強兵御仕組之儀、先年来毎々御□出相成候得共‥‥、隊数余計ニ有之候迚練兵精密之場ニも不相至、‥‥八大隊之内更ニ四大隊ニ御編束相成、都而常備被仰付儀候、尤減隊之内余員之兵卒は予備卒ニ被命、常備之欠員ニ被相備置事
   午正月廿九日                             」
252—56 白帆注進外国船出入注進                   三冊
 丸尾山の見張番所からの報告日誌。長崎沖を通行する船舶および入出港の船舶に関するもののほか、長崎近辺での風聞等を報知する。船舶図(着色)が添えられいる。
「(万延元年)十一月二日、‥‥フランス大蒸気軍船入津有之、左図ニ記ス(前頁)、千本松辻〓外切方相成申候
 同八日、観光丸戸町前繋置申候
 同九日、朝観光丸〓朝日丸引入、其後引出申候、フランス大軍船出船有之
 ‥‥甲斐守殿家来重松雄蔵・大木幾太郎・柴山秀雄・古賀七郎次、大浦ニ而英人と喧嘩有之、其後公儀之篭ニ被召入
 同廿五日夜、茂木村凡七百軒出火有之                    」
316—18 長瀬町竃帳 嘉永七年四月                  一冊
 反射炉のそばの職人町(一四〇軒、七二〇人)の人別帳。間口・宗末・職・身分(誰々家来など)・年令・住人名を記載する。鋳物師・鍛冶・鍛治細工の存在が知れ、このうちに谷口清左衛門(三八才、久米次左衛門殿組職人)、谷口弥左衛門(三七才、鍋島新左衛門組)、岡崎利左衛門(五九才、吉村治兵衛殿組足軽)などの鋳物師がいた。他町にも同様の竃帳がある。
069—1 外船製造ニ関スル書類                     一冊
 安政二年四月二八日の写し。戸田村での露船製造に関する情報ほか、薩州軍船の話題などを留めたもの。
「一、ロシア製造船為見置戸田村被差越置候愛野忠四郎扨又大工棟梁其外、四、五日已前罷帰、当今於御屋敷極手細之雛形拵立居候‥‥」(安政二年三月二九日付、原田小四郎宛田中善右衛門書状)
069—2 船製造其他之件                        一冊
 戸田村での露船製造に関する情報を報知する書状の写し。
 ・安政二年三月九日、原田小四郎・徳永伝之助宛田中善右衛門書状
 ・同二月二二日、田中善右衛門宛愛野忠四郎書状
 ・同二月二九日、同
309—37 請御意下 元治元年一一月〜慶応二年八月/御備立方      二冊
「此通
  今度長州御征伐ニ付被遊御出馬候付而は、旧冬出勢之節左之通被仰出置候得共、廉々御潤色下付紙之通被仰付方ニ付有御座間敷哉

  一、合図之儀貝一色ニ仕候様之事
    (付紙)『合図之儀金皷・貝相用候様、尤太鼓は和太鼓・蘭太鼓取交相用候様』
  一、主従人数之儀三部一役ニ而出張仕候様之事
    (付紙)『此通』
  一、大組頭は小身たり共主従八人充、不足之処は分過夫被相渡候事
  一、組頭は小身たり共主従五人を下にして、不足之処は右同断
    (付紙)『組頭は小身たり共主従四人を下にして、不足之処右同断
         但従者皆以分過たり共、壱人ハ手之者召連、此壱人三拾石之
         内ハ粮銀被相渡候事』
  一、平士は小身たり共主従四人を下にして、不足之処は右同断
    但従者皆以分過たり共、壱人は手之者召連、此壱人粮銀被相渡候事
    (付紙)『平士ハ小身たり共主従三人を下にして、不足之処は右同断但右同断』
  一、手明鑓は主従弐人にして外ニ夫丸被相渡事
  一、小組之者江は四人間ニ夫丸壱人充被相渡候事
    (付紙)『小組之者江は五人間ニ夫丸壱人充被相渡候事』
  一、大組頭士組代之儀は乗馬候様、其外は自分ニ乗馬候儀は心次第之事
  一、諸組使番は其組々ニ而届合候、半は成丈乗馬之事
    (付紙)『此通』
  一、諸手江目付壱人充被相付候事
    (付紙)『此通』
  一、組々人数之儀凡半高壮強之者相撰、先以出勢いたし候様
    (付紙)『組々人数之儀撰兵之□を以十八才〓四拾五才迄先以出勢いたし候様、陣代人之義も同断』
   右奉伺候
   被遊御下候由ニ而、慶応元年丑閏五月十一日御年寄原田小司郎殿〓相良宗
   左衛門江被相渡候」
「此通(慶応二年五月二七日下)
  今度長州御征伐ニ付而大炮組被御繰出候付而は、大銃之儀先以左之通持越候様被仰付方ニは有御座間敷哉
  一、三封度山戦銃 四門
  一、十二拇忽徴砲 一門
  一、同臼砲    三門
  一、十二封度短砲 四門
  一、十二拇線銃  二門
   右奉伺候                               」

