東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 十五

本冊には、細川忠利文書の内、細川光尚宛書状及び稲葉正利宛書状を収めた。
光尚宛書状は、寛永十八年一月から忠利死去直前の三月十日までの九通と、補遺として寛永十二年から同十六年分及び年末詳分六〇通である。これで細川忠利書状のうち、第十三冊から収載を始めた細川光尚宛書状(二十五印より三十二印と天印二十七番より天印三十一番まで)は完結した。また、補遺の内、寛永十四年十一月から正月までの五通は、松井文庫所蔵松井文庫のうちの本来細川家に原本が存在したと推定される忠利文書案文を収めた。
光尚宛忠利書状の最後となった寛永十八年三月十日付書状(一四一一号文書)では、書状の裏に自筆で「右のてくひより手なへ申す計ニ侯、しに可申様ニハ無之候、可心安候、以上」とあり、深刻な病状にもかかわらず、光尚が心配しないように楽観的な姿勢を保っている。だが、この七日後、忠利は歿することになる。
この文書は図版としても収めた。また、巻頭には、寛永十五年九月の細川光利(光尚)書状并同忠利勘返を収めた。
稲葉正利宛書状は、寛永十一年から同十七年まで及び年未詳分の三四通である。このうち原本は、四十三印として整理されていた三十三通のうちの第二十二番文書(松平信綱書状)を除く三十二通の正利宛忠利書状であり、残り二通は『部分御旧記』より案文を補った。また、『部分御旧記』と『公儀御書案文』から、正利関連の榊原職直并堀直之宛書状二通及び井伊直孝宛書状一通及び松井興長外二名宛書状一通を、忠利書状の通し番号で収めた。さらに、この稲葉正利宛書状には、松井文書及び『部分御旧記』から参考史料として十点を付し、付録として永青文庫「神雑一」分類中より稲葉正利関係史料三二点をも収めた。
稲葉正利は、春日局の三男で、幕府年寄として家光から期待をかけられながらも寛永十一年正月に病死した稲葉正勝の弟にあたる。正利自身は初め徳川忠長に仕えたが、主君忠長は兄家光によって除封され(九年十月)、さらに配流先の上野国高崎で命を絶たれた(十年十二月)。十一年三月、正利の身柄は高崎より肥後へ移され、春日局と関係の深い細川忠利の預かりとされた。この措置は、春日局と稲葉正勝から細川忠利へ頼まれていたことであり、内々は家光も了解していたようである(忠興文書一一七七号、忠利文書七一二号)。このとき正利は三十九歳、主君が非業の死を遂げたあとに残された心中は計りがたい。
正利は、最初熊本京町幸永寺に着いたのち、菊池郡の隈府に入った(〔付録〕一二)。肥後へ移ってしばらく問題は生じなかったが、寛永十二年春に肥後国内を自由に歩けるように要求してそれを断わられた頃(一四七八号文書)から内面の欝屈が表出し始める。寛永十三年正月の忠利書状(一四八三号文書)で、忠利は「御心まゝに候よし」である正利を諫め、「きやうぎ(行儀)を御たしなみなく」ては、江戸に悪い評判が伝わり、「公儀ヘハ日本にもまれなる御心まゝなる御人と思召」になり、ついには「御身のつまり」になると、注意を喚起している。そして、今我慢していれば、後には「日本ニ無之らくなる御身」になるのだからと説得している。だが、家臣を引っ張り切りにする、隈府の市に乱入する、鉄砲法度鷹場で発砲する等(一二一〇号文書・一四九三号文書等)の正利の不行跡は続いた。忠利は、稲葉一門の意見も引合いに出しながら「慎み肝要」を説き続けている(一四八四・一四五八号文書等)。同十四年春、正利は、独断で熊本城下へ出かけた(一四九四号文書等)。熊本には、斎藤利宗(春日局兄)の女婿である松下市之進が細川家臣として在住しており、彼と、熊本に来ていた稲葉正則(正勝子、小田原藩主)の使者薗部四郎右衛門の両人が事態の収拾にあたり、以後は熊本に置かれることとなった。その間も、正利は押し込められた寺の屋根に上るなど奇矯な言動を繰り返し、忠利をして「狂気と申侯而少しも不苦侯へ共、左様にも極り不申候」と首を傾けさせている(一四九八号文書等)。これを耳にした春日局は、正利が自害すべきことを示唆した。また、正勝の遺言としてあった正利を町人とすることも検討されているようである(一五〇〇号文書等)。
寛永十八年の忠利の死去後も、預人正利について熊本藩が関わった問題は続いた。その関係史料を付録として収めた(稲葉正利関係史料)。寛永十六年頃生まれた一子三内(熊本新二丁目町人惣兵衛の肝煎りで長崎から物師女の名目で呼ばれたいわ女との間に出生)の処遇については、慶安二年に、稲葉正則と細川光尚の問で引取りについて何度かの相談がなされている(〔付録〕四)。その他の史料は、三内の死去(明暦二年)・正利乳人の死去(寛文二年)・正利本人の死去(延宝四年)時の、遺物の処置や稲葉家からの使者の接待等に関わるものが中心である。近世前期の預人の具体相を知るための史料としても活用されることが望まれる。
巻末には、忠利の花押の典型的なもの、及びローマ字青印を収め、参考として細川光尚の花押を載せた。
(例言二頁、目次一五頁、本文二九四頁、人名一覧二六頁、図版二葉)
担当者 山本博文・小宮木代良


『東京大学史料編纂所報』第31号p.17