大日本史料第三編之二十四

本冊には、鳥羽天皇の保安元年(一一二〇)正月から、同年七月までの史料を収録した。史料の残存状況の概要は以下の如くである。権中納言藤原宗忠(白河法皇・関白藤原忠実双方からの信任があり、叔母全子は忠実母)の『中右記』が都の政治や記主を中心にした恒例・臨時の大小の記事を録し、除目は『大間成文抄』・『春除目抄』等の詳細な史料があるが、他は『百練抄』等から年代記に近いもの、各行事・伝記のそれぞれの分野の史料で、他は概して断片的である。
 この間の政治は白河法皇の主導下にあり、摂関家は関白忠実が東三条院等の券文を内大臣忠通に伝え(正月二日の第二条、六頁以下)、叙位(正月六日条、七頁以下)・県召除目(正月二八日条、三四頁以下)は忠通が執筆するなど、忠通が重要な位置を占めて来る。
 恒例以外の主な事柄として、法興院の焼亡(正月八日の第四条、二四頁以下)、石清水八幡宮行幸(二月二〇日の条、一三七頁以下)、賀茂社行幸(二月二六日の第一条、一四三頁以下)、元永三年四月一〇日を保安元年と改元(同日の第二条、一八五頁以下)、堀河天皇の死去した堀河院の焼亡(四月一九日の条、二〇四頁以下)、近江大津浜に延暦寺方の立てた鳥居を園城寺方が撤去したことによる両寺僧徒の闘争を白河法皇が公卿を白河殿に会し議させ、法皇が園城寺に元の如く鳥居を立てること、延暦寺に本寺本社に触れず鳥居を立てた者の引き渡しを命じ、両寺の衆徒を平静に復させたこと(四月二八日の条、二一二頁以下)、筑前観世音寺の東大寺末寺化(六月二八日の第四条、二五七頁以下)がある。
 観世音寺末寺化にともない同寺の公験の案文が作成され、大宰府官人の署判を受け東大寺に進上された。この過程を末尾に記した連券・文書は現在東大寺図書館以外にも多数分散して残存している。書写文言及び署判は同じであるので筒井寛秀氏所蔵東大寺文書保安元年六月二八日観世音寺進上公験案目録の最初の碓井封本公験のみ引用し、残りは同目録の配列に従い文書名だけ記し、題籤のみ残存するものはその後に記した。従来の方式で表現したため読み難いものとなった。
 本冊において、その事蹟を集録した者は、法成寺上座法橋隆尊(二月一二日条、一三一頁以下)、阿闇梨静暹(同条)、権律師真尊(五月一二日の第三条、二二八頁以下)、已講兼禅(六月二二日の第二条、二四六頁以下)、伯耆守平忠盛室(七月一二日条、二八二頁以下)、従五位下左近衛将監狛行高(七月一九日の第二条、二九三頁以下)、正二位権大納言藤原宗通(七月二二日条、三二一頁以下)、前木工助藤原敦隆(七月二七日の第二条、三八八頁以下)、已講永範(七月二八日の第二条、四三五頁以下)である。
 狛行高は、祖父光季の子の代で左舞の流れが三分し、父高季の流れで最初に一者となり、鞨鼓を伝え、口伝は尊重された。大神惟季の婿となり笛も相承する。舞の体を得た者として、種々の逸話が多い。なお『教訓抄』巻二・三・七は古い様態を窺わせる鎌倉後期写本である曼殊院本を用いた。
 藤原宗通は、大宮右大臣俊家の男、道長の曾孫、宗忠の叔父である。室は藤原顕季女、その妹五人は大納言源顕雅室などいずれも上級公卿の室であり、女宗子は忠通の室となり、崇徳中宮皇嘉門院聖子を生む。阿古丸と称され、白河上皇の寵愛を受け昇進し、『中右記』に「上皇被仰合万事、仍天下之権威、傍若無人」と記された院近臣である。三河・備後・備中・因幡の知行国主となり、九条ほか各所に邸宅を構え、阿波河輪田荘などの荘園、摂津八部郡の所領(後の九条家領輪田荘)を持つ。摂津の所領は寄進を受け立券する過程の文書があり、俊家以来の流れに所領が集積する動向・仕方に怨念が集まり、もののけが出現したとの『今鏡』の記述もある。彼の行動の史料は『大日本史料』の各所にあるが、伝記史料の末尾に付した連絡按文は、これ等を網羅はせず、政策ないし事柄の決定・実行等の範囲に限った。
 藤原敦隆については、死去を伝える『中右記』の記事中の「肥前守俊清男」という世系上の位置に相当する人物は、系図上には見出せないが、伝記全体の引用した史料から、通説の如く本姓は橘氏で藤原氏を称したとして処理した。彼の編書は『類聚古集』・『和歌類林』等があり、詩・来迎賛を作り、史料を整序するなどの面での業績がある。歌は勅撰集に収められず、『八雲御抄』に「雖為好士、非指歌人歟」と評されているが、源順の後、所謂次点本の書写・研究者として、初めて『万葉集』を部類分けした『類聚古集』(その五分四の平安末書写本は現在竜谷大学所蔵、一九一三年影印刊行)に見られる類聚編集の作業には禁欲的な尽力の様が窺える。この書の各巻の巻首目録と本文との異動については一九七四年縮刷再版『類聚古集』に付された小島憲之「『類聚古集』項目索引」を参照した。
 また荘園に関する事項では、国立歴史民俗博物館・荘園データベース研究会編『日本荘園データベース』を利用したところがある。
(目次一三頁、本文四三六頁)
担当者 岡田隆夫・上杉和彦

『東京大学史料編纂所報』第31号 p.15-16