「此通(慶応二年七月二日下)
  今度長州御征伐ニ付撒兵隊被仰付候者とも簡便之仕組を以最前主従弐人充ニ而出張仕候通奉伺置候処、立切主従ニ而は小荷駄運送等届兼可申ニ付、弐人□ニ夫丸壱人充被差出候通、偖又手銃之儀ヱンヒールト銃相用候様、就而は不用意之向は大身たり共御武具方□□之内〓ハトロン共ニ被差出度旨御出陣方〓相談候‥‥             」

309—38 請御意 慶応三年/御仕組所                 一冊
「此通、尤八太郎儀は見合候様被仰出候     卯五月廿一日下

  英学伝習として長崎被差越置候左之人も、仏学稽古として横浜転遊被仰付方ニは有之間敷哉
                           大 隈 八 太 郎
  左之人義同断‥‥
                           久 米 丈 一 郎
  右廉々御吟味之事                            」

「上                     卯九月七日印
  御備立方を初メ御火術方・御船方・御鋳立方・精錬方等之役場ニ而は、洋書等取調に相成候半而不叶義ニ候処、局々ニおゐて原書〓稽古相成候義迚も致兼可申ニ付、御家中之内凡三十人程も蕃学専門ニ被仰付、右之内課々を分チ、研究其局々ニは訳書ニ而時々引付相成候通被仰付方ニ可有之哉、於然は右之人数長崎表遊学等被仰付候半而不叶之処、諸式高価之折柄不募御入費も可有之ニ付、深堀辺江蕃学所被相建、教導之異人一人長崎在留之姿ニシテ御雇切相成候半は一体之教方も綿密ニ行届、御費用之筋も別而御弁利可相成ニ付、其通被相決方ニ可有之哉、於然は先以異人御雇之義公辺向如何之御都合共候哉御聞繕相成方ニは有之間敷哉、御吟味之事                       」
「                          卯九月十八日下
  亜人フルベッキ御雇之儀‥‥、表向は長崎表居留之姿ニシテ、月ニ二十日計も深堀遊歩之姿ニシテ致居留候様有之候半は、御差支無之義ニハ有之間敷哉と御相談可仕候、尤其上ニ而も被成兼候御模様あらは、右之趣今一応以急便申上候‥‥         」
「(一二月一二日)当節亜人御雇入長崎諫早屋敷ニおゐて蕃学稽古所被相建候ニ付、左之人々詰方被仰付方ニは有之間敷哉、‥‥                    」
「 後込小銃之義機巧種々有之候付、右之内最良器、ハトロン之製作便・不便等‥‥吟味いたし申上候様被仰出置、然処去冬英国御注文之内スヘンセル銃五百挺持渡候付、於火術方試験相成候処、別紙之通放発神速ニ出来、ハトロン之義は雨中水気を請候憂も無之、旁弁利之筒候段達心相成候、付而は先以手明鑓以上則納・年賦等外紙之通ニシテ、拝領買被差出方ニは有之間敷哉、猶又スナイトル銃八百挺之義今度長崎来着‥‥、何れ最良器之吟味仕申上候上、猶被遊御賢慮役目筒之御定可被仰出哉ニ付‥‥          」
「  口達                  卯九月廿七日
  スペンセル手銃打試之儀被相達、的前等相試候処、放発至而神速ニ出来、第一躬筒其外之製作等上品ニ有之、且銅製パトロン之儀は雨中水気を請候憂も無之、旁弁利可然、尤手入等大形ニ而、後部繰出し鉄具等錆付候様之儀有之候ハヽ用立兼可申歟ニ相見申候、此段致御達候、以上

    卯九月                    御 火 術 方
       拝領買則銀納年賦納之割合
  一、弐百石已上               則納
  一、右已下、百石迄             弐ヶ年
  一、右已下、五拾石迄            五ヶ年
  一、右已下、三拾石迄            拾ヶ年
  一、右已下、弐拾石迄    但弐部通出切  拾五ヶ年
  一、右已下、拾五石迄    但三部通右同断 弐拾ヶ年
  一、右已下、九石迄     但四部通右同断 弐拾五ヶ年
  一、右已下、五石迄     但五部通右同断 三拾ヶ年
  一、右已下         但六部通右同断 右同断           」

