大日本史料第十一編之二十一

本冊には、天正十三年(一五八五)十月一日から同月十三日までの史料を収載した。
 羽柴秀吉の動向としては、六日の参内と翌七日の禁裏茶会が重要である。秀吉は十月一日に入京し(一日条)、六日には弟の秀長らとともに参内した(六日条)。このとき参内し天皇に対面したのは羽柴秀長・羽柴秀次・徳川秀康・宇喜多秀家・丹羽長重・長岡忠興・織田信秀・津川義近・毛利秀頼・蜂屋頼隆の十人であり、同時に二十人余りが諸大夫に任ぜられた。そして翌日の七日に禁裏で茶会が開かれ、天皇・東宮(誠仁親王)・若宮(和仁王)・伏見殿(邦房親王)・近衛龍山(前久)と秀吉が参加し、千宗易が茶頭をつとめた。その際宗易に利休居士の号が授けられている(七日条)。
 またこの間、十月二日づけで秀吉から島津・大友両氏に対して停戦令がだされている(二日条)ことも重要である。これは両氏が戦いを繰り返していることを非難し、「国郡境目相論」については互いの存分を聞いたうえで指示するから停戦せよとの「叡慮」を伝え、もしこれを守らなければ「成敗」するとしている。天皇の勅を伝えるという形をとりつつ停戦を強要したものであり、秀吉の天下統一の論理を示す早い事例として注目されている。
 ところで九月に秀吉は牛への役銭賦課を禁じているが、牛役銭徴集を咎められて幽閉された薄諸光が、十月五日に秀吉の命で自殺させられている(五日条)。この薄諸光(初名以継)は山科言継の次男(言経の弟)で薄家を嗣ぎ、長く六位蔵人をつとめ、篳篥の名手としても名高かった。享年は三十九歳で、薄家はここに断絶した。諸光は山科言継の実子であるため「言継卿記」に多出し、そこには薄家が紅粉屋公事・牛公事・長坂口黒木公事・青花公事などの権益を保持していたことがみえる。こうした権益を持つ公家であったため秀吉によって処罰されたと考えることもできよう。この諸光は下級の公家であるが、その活動をとらえることは重要なので死没条を設けて史料を提示した。
 十月には前から準備が進められていた伊勢神宮の正遷宮が行われた(十三日条)。十三日に内宮で、十五日に外宮で、それぞれ正遷宮が行われたが、この式年遷宮は、外宮は永禄六年以来二十三年ぶり、内宮は寛正三年以来百二十四年ぶりの正遷宮であった。内宮と外宮の同時遷宮は初めてで、両宮が前後を争い、内宮が先になった事情は、閏八月二十三日条(第十一編之十九)に載せた。
 関連史料は多いが、一般日記の中では「兼見卿記」が、吉田家から一社奉幣の幣使を派遣しているため詳しい。これに続いて文書を年月日順に載せた。内宮関係は「皇大神宮天正十三年遷宮記」、外宮関係は「松木文書」を主とし、「慶光院文書」には、両宮の遷宮費用の内訳が示されている。また「天正十三年造宮記」は、内宮作所藤波氏晴がまとめた、遷宮の経緯を示す内宮側の基本史料である。「外宮遷宮近例」は、遷宮当日の参仕者の名前と役割を詳しく列記したもので、末端まで人名が知られる。遷宮の際社殿に納められる神宝を記したものが「天正遷宮御神宝御装束記」で、その主要部分に読みをつけたものが「天正遷宮神宝読合」である。遷宮は数次の神事より成るが、その際外宮の祓いを執り行った御巫清広による記録が「太神宮御造宮之時七度之御神事之次第」・「太神宮御造宮之時七度之御神事請取申御祝銭之事」である。「天正年中記録」は、外宮作所松木堯彦による、金銭や材木の授受など、遷宮の具体的経過を記した詳細な記録である。総じて内宮関係史料より外宮関係史料の方がはるかに多いのは、当時のみならずその後の両宮の力関係の反映であろう。
 地方の政情に関わる事件としては、十月八日の伊達輝宗の横死があげられる。伊達氏は仙道地方(福島県中通り地方)に勢力を伸ばしつつあり、九月には政宗の攻撃により大内定綱が塩松の小浜城を放棄している。これを見て、定綱と提携していた二本松の畠山義継は、ついに政宗の父輝宗の陣所に赴いて降参の礼をとったが、その帰り際に輝宗の身柄を押さえ、二本松に連行しようとした。しかし、追跡した伊達勢と戦闘状態になり、その混乱の中で輝宗は義継もろとも殺されたのである。享年四十二歳。八日条では事件に関わる史料と、輝宗ほか関係人物の伝記を収めた。
 義継が輝宗を捕らえようとした理由や、戦闘の現場に政宗がいたかどうかについては、史料により各種の説があるが、本編・参考を通覧することでそれらを把握することができる。なお、輝宗は前年十月に政宗に家督を譲っているが、義継の降伏交渉の相手が主に輝宗であったらしいことは、当該期の伊達氏権力の所在を考えるための材料となろう。
 輝宗の伝記としては、その経歴をまとめ、花押・印章・筆跡を図版で示した。また、発給文書のうち年代不明のものを、おおむね受給者ごとにまとめて収録した。内容の豊富なものが多く、時候の挨拶や金品の贈答など軽微なものは、むしろ少ない。
 このほか、輝宗室保春院、畠山義継、殉死した輝宗老臣遠藤基信らについても、簡単な伝記を収めた。なお、既刊分の伊達関係記事に、若干の誤りや見落しが発見されたが、これらについては、本冊巻末に補遺を設けることとした。これにより、天正十年の遠藤基信と柴田勝家の接触や、同十一年の輝宗と上杉家臣色部長真の接触を、明らかにすることができた。また、同十二年の伊達・相馬両氏の講和については、大幅な追加・訂正を行なった。
(目次四頁、本文三七七頁、挿入図版一葉)
担当者 酒井信彦・山田邦明・鴨川達夫

『東京大学史料編纂所報』第31号 p.16**-17