東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 言緒卿記 上

 本書は、参議山科言緒(一五七七−一六二〇)の日記である。自筆原本全十六冊は史料編纂所に所蔵されており、慶長六年(一六〇一)正月から元和五年(一六一九)十二月に及ぶ。本冊には前半部慶長十九年までを収録した。
 言緒は、天正五年(一五七七)二月二十一日、権中納言山科言経(その日記は既に『大日本古記録 言経卿記』全十四巻として刊行を終えた)を父、権中納言冷泉為益の女を母として生まれた。三歳の天正七年正月叙爵されるが、同十三年六月父言経が勅勘を受けて出奔するとそれに従った。やがて徳川家康の執り成しによって父子共に勅勘を赦されたのは二十二歳の慶長三年十一月であった。翌四年十二月家の例として内蔵頭に任ぜられてからは、父と共に禁中ならびに院等への参仕を始め、家業として天皇や上皇の装束調進にあたり、また衣文奉仕をし、さらに武家へも同様の奉公を行っている。
 言緒は家業の維持に腐心したが、特に言経が慶長十六年二月に没した後は、高倉永慶との利害の衝突に悩まされた。同十七年七月永慶が天皇の冠を取り次ぐと、その非を近衛信尹等に訴えて、以後御服方の取次を高倉家に仰せ付けないとの確約を取り付けている。これは駿府へ下向し家康に訴えてでもという言緒の姿勢が功を奏したのであろう。しかし同十九年十二月には再び永慶が上皇の烏帽子はカタヒタヒであると言上し、言緒はモロヒタヒであると反論せねばならなかった。この時も、高倉家から上皇の烏帽子を調進した例は無い事を申し添えて、今後とも山科家から調進すべしとの仰せを引き出している。この部分を巻頭図版第二葉に収めてある。
 また反目しあう後陽成上皇と後水尾天皇の間にあって、両者に無事仕える事にも腐心している。なお慶長十六年三月退位した後陽成から新天皇に引き継ぐべき歴代の宝器の引き渡しは、家康の命を受けた言緒・中院通村・舟橋秀賢らが使者の任に当たって、翌年七月に実現した事も記事に見える。この部分は巻頭図版第一葉に収めた。
 大坂冬の陣に至る豊臣と徳川との確執がもたらす畿内の不穏な情勢や、公家衆の徳川方への陣中見舞いの様子、元和元年に公布される禁中並公家諸法度に先駆けて徴収された誓約書や、歌舞伎踊り・伊勢踊り・能楽など芸能関係、古文真宝講釈など学芸に関する記事も多い。
 (例言四頁、目次二頁、本文三〇二頁、花押一頁、巻頭図版二葉、岩波書店発行)
担当者 田中博美


『東京大学史料編纂所報』第30号p.164