 一一月一四日付伺書では、スペンサー銃四五〇挺が家中拝領買に回され、五〇挺は「御手廻御用」となったが、不足であるので一〇〇〇挺を追加注文すべきだとある。
309—100 請御意 御年寄手許 明治元年               一冊
309—103 請御意 御仕組所 明治二年                一冊
 藩内の人事関係記事が主なもの、とくに内容はない。
◆蓮池鍋島家文庫
991—237『英国歩操図解』                      二冊
 慶応二年刊、高槻肇蔵版。高槻肇訳、英国一八六二年式。
991—238『英国歩兵練法』                      三冊
 慶応元年刊、下曾根稽古場蔵版。赤松小三郎・浅津富之助訳。英国一八六二年式(一八六四年補正)。このうち、生兵小隊・大隊運動一・図解のみ。
991—239 重訂『英国歩兵練法』                    八冊
 慶応三年刊、薩摩蔵版。赤松小三郎訳。第五編を欠く(七編まで、全九冊)。「薩州軍局」の印あり。
991—249『仏蘭西軽歩兵程式』                    九冊
 明治二年八月官許の印。田辺良輔訳。仏国一八六三年式。第三編〜第五編は明治以降の翻訳。第一・二編(二冊)/第三編/第四編(二冊)/第五編上(二冊)/大隊教練・令言図解(二冊)の計九冊のみ。
「  仏蘭西国歩兵程式緒言
一、慶応二年日丙寅、官仏蘭西国の陸軍官員十余名を招き教師と為し、歩騎砲三兵の士官をして其学術を伝習せしむ、余も其頃歩兵差図役頭取たりしを以亦歩兵士官の員に加り、共に此に従事し、小銃の操法及び体術より入り、百般の運用動作を学び、又傍ら其歩兵訓練之書を訳するの命を蒙り、朝には剣を提て兵卒を練り、夕には筆を把りて仏文を訳し、刻苦一年余今茲に其稿成り、未だ校完に至らすといへども、今日の急務なるを以て忽卒梓に上し、歩兵・士官練兵の所用に供す
  ‥‥‥‥‥‥
  慶応三年丁卯十二月
 此書の第三編より第五編大隊教練の部、今訳して全部の書と成る、今又校の不足を正し、看官の為に稍々注を加へて以て翻刻し、余が訳するものと共に教場に備へんことを謀る、即明治己巳八月廿九日
   官許を得梓に上すこと爾
                             田辺良輔雅好復識 」
991—250『仏蘭西令言図解』                     一冊
 慶応三年、養素亭蔵版。田辺良輔訳。仏国一八六三式、生兵号令詞。
991—251『海軍銃卒練習軌範』前編                  一冊
 安政三年刊、宇和島文庫。村田蔵六訳。和蘭海軍一八四八年式。
991—252『海兵操範』手銃編初編                   一冊
 安政三年刊、安達尚徳蔵版。安達訥尚徳訳。原著は一八四八年刊行の「海軍兵器操法」。一関の伊藤敬の序文あり。

◆副島文書(副島万氏寄託史料)
029—1 京坂注進状 明治二年一〜四月
029—2 京坂注進状 明治二年五月〜三年一月
029—3 京坂注進状 明治三年四〜七月
029—4 京坂注進状 明治三年七〜八月
029—5 京坂注進状 明治三年一〇〜一一月

