大日本史料第七編之二十七

本冊には、応永二十四年二月〜八月に関する史料を収録した。
公家関係では、二月十一日条に「伏見宮治仁王薨ズ、貞成王嗣グ」とある。伏見宮家では、前年の応永二十三年十一月二十日に栄仁親王(治仁王や貞成王の父)が薨去して(七編之二十五)、治仁王が相続していたが、ここに僅かに二ヵ月余りで治仁王が薨じたのである。治仁王は、その間、父祖の法事に努めていたが(崇光天皇年忌予修=十二月十二日条、栄仁親王月忌=翌年正月二十日条)、何しろ彼自身、中風などを患っており、さほど事蹟を残すことなく没した。ここに伏見宮家は、貞成王(のち貞成親王)の代となる。以後、貞成には多くの事蹟が見え始めるが、本冊では、特に八月二十八日条「伏見宮貞成王、伏見即成院ニ御文書櫃ヲ点検アラセラル」を挙げられよう。当時、伏見宮家が有した文書・典籍類を総覧できる。
 一方、武家側の事項としては、前年来の上杉禅秀(氏憲)乱の影響が強く残っている。四月二十四日条に「足利持氏、近国ノ国人等ヲ徴シテ、常陸稲木城ヲ攻メシム、是日、同城陥ル」とあるように、北関東の常陸付近にはなお反持氏勢力が残っていたようである。そのためか足利持氏としては、常陸の鹿島社(二月十六日条)や吉田社(同月十九日条)に禅秀�退治�の祈祷を命じたり、常陸国北条郡宿郷(上杉禅秀跡)を鎌倉松岡八幡宮に寄進して�天下安全、武運長久�を祈らせている(閏五月二日条)。また管領上杉憲基については、三月三日条に「去年十月以後ノ関東兵乱戦死者追善ノ為メニ、常陸信太荘久野郷ヲ円覚寺正続院ニ寄進ス」、五月十八日条に「伊豆南条郷浮橋村ヲ同国三島社ニ寄進ス」などと見え、管内の所領を有力寺社に寄進している。さらに持氏は閏五月二十五日条「上杉憲基ニ上野・伊豆両国闕所分ヲ安堵ス」とあり、これは七月四日に将軍足利義持によって再安堵されている(同日条)。
 寺社関係では、五月十三日条「足利義持、肥後阿蘇惟郷ノ請ニヨリ、同国阿蘇四社大宮司職及ビ同社領ヲ安堵ス、尋デ九州探題渋川満頼、コレヲ施行ス」は、阿蘇社(肥後国一宮)の事例だが、当時の地方有力社の宮司職・社領安堵についての複雑な手続きを具体的に示した恰好な史料群といえよう。禅宗関係では、二月十四日条「伊豆林際寺開山道秀寂ス」で多くの史料を収載した。担当者として道秀ゆかりの永源寺町(滋賀県神崎郡)に赴き(『史料編纂所報』二五号参照)、永源寺では〔瑞雲山永安禅寺多宝塔供養法語〕などを撮影、本冊でこの全文を翻刻し、この道秀の印章を〔印章彙纂〕に用いて提示した。また隣接した興源寺では〔松嶺道秀画像〕を撮影して、本冊に挿入図版(カラー)として掲載した。永源寺と興源寺の格別なご配慮に、謝意を表する。
 なお七月二十三日条「東洞院仙洞御所ニ朝覲行幸アラセラル」に〔行幸部類記〕(京都帝国大学所蔵)を収録した(二五一頁)。この史料は、大正十五年に本所が調査を行なった際は確かに「京都帝国大学文学部」に所蔵されていたが(『史料蒐集目録』一八三)、現在、その原物の所在を確認することができないのは残念である。なお、一四一頁・二〇五頁収載の〔満済准后日記〕を�宮内庁書陵部所蔵�としたのはケアレスミスで、�国立国会図書館所蔵�と訂正すべきである。
(目次一八頁、本文三五〇頁、挿入図版一葉)
担当者 山口隼正・榎原雅治

『東京大学史料編纂所報』第30号 p.13*-14