 原蔵者副島万九郎は小城藩士で、幕末には佐賀詰役をつとめ、維新後は小城藩庁史生として公文書の整理・書写にあたったという。ただし、いずれも在京藩主の動向や布告類、人事関係等が中心で、政治的な中身はとぼしい。
一四 対馬歴史民俗資料館(長崎県下県郡厳原町今屋敷六六八—一)
 二月、府中対馬藩宗家文書中の軍事関係史料の調査をおこなった。
 日記類Ac—2—2 毎日記 文久三年
「(三月一七日)方今攘夷切迫之御時ニ付而は、何時争戦可相成も難計候処、充実之御守衛直下ニ可被届様無之、去なから勅諚御遵奉之上は何分力之限不被相尽して難計候得は、銃器之備・玉薬之鋳造・火縄之製作等、此場可出精旨月采女より左之口達書与頭江相渡
 攘夷切迫之時勢銃器之備等専一之儀ニ付、玉薬之鋳造・火縄之製作等競而可令出精候、此方御家中之面々江向寄可被相達候
右ニ付御家中之内有志之面々於御場城内銃器・鉱薬之鋳立・火縄之製作等取計、左之面々御実備方令周旋候様被仰付候
                        三 浦 守 衛
                        鈴 木 □ 母
                        高 瀬 靭 貞
                        高 瀬 繁 三 郎
                         ‥‥‥‥‥‥       」
「(元治元年二月朔日)御軍用周旋方〓左之通伺出候付、付札を以相達
 大小砲御張立方之儀‥‥於大坂表御注文之分今程成就之分は便宜御国下取計、其余は先ツ相見合候様可及示談趣旨被仰達、奉得其意候、然処‥‥元来小人数之鍛冶を以為張立罷在候儀ニ御座候得は、十分出精為仕候時一ヶ月両御役所ニ而凡拾挺位外出来相届不申程ニ相及候得は、只今之姿ニ而は先ツ拾七ヶ年程を経不申しては全備ニ至り不申、素り此先キ追々鍛冶御召抱ニも可相成候得共、即今天下之形勢を以ハ、他領〓御雇下抔と申儀は容易ニ相届候儀共不奉存、‥‥大坂御注文之分御見合方之儀、一旦御治定之上なから猶又御再拝御指揮被下置候ハヽ、大砲方遂熟談何分御急便之通出精仕度奉存候‥‥
   正月                      御軍用方周旋方    」
「付札
 見届候、多数之御不足何分急調無之ハ難叶筋ニ付、一旦治定之所も有之候得共、於大坂別段仕繰相設、是迄之通調送方相達越候間、猶御実備方可致有精力候
   二月朔日                       年 寄 中   」
与頭関係B—16 大小御筒御在合高帳 文久元年五月 御鉄砲方       一冊
 文久元年五月段階で対馬藩が所有する小銃・大砲数の書上。種別に砲数と所在内訳が記されている。旧式砲がほとんどだが、青銅砲の一部は新式(洋式)なのだろうか。また、百目筒三挺・鉄一〇匁筒一一挺・四匁筒一〇挺は「朝鮮江被差渡候分」とあり、倭館に備えられていたことがわかる。以下に記載例をかかげ、また種別に砲数のみをまとめておく。

「一、百目九寸鋳筒弐拾九挺
      内参挺  遠見御番所貸
      同拾挺  御郡奉行所貸
      同弐挺  炮術家江貸之分
      同拾四挺 御矢倉ニ有之                     」
  唐金五百目筒 五挺        鉄二百目筒  二挺
  百目九寸鋳筒 二九挺       五寸鋳筒   三六挺
  三寸鋳筒   五挺        三寸五分鋳筒 一挺
  一寸九分鋳筒 一挺        五寸五分鋳筒 一挺
  鉄百目七寸筒 一挺        百目筒    九六挺(唐金15・鉄81)
  九〇目筒   一挺        五〇目筒   一六挺
  三〇目筒   六挺(唐金2・鉄4)二〇目筒   三挺
  鉄一〇匁筒 五八挺        唐金一〇匁筒 二〇挺
  四匁筒    四五五挺      鉄二五匁筒  一挺
  鉄三百目筒  一挺        唐金一三貫目筒五挺
  唐金六貫目筒 三挺        唐金三買目筒 一〇挺
 日記Ac—2—6 毎日記 慶応四年九月〜一二月             一冊
 この年九月一五日に兵政所が設けられ、軍備充実につとめるが、はかばかしい結果をあげたようには思われない。

「                        佐 伯 毅 輔
 右は於大坂英式為習学田代表江被召仕候様被仰付、其後役官をも被仰付置候処、就病気習学は素り役官共御差免之儀願‥‥」
「ゲベール筒之儀百挺余も御在合御座候処、当時専被行候は短螺條銃ニ而、ケヘール筒とハ手続も大分違同有之、第一御国之地験ニ寄候而は長過、御不使用ニも候事故、追々ミネヘール御買入ニも相成可申候得共、折角御備ニ相成居候御筒其儘腐破いたし候も不本意事ニ御座候間、ゲベール之分統而螺條銃同尺ニ為短候ハヽ使用之筒と相成、螺條銃不足之分相補、是迄御備ニ相成居御主意も相立可申評議仕候、猶御賢慮之御差図被仰出被下度奉希候

   十月五日                     兵 政 所
 右御付札
  書面ゲベール筒之儀、‥‥先為試三挺丈為短候様取計、猶此上得失広く詮儀之上可被申出候、以上
   十月九日                     主 政 官
  兵 政 所」
与頭関係H1 大砲方記録                         二冊

 文久二年末に設置された大砲方の御用留である。慶応四年九月まで。大砲方の基本動向を網羅しており、役に立つもの。これは写真撮影した。各巻頭に詳細な目次がある。
                                 (保谷 徹)


『東京大学史料編纂所報』第31号